「歩けども 歩けども」 Vol.1

浜田 浩之

 

 

 

私は、東京自由大学ユース企画の「大重潤一郎監督作品連続上映会」を担当している、横浜市在住の42歳である。20代から印刷,デザイン関係の仕事をしてきたが、東日本大震災以降、これまで通りの生活を続けることに疑問を持ち、会社を退職した。被災地のボランティアに参加したりしながら、在職中に通信教育で学んでいたデザイン系の大学をこの春に卒業し、これを期にフリーのグラフィック・デザイナーとして活動していこうと考えている。

私は、歩くことが好きで、朝起きると、散歩に出かけ、住んでいる団地周辺の小さな神社や稲荷、お寺に参拝しながら1時間くらい歩く。バスや電車を使うような距離でも、時間があれば歩いたり走ったりする。そのため、靴は1年くらいで踵がすり減ってしまう。
最近、近所に珍しく下駄をたくさん置いている店を見つけた。そのシンプルで暖かみのある形に魅かれて中に入ると、店のお婆さんが面白い人で、下駄について熱心に色々と教えてくれる。そこで、昔ながらの二本歯の下駄を購入し、履きつぶした靴に替えて、近所は下駄で歩くようになった。カランコロンと音をたて、風を感じながら下駄で歩くのは気持ちがいい。

このコラムでは、歩くことを通して、見たことや感じたことなどをお伝えしていきたい。

3月30日(土) 

和歌山・熊野修験葛城二十八宿経塚巡行/加太~友ヶ島~加太~松江
山伏を先達に歩く、「熊野修験葛城二十八宿経塚巡行」に参加した。以前から大峰奥駈けなど、修験道の歩く修行には興味を持っていた。東京自由大学ユース企画の高橋あいさんから案内が届き、一般でも参加できることを知った。
案内には、「葛城二十八宿とは、西は紀淡海峡友ヶ島から東は金剛山、さらには北の大和川亀の瀬まで連なる葛城の山々に、法華経二十八品になぞらえてつくられた行場のことです。修験道の開祖・役小角がその山麓で生まれ育ち、幼少から修行された歴史ある行場であるとともに、大峰と並んで古くから行者には必修の行場として知られてきました。
法華経二十八品を納経したといわれる経塚とその周辺の行場を巡るだけでなく、法華経の理解を少しでも深められるよう、各経塚においてその巻の簡単な解説と経文の一部の読誦を試みています。」と書かれている。二十八の経塚を1年(のべ16日)かけて巡行し、今回は、2日間で第1から第3経塚までを回る。未知の山々を歩きながら、修験道や法華経について学べることに強く惹かれて、参加することにした。
8時半頃、和歌山市の加太港フェリー乗り場に集合する。参加者は20名余りで、大阪や和歌山の人が中心だが、東京方面や下関から来ている人もいる。何度も参加しているメンバーが多い。山伏の先達は7、8名。参加者は「南無大師遍昭金剛」と書かれた白い遍路服や白足袋を履いている。私も白足袋に履き替えた。
9時発のフェリーで、友ヶ島へ向かう。約20分で野奈浦桟橋に到着し、先達を先頭に一列で歩き始める。先達は、歩きながら法螺貝を順番に吹き鳴らす。先達や参加者は、鐘を身に着けていて、歩くたびに「チリーン」と高く澄んだ音が響く。
友ヶ島は、最も大きな沖島、細い歩道でつながっている虎島、近接する神島、少し離れた地ノ島からなる無人島である。バーベキューやキャンプ目的の観光客が訪れる。戦時中に作られた砲台や地下壕などの戦跡もある。
熊野修験にゆかりのある、石碑や石像などの前に来ると、担当者の花井淳也さんが説明し、続いて勤行を行なう。一人の先達が法螺貝を吹き鳴らし、他の山伏がそれに続く。そして、金属の輪をつなげた鳴り物を「シャンシャン」と鳴らしながら、般若心経や真言、経塚では、法華経も唱えていく。
海岸の険しい岩場を歩く。先達の後に続いて、道らしい道もない岩場に取りついて、一つずつ越えていく。そんな場所でも、先達の花井悟明先生はニコニコして参加者を見守っている。70歳は越えていると思われるが、健脚、朗らかで声が大きい。長い急斜面を1本のロープにつかまって登っていく。海岸を歩く修験道は、珍しいのではないだろうか。足袋を履くのは初めてだったが、地面の変化が細かく伝わってきて、裸足で歩いているようだ。海岸には漂着ゴミも目についた。大阪方面から流れてきているという。

深蛇池(しんじゃいけ)〜閼伽井(あかい)跡〜序品窟〜観念窟などを回り、13時半のフェリーで加太に戻る。加太から再び巡行開始。市街地から山の方に向かって歩いていく。移動の最中に花井淳也さんや他の人が、熊野修験の成り立ちや活動について説明してくれる。「大峰奥駈け」などの峰を回る行に対して、「熊野修験葛城」は、山と里をつなぐ行であるという。かつて葛城二十八宿は、修行がさかんだったが、明治政府の廃仏毀釈で途絶えてしまっていた。現在の活動は、25年ほど前から始まり、山中の経塚跡などの探索を続けながら復活させてきた。葛城二十八宿の一帯は今も信仰が篤く、小さなお堂で勤行をした時に、地元のお婆さんが涙を流して喜んでくれたこともあるという。
山道を、阿伽井光福寺地蔵堂〜弁天社〜神福寺跡第2経塚〜明鏡山慈眼院と、夕方まで回って山を下り、宿の「円満食堂」に着く。宿泊するのは8名位。夕食では、食前に般若心経を唱える。食後は、コンビニで明日の食事の買い出しをして、部屋に戻って今日の事をメモした。海岸、市街地、山と歩き続け、さすがに疲れた。風呂に入るのも面倒で、すぐに寝てしまった。

3月31日(日) 箱作~大福山~孝子
5時半に車に分乗して出発し、波太(はた)神社前で降りる。今日の参加者は、10名余り。挨拶の後、鳥取戎(とっとりえびす)神社と波太神社を参拝する。波太神社は、広い境内に弁天を祀る池もある、立派な神社だった。重厚な社殿の前では、扇子や刀を持って、中国拳法か踊りの練習をしている人や、太極拳をやっている人がいた。後で延喜式に記載され、織田信長からも尊崇された、大阪府内でも格式の高い神社の一つであることを知った。
再び車で移動して、南林寺で勤行し、鳥取池から歩き始める。山は、400m位の低山だが、アップダウンの繰り返しが多い。風が冷たく、雨が降ったり止んだりしている。尾根への登り坂を歩いている時、先達が「ロッコンショージョー!(六根清浄)」と大声をあげ、皆は「ザーンゲザーンゲ!(懺悔、懺悔)」と応えながら歩いていく。途中で、足を痛めたり、体調を崩す参加者が出るが、先達は励ましたり、休憩時間にマッサージをしたりして、参加者の体調に細かく気を配っている。山中には、山桜、椿、足元には紫の小さなスミレが咲いている。

先達の藤原さんは、勤行の度に熊野修験葛城の名前を書いた木札を置いていく。藤原さんは達筆で、サンスクリット語も含めて、木札の字を全て書いているという。俎石山(まないたいしやま)の休憩所の眼下に、関西空港、淡路島など大阪湾の景色が広がる。山間部の中に住宅地がところどころ見えるが、これは、関西空港の埋め立てのために山を削り取り、そ
のあとに造成されたものという。
ルート以外の道を探索することもあった。先達が何人か別行動で、谷を下りていくことになり、自分もついていく。30分位下ったところに、弁天窟という大きな岩と小さな祠の場所があった。そこにも木札を奉納して勤行し、もとの道へ戻った。先達たちは、新しい発見があったことを喜んでいた。
大福山の第3経塚で勤行の後、尺八を持参していた参加者のおじさんが、「大峰」という演奏を奉納した。低く渋い尺八の音色が、風の音や、ウグイスの鳴き声などと一緒に山中に響いた。この曲は、尺八の師匠が作ってくれたものという。去年の東京自由大学の東北夏合宿の時、浄土ヶ浜で参加者の若い女性が、龍笛を演奏してくれたこと思い出した。
大福山から札立山〜千間寺跡〜高野山を回って山を下り、役行者の母の墓所がある、高仙寺(孝子観音)に着いた。18時頃、「禁殺生」という石碑のある門の前で、先達の挨拶のあと解散した。帰路、花井悟明先生から、修験道のお話を色々と伺うことができた。20時頃、大阪駅着。リニューアルして間もない最先端建築の大阪駅で、山伏姿の花井先生と別れた。
夜行バスに乗り、翌朝の9時過ぎに新宿に着く。渋谷駅まで歩く途中、若い新入社員風の人が多く目につく。そういえば、昨日は年度の最終日。「熊野修験葛城」は、年度の締めくくりに相応しい経験だった。

4月10日(水) 千葉県・佐倉「DIC川村記念美術館」
DIC川村記念美術館で開催している「BLACKS  ルイーズ・ニーヴェルスン|アド・ラインハート|杉本博司」展を見に行く。前日の23時頃、佐倉駅に到着して「佐倉第一ホテル」に宿泊。朝5時頃起きて、ホテル周辺を散歩する。駅近くを流れている川は、あまりきれいではなかった。土地の印象は川や海の要素が大きいと思った。ホテルに戻り、9時頃チェックアウトして、駅から離れた場所にある、DIC川村記念美術館に徒歩で向かう。
途中の神社などに寄り道しながら、佐倉街道沿いを歩く。出羽三山参拝の記念碑を多く目にする。街道周辺は畑と森林が広がっていて、大企業の工場も多く、大型トラックがひっきりなしに通り過ぎる。街道沿いにラーメン屋が点在して、ところどころに高圧線や携帯電話中継の鉄塔が建つ、単調な風景が続く。
2時間位歩き、昼前にDIC川村記念美術館に到着。美術館周辺は、畑に囲まれている。広い敷地内には、人工池や自然散策路が整備されて、四季を通じて花や散策も楽しめるようになっている。人工池にはガチョウのような鳥も放し飼いにされていた。
美術館では、始めにコレクション作品を観る。印象派、抽象画、シュルレアリスム、ジョセフ・コーネルの立体作品など、近現代を中心に著名な作家の作品が並ぶ。作品規模も、小さな彫刻から視界を覆うような大画面の絵画まである。画一的でない、作品に合わせた展示方法に、コレクションを大切にしていることが伝わってきた。館内も作品に合わせて設計されているように見える。作品との距離が近く、顔を近づけて見ることができる。
企画展「BLACKS」は、黒い作品が特徴の作家の立体・絵画・写真を集めた展覧会だ。ルイーズ・ニーヴェルスンの立体作品は、家具の廃材など様々な形態がつなぎ合わされて四角い箱に納められている。それらが、すべてツヤのない黒で塗装されていて、薄暗い照明の中で複雑な陰影や闇をつくり出している。アド・ラインハートの絵画は、一見すると黒一色の画面が、よく見ていると微妙な濃淡や色彩の違いが浮かび上がってくる抽象画。杉本博司の写真は、映画を上映しているアメリカの劇場を、長時間露光で撮影した「劇場」シリーズ。どの作品も斬新で、色彩の無いことを感じさせない深い魅力があった。
都市の喧噪を離れた場所にあること、作品に合わせた展示方法、特徴のある建築など、直島の地中美術館に共通するものを感じ、遠くから来た甲斐があった。公立と私立の美術館の違いが印象に残った。
美術館から四街道駅まで1時間半位歩く。特に目をひくものもなく、黙々と歩き続けた。駅に着く頃には、車の排気ガスと騒音で、目と耳が痛くなった。四街道駅から佐倉駅に戻り、国立歴史民俗博物館まで歩く。坂を上った山の手には、漆喰の壁と瓦屋根の古民家や、武家屋敷も残っている。途中、佐倉総鎮守という麻賀多(まかた)神社に参拝。この辺りは、落花生や味噌が特産らしく、専門店がある。
15時半頃、国立歴史民俗博物館に着き、「民俗」の展示と、特集展示「東日本大震災と気仙沼の生活文化」を見る。博物館からは京成佐倉駅が近く、京成線と京浜急行線で横浜へ帰った。

4月14日(日) 東京・上野原

「六つ星山の会山行  生藤山(しょうとうざん)」
「六つ星山の会」は、視覚障害者と共に登山を楽しむために、全国に先がけて始まった山岳会で、30年の歴史がある。ハイキングのような山ばかりでなく、本格的な登山も多い。昨年の新聞記事で、晴眼者のサポーターが不足していることを知り、一緒に山を歩くことで役に立てるならと思い、参加するようになった。上野原駅に9時半ごろ集合する。参加者は約40名で、視覚障害者は3分の1くらい。盲導犬を連れている人もいる。バスで登山口へ向かう。バスの中は、これからの山行への期待で賑やかだった。
 
石楯山神社前で下車。4つの班に分かれて登り始める。3人1組で、視覚障害者を前後でサポートしながら歩く。前を歩く人のリュックには、サポート用のロープが付けられていて、視覚障害者は、このロープに軽く掴まって歩く。後ろの人は、足元や頭上の障害物に気を配る。杉林の中、山吹の黄色い花と、足元には薄紫のスミレの小さい花が咲いている。尾根道は山桜の並木になっていて、まだ咲いているものもある。それらの周囲の状況を視覚障害者に説明しながら進み、時々立ち止まり、木や花を触ったり、匂いを嗅いだりする。晴眼者と視覚障害者ともに登山を楽しんでいるので、会では、ボランティアという言葉は使わない。
三国山あたりから、登山初心者の視覚障害者の男性がバテ始める。彼を最後尾に移して、私が前のサポート、後ろのサポートにベテランが付いた。頂上手前からは、足場の悪い急斜面をジグザグに登る難所になった。男性は、足がフラつき、岩や根に躓きながら進む。後ろのサポートは、「右足出して!○センチ上!」など、状況を細かく伝えながらアドバイス、サポートをする。前の列は、かなり先へ行ってしまった。悪戦苦闘の末、13時半頃、生藤山山頂に到着。先に到着していた皆が拍手で迎える。山頂は広くなく、眺望も木に遮られたり、モヤがかかっていたりで、それほど良くなかった。短い休憩の後、上りとは別ルートで下山する。
下りでは、後ろのサポートは、視覚障害者のリュックに付けたシュリンゲというロープを持って、滑り落ちないようにする。急な下りがいくつも続き、慎重に通り抜ける。さらに1時間くらい下っていくと、川の音が近くなり、建物の屋根が見えてきた。建物は軍刀利(ぐんだり)神社の社殿で、脇に清水が流れ、社殿の前にご神木の巨木が鎮座している。ここで休憩し、水を汲んだり、神木の周囲をまわって、眺めたり触ったりする。神木は桂で、天然記念物に指定されている。根元から太い幹が何本かに分かれ、細い幹も無数に出ていて、木の表面には苔が生えている。木の周囲は、手を広げて7・8人分はありそうだ。
神社の先から、道が広くなり住宅地に出て、16時に井戸バス停に到着。タイミングよく発車するバスに乗り込む。車内で山行担当者から挨拶があり、上野原駅で解散。駅前の居酒屋で乾杯する人、真っすぐ帰る人などに分かれていった。

 

 

DIC川村記念美術館 http://kawamura-museum.dic.co.jp/
六つ星山の会 http://www.mutsuboshi.net/

 

 

 

浜田 浩之/はまだ ひろゆき

東京自由大学ユースメンバー。京都造形芸術大学通信教育部情報デザインコース卒業。フリーのグラフィック・デザイナーとして活動の傍ら、視覚障害者支援などのボランティア活動を行う。