自然への恐怖心という遺産
今村 宏之
春の香に眠気を誘われる季節だが、冬のはなしをしようとおもう。
私の実家は青森県の日本海側にある。日本でも有数の豪雪地帯だ。1日に1m以上も積雪ることもある。何年かに一度は、酔いつぶれたおじさんが道ばたで凍死した、とかいうニュースを耳にしていた気がする。
しかし、寒さがゆえに死にかけた、という経験は私にはない。降り積もった大量の雪は、行政が大金をかけて処理してくれる。ちなみに、今季の冬は約37億円かかったようだ。
ありがたいことにメシに困ることはなかったし、遠出するときは自動車。
実家にいたころより、東京に出てからのほうが歩いているような気がする。
残念ながら、都会のひとが期待するような雪にまつわる民話が実家にあるかどうか、私は知らない。だれも語りたがらなかったのか、語るべき逸話がなくなってしまったのか、それはわからない。生まれたときから文明のなかで生活している私でも、雪の脅威をからだでなんとなく感じることはできる。しかし、経験知に支えられた「なにをどうするとどう危ないのか」を引き継いだ覚えがない。せいぜい、「冬は、つららが危ないので軒下を避ける」くらいだ。
自動車や鉄道で暖をとりながら移動することを覚えてしまった私は、雪がいのちをうばう、という可能性をわすれてしまった。雪に抱かれ、雪とともに暮らす能力は、私にはない。
雪に閉ざされた生活からはなれて久しい。
実家を離れて7年が経つ。今、私はインドネシアのジャワ島で留学している。
ここは、森が多い。都市生活のなかで、樹木はインド洋からの南風に揺れる。森に棲むトラやオオトカゲがひとを襲う地域からは遠い。
しかし、いったいどういうわけか、「樹木の下には幽霊がいる」というお決まりの文句がある。「ちょっかいを出されたくなければ、幽霊のいる樹にちかづくな」というアドバイスを受けることすらある。
代々受け継がれてきた森に対する恐怖心が、思わぬ形で発露されているのかもしれない。
今村 宏之/いまむら ひろゆき