境界をめぐる冒険
Ⅹ 喜界島トリニティ③ 天空へ抜ける洞穴

辻 信行

 


 煌々と地上を照らす三日月が、南風にざわめくサトウキビの葉で、淡やかな影絵を描いている。オリオン座の三つ星は強かに光り放ち、そこがまるで、天空世界の核家族的ユートピアを具現しているかのようだ。もし高村智恵子がこの島を訪れていたら、「東京には夜空がない」と言っただろう。地上には一点の光源すらない(それは天空さえ見上げれば無数の光源に照らされることを意味する)喜界島の秋夜には、遠くの潮騒と近くのサトウキビの葉擦れが混じった音楽が響いている。

もうすぐ夜が明けようとしている。東方に薄明が兆すと同時に、あたりは土から立ち上る水蒸気の香りで満たされ、濃厚な朝が到来する。今日は年に一度のウヤンコー(高祖祭)。ここ上嘉鉄集落は、朝の6時から人々が墓地に集い、ロウソクに火をつけ、ランプを灯し、一斉に墓参りをする。「ウヤンコーのときに墓の前に立っていないと、ご先祖様に申し訳が立たない」と人々は言う。だから普段は東京や大阪で暮らしている人も、ウヤンコーの朝のためだけに喜界島へ帰ってくるのだ。

 

自分の家の墓参りを終えると、線香を一本ずつと焼酎を少しずつ、墓地のなか全ての墓に供えて回る。それは小さな巡礼だ。集落の内部だけで結婚するのが常だった時代から、この墓地を満たしているのは、共通の先祖を持つ大きな親族としての一体感だ。それぞれの墓に供えられた色とりどりの花、みずみずしい果物、手作りの餅菓子、遠方から運ばれてきた箱菓子。それらを横目に巡礼を終えた人々は、ちらほらと姿を消してゆく。そうして一時間が経ったころ、墓地は夜明け前の静けさを取り戻している。
 
現在はカロート式墓地が一般的な喜界島だが、これは1966年、島に火葬場が建設されてからのことで、それ以前はジソウバと呼ばれる土葬墓だった。土葬墓のことを明確に記憶している人は多い。棺ごと土に埋め、2~3年経ってから掘り起こし、海で骨を洗い(洗骨)、もう一度埋葬し直した(改葬)。90歳のおじいさん、Yさんは言う。「土葬墓はね、においがキツイことがあるんです。遺体が腐ったにおい。それで墓を掘り起こす時、あまりにおうという時は、故人の名前を呼んでね、例えば太郎だったら、『太郎、くさかもんじゃ!』と一喝すれば、たちまち臭いは消えるわけです」
 
土葬墓が誕生したのは明治時代。それ以前はムヤと呼ばれる風葬墓が使われていた。現在でも島に残されている風葬墓を、元教員のMさんに案内してもらう。訪ねたのは美しい石垣で知られる阿伝集落。背丈まで生い茂った雑草をかき分けながら進んでゆくと、小さな洞穴が眼前にあらわれる。そこには石塔と甕が雑然と置かれている。かつてはこの洞穴に遺体を安置し、白骨化したら甕に納めたのだという。風葬墓を持つことのできない貧困層は、ヤバヤと呼ばれる草地に遺体を安置し、そのまま放置せざるを得なかった。風葬墓は土葬墓ができると役目を終えたが、先の大戦で喜界島が空襲をうけたとき、島民は風葬墓の洞穴から石塔や壺を出してここに身を隠し、防空壕代わりに使ったのだ。


風葬墓があったころの喜界島では「グシュ」と呼ばれる地下他界が信じられていた。薄暗くて天国とも地獄ともつかない世界。そこはヤドカリの住処でもあった。地上の島民たちは入れ墨でヤドカリを掘りこんで、自らの体表を現世的な地表から遊離させ、超越的エネルギーを抱え込もうとした。

それがいつの頃からか、島民たちは地下他界の存在を忘れてしまった。ぼくが喜界島で850人を対象にしたアンケート調査で、地下に「あの世」を感じると答えた人はわずか2.7%。聞き取り調査でも同様の傾向がみられた。
 
また、海の向こうの他界として、喜界島ではニライカナイのことを「ネインヤ」と呼んだ。その民俗語彙自体が現在ではほとんど使われず、海上他界の存在を感じると答えたのは0.5%、渚をあの世との境界と感じると回答したのは5.9%にとどまった。
 
その代わり、56%の島民が空にあの世を見出し、48%の島民が境界として墓を挙げる。地下他界はいつの間にか天上他界にすり替わり、境界としての渚は墓に代わった。それは風葬から火葬への変化に伴い、死者が地下にいるイメージから煙になって天上にのぼってゆくイメージへ、またユタや法者(占い師)が宗教の担い手となり、民間信仰や口頭伝承の息づいていた時代が遠のき、メディアを通したスピリチュアルな一般的イメージが広まった現在の状況を反映しているのだろう。ちなみに喜界島は明治時代の廃仏毀釈の波(特に薩摩はその影響が強く、喜界島も例に漏れない)を受け、新しい神社信仰が形成されて勢力を拡大し、現在でも宗教人口は神道が圧倒的に多い。

喜界島の天空。そこは第二次世界大戦で空中戦が繰り広げられ、多くの若者たちが散った場所でもある。志戸桶集落で戦争を体験したIさん(女性)は言う。「空襲でムヤ(洞穴の風葬墓)に隠れていたとき、思いを馳せたのは、上空で闘っている飛行隊の無事でした。いま私は、亡くなった人が天上のお星さまになると思っています。喜界島の夜空に瞬く星のなかには、あのとき戦った航空隊員もいるはずです。敵味方関係なくね。そう思って私は時折、夜空に向かって手を合わせます」

ウヤンコーを終え、ぼくは上嘉鉄集落で親しくしているおばあさん、Oさんのお宅にお邪魔した。Oさんはご先祖のために作った料理でもてなしてくれ、あれこれ話をしてくれた。今年金婚式を迎えたというので、50年前に自宅で行われた結婚式の様子を伺う。最初に嫁側で、次に婿側の家で行われた結婚式。婿の家につくと庭の重石に片足を乗せられ、よく踏みしめるように言われたという。離縁することがないよう、「足を固める」のだ。表玄関から家に入り、床の間の前に座らせられる。嫁にとっては結婚式のときだけの名誉である。しかしそこで行われる結婚式に、嫁側の親族は一人も出席してはならない。婿の家に嫁ぐのは嫁一人なのだからという。相当な覚悟のいる結婚式である。

そうして間もなくOさんは妊娠した。第一子を宿したときは、不安になったという。「安産で産めるだろうか?無事に健康な子が産まれてくるだろうか?」しかし旦那のおばあちゃんは、そこにいるだけでみんなを和ませる人で、Oさんのこともいつも明るく温かい笑顔で励ましてくれた。「出産のときはね、自然が妊婦さんに力を与えてくれるんだよ。だからきっと健康な子が産まれてくるよ」。おばあちゃんの言う通り、Oさんは無事に安産で健康な子供を二人産んだ。もし安産でなかったとしても、たとえハンディキャップを抱えた子が産まれてきたとしても、きっとおばあちゃんは満面の笑みで励ましてくれたに違いないとOさんは言う。

「勉強は半分、もう半分は歌をうたっていればいい」とOさんは言い、次々と島の民謡を聞かせてくれる。「イキーヨータマークルガイケヨー」(一緒には逝けないが、いつかあの世では一緒になれる)。大切な人と死別したとき、おばあちゃんがよく歌っていたという。また、若い人たちはどの時代も、「イッジャイッチャリ、ミチニドタチュル」(行ったり来たりで道に立っている暇もない)のだと歌う。

その「若い人たち」の中には、ぼくも含まれるのだろうか。喜界島で何度目かのフィールドワークを終えた日、父が倒れた。


<つづく>


 
 辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。