人の生は気の聚まれるなり

「久高オデッセイ第三部 風章」制作ノート01

大重 潤一郎

 

 

 

2004年脳卒中で倒れた。右半身麻痺という後遺症を患った7,8割の人は失語症になると言われている。幸い自分は奇跡的に言語を取り戻した。しかし、死にたいと思う程の痛みは、長く続いた。こんにちでは、かつて程の痛みはないが、この病との付き合いは8年目になり、自分なりの付き合い方ができるようになった。しかし、日常の出来事を記憶にとどめること、つまり脳を使う作業が出来にくくなり、思いついたことは近くの人にメモを残すように頼むなどして対処している 。長年培ってきた勘は働く。ものごとの判断を信じることができるから、今後の制作は大丈夫だろう。

2009年3月、「久高オデッセイ 第二部 生章」完成から、既に約4年の月日が流れている。2011年の震災で世の中の動きが変化したこと、持病の治療が続いていたこと、第三部にむけての体制が自分一人では作れなかったことが重なり、しばらくの期間が空いた。しかし、「久高オデッセイ三部作」は、2002年から12年間で制作すると決めていた。それは、かつて久高島をよく訪れていた亡き写真家・比嘉康雄さんの遺言を引き継ぎいで始まった映画であり、久高島でかつて12年に一度行われていたイザイホー(神女の誕生儀礼)のサイクルに基づいて撮影することは、自然の成り行きだった。2014年のイザイホーの最終日をクランクアップの日とし予定している(2014年度の祭祀予定は未定である)。幸い、2012年末から若いスタッフが集まり、久高オデッセイ第三部「風章」のチームが今、新たに出来上がりつつある。全て自然の流れである。

 
第三部のテーマは主に二つに絞っている。

一つは、ニライカナイから見た久高島である。ニライカナイから見た視線というのは、神の視線でもあり、海人の視線でもある。その視線が、どのように島の内部にまで繋がっているかを見る試みである。

もう一つは、島に息づく小さな命である。 高齢化の一途を辿っていた久高島であったが、近年、一人、また一人と子どもの誕生という吉報が届いた。 親が子どもへ島のことを伝えていくすがたや、島全体が島の子どもとしてどう育てていくかを記録していきたい。

久高の人たちは、島の大地と、島を囲うイノー(珊瑚礁)と、海と、共に暮らしている。大地と水の循環を知って初めて島の命を紡ぐことを続けられるのだろう。イノーに刻まれている道の記憶、追込み漁での潮の読み方、 神々から借り受けた大地を日々耕す姿、後世に語り継ぐべきことを島の人々と探りたい。

 

 

久高オデッセイ第三部「風章」の進行状況と共に、私なりの生き方の模索について記す。テーマは「生命の未来」である。私は予てから、命には自由が必要だと思っている。本来の命は、自由がなければ存在しない。果たして現代は自由だろうか?

太古の人々は、太陽と月と共に暮らしていた。人間に限らず全ての命が、月と太陽によって生かされていることを知っていた。満潮時に多くの命が誕生し、干潮時に多くの命が息を引き取る。月の満ち欠けは女性の身体にとって最も大切なことの一つであるし、潮の満ち引きは大地の呼吸と繋がっている。ことほどさように、生と死の繋がりを知っていた。命は理屈ではない。自然の働きは自分の命なのだ。また、自然の働きを知っている彼らは、自分の生活に直接関わることのない大いなるものには手を出さなかった。里山に暮らす人々は山の5合目以上には足を踏み入れなかったし、沖縄でも聖域については身体で解り、特別な時以外は出向かなかった。目の前の出来事で判断するのではなく、大いなる自然を崇拝し、生かされていた。

縄文時代から徐々に組織が大きくなり、その大きさに比例して権力者以外の命にとっては不自由な社会となる。 戦争時代には 「お国のために」というスローガンが全国民の心に強いられ、「自由」は失われた。人間が自然に寄り添う生き方は、いつの間にか、人間が人間を、人間が自然をも管理しはじめ、戦後、経済的利潤の追求を第一の目的とした国となった。いまも尚、お金がものをいう時代であることは残念ながら変わらなく続いている。活性化されていたと言われる高度成長期には、ダムやトンネルの建設が相次いだ。原子力発電所も然りである。

高度成長期と呼ばれる時代はいつしかすぎ、経済はどこかおかしな一路を辿っている。そして、その矢先に原発事故が起きた。安全神話は私たちの脳から消えた。経済や自然環境に目を向け始めている若者が多く出てきた。戦後から今に至る国家の流れを止めようという意志のある若者だ。そこにいま、私は時代のうねりを感じ始めている。わずかながらも希望がある。

今、本当に必要なことは、深く物事を見る力だ。一人一人が自ら生命を活性化させ、自分の命の主役にならなくてはならない。自分が生きること、それこそが命だ、と私は若い世代に伝えたい。

 
「人の生は気の聚まれるなり、聚まれば則ち生となり、散ずれば則ち死となる」(荘子「知北遊篇」より)

 
(インタビュー 2013年4月9日/文責:高橋あい)


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映画は、2013年6月頃の梅雨明けから撮影を開始します。撮影は、長年一緒に仕事をしていた堀田泰寛キャメラマンに一任することになりました。自分の作品を理解してくれている堀田さんが引き受けてくれたことは、心強いことです。そして、2014年一杯で撮影を終え、2015年夏頃、自由大学にて完成披露会を行うことを目標としています。

 

上映会は、昨年度に引き続きNPO法人東京自由大学にて連続上映会を予定しています。第一回目は、5月12日13時より、東京自由大学にて行います。「久高オデッセイ第一部結章」とグループ現代監修「自然農〜川口由一の世界 1995年の記録」の二本立てです。 両作品とも堀田キャメラマンが撮影した作品となります。独特な語り口である自分の作品と、グループ現代・小泉修吉さんの作品が、堀田キャメラマンの視線でどのように結ばれるか、企画者にとっても挑戦となりますが、是非足をお運び下さい。お茶をご用意していますが、何分長時間となりますので、リラックスして鑑賞して頂けたら幸いです。

 

編集、上映会までの期間を含めますと2年以上の制作となり、資金が必要となっております。協力券や上映権のご購入、今までの作品の上映会企画など、皆様のご協力をお願いできたら幸いです。協力金のお願いにつきましては、追って「久高オデッセイ風章」特設ホームページなどで告知して参ります。引き続き、どうぞ宜しくお願い致します。

 

 

 

大重 潤一郎/おおしげ じゅんいちろう

映画監督・沖縄映像文化研究所所長。NPO法人東京自由大学副理事長。
山本薩夫監督の助監督を経て、1970年「黒神」で監督第一作。以後、自然や伝統文化をテーマとし、現在は2002年から12年の歳月をかけ黒潮の流れを見つめながら沖縄県久高島の暮らしと祭祀の記録映画「久高オデッセイ」全三章を制作中。久高オデッセイ風章ホームページ