アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その10

鎌田東二




15、大重潤一郎へ

10月23日(木)、沖縄に行き、所要を済ませた後、夕方、沖縄赤十字病院に入院している大重潤一郎監督を見舞った。17時半過ぎから20時近くまで、沖縄赤十字病院で大重潤一郎監督と比嘉真人助監督と須藤義人沖縄大学准教授の4人でゆっくり話をした。だが、面会時間を過ぎてしまったので、沖縄映像文化研究所に戻り、さらに比嘉君と須藤君とわたしの3人で、近くの居酒屋に行き、11時近くまで話し込んだ。大重潤一郎監督の体を案じつつ・・・
 
大重監督は、今回、肝臓癌が肺だけでなく、脊椎にまで転移して脊椎骨折したために緊急入院したのだった。内出血で半身不随の上、肝臓癌で17回も手術し、さらにそれが脊椎にまで転移して来た。最近の報告では、余命1年 以内と言われているという。そのわが盟友大重潤一郎の心中を推し量るが、心が乱れてクリアーに像を結ばない。たぶん、大重も同じではないだろうか。ある時 は、澄明な、静まり返った平安な心に。だが、ある時は、猛烈な焦燥感に駆られ、いてもたってもいられなくなる。自分がやってきたこと、自分がなすべきこ と、実現しきれずにいのちの帰趨を見つめざるをえないこと。心が極から極に揺れ動く日々ではないか。
 
そんな中で、よくぞまあここまで奇跡的に活動を続けてこられたものだと思う。もちろん、それはさまざまなところからのサポートがあってこその活動なのだが、 同時に、大重自身の存在や彼に生き方がなければこのようなサポートもなかった。大重が脳内出血で倒れてから、記録映画「久高オデッセイ第一部 結章」(2006年制作)、「久高オデッセイ第二部 生章」(2009年制作)を世に問うた。これは、第一部の大重生助監督、第二部の須藤義人助監督の絶大なる助力・協力があったから実現できたものだ。そして今、3部作の完成作「久高オデッセイ第三部 風章」の編集中だが、その作業を第三部の比嘉真人助監督が支えている。

現在、第三部のロケはおよそ90%は終わっている。たぶん、来年の旧正月儀礼の撮影が第三部最後の撮影になるのではないだろうか。現在10時間ほどに編集した映像をさらに9時間に絞り、それをさらに1時 間半くらいまでに詰めて、ナレーションと音楽を入れる最終作業を行う。音楽は現代音楽家として著名な新実徳英氏に依頼し、引き受けてくださった。ありがた いことだ。そして、肝心のナレーションを意中の人物に依頼しようとしている。それがうまく行くことを心より祈っている。

わたしが沖縄赤十字病院を見舞った時、大重監督は、動くと脊椎に激痛が走るので、トイレに行くのも容易ではない状態だった。その中で、必死で、最後の力と知 性を振り絞りながら、「久高オデッセイ第三部 風章」を仕上げようとしていると思うと、何としても大重のためにも、大重とともに歩んできた人たちのために も、また大重作品を愛し、支援して来てくれた人たちのためにも、またこれから、大重監督作品を通じて、大重と深いところで出逢う未知なる人たちのために も、心を尽して「久高オデッセイ第三部 風章」を完成させねばと思う。わたしは、大重潤一郎には悪いが、これが大重の仕事の最後の作品になると公言しなが ら制作資金を集めてきた。色々な人に無理を言って、寄附を募った。もちろん、自腹も切った。だが、大重との「縁」を思うと、これはある意味では当然のこと と思う。
 
わたしたちは、1998年2月 に初めて出逢った。埼玉県秩父市の公民館で。そこで大重の「光りの島」の上映会が行われたのだった。わたしは、翌年、東京自由大学学長になる秩父に住む画 家・横尾龍彦氏とともに、その映画を観に行った。それが、運命の出逢いとなった。何がどうして、このような同志的な盟友となったのか、その理由はよくわか らない。おそらく、前世からの縁や契りがあるのかもしれないと思う。我々の出逢いは、この世かぎりのものではないと思う。また今生限りのものでもないと思 う。だから、どんな事態も寂しくはないが、しかし、いつもその出逢いや縁や「務め」をきちんと実現して死んでいきたいものだと思う。

この世に生を受けた「務め」を果たして死にたいといつも思っている。その「務め」、ミッションが何であるか、自分の魂は深いところでよくわかっている。だ が、現実にさまざまな出来事が生起する中で具体的にどのような形でそれを果たし実現するかとなると、迷いも生じようし、選択に戸惑うこともあろう。

わたしはそんな時、自然の成り行きに任す。「いいかげん」である。「適当」である。でも、それが一番「適切」であることが多い。だから、経験的に、そんな 「いいかげん」を待っている。それを、神道では『神ながら』と言う。その意味では、いつも「神ながら」で生きてきた。「いいかげん」で「適当」な人生を歩 んできた。だがいつも「魂の本能=魂能」に従ってきたということだけは断言できる。それだけが、わがとりえだ。

人に笑われようが噛みつかれようが何と言われても、バカにされても、コケにされても、「魂能」に従う。わが生存原理はそれだけ。「神道ソングライター」になった時も、そうだった。「東京自由大学」を始めた時も、そうだった。

大重潤一郎と一緒に「神戸からの祈り」(1998年)をやろうとした時も、そうだった。大重潤一郎とは、瞬間的に、出逢い、瞬間的に「いいかげん」を実現し、「神ながら」の「適当」を共に生きてきた。そして、16年。 東京自由大学を、沖縄映像文化研究所を、『縄文』『ビックマウンテンへの道』『久高オデッセイ三部作』を共に歩んできた。いつも、いつも、伴走していた。 片腕以上に、片身であった。そんな片割れは、片割れがいることによって、存在していることによって、安心して、おのれの道を全うすることができる。弁慶と 義経のように。
 
鹿児島生まれで大声の大重は弁慶。パリ生まれで笛吹き阿波育ちのわたしは義経。そんなBENKEI-YOSHITUNEコンビで、この16年を歩んできた。大重はわたしがいなければ、彼のこの16年の仕事の半分も実現できなかっただろう。わたしも大重がいなかったら、自分のやるべきことを安心して全うすることができなかった。
 
これは、計算ではない。しかし、計画かも知れない。深い意図があってのことかもしれない。自然の摂理や、地球の呼び声や、宇宙の爆発や、存在世界の激震へのいのちの応答の必然回路かも知れない。

そう思う。


 
40代後半から60代にかけて、人生の黄昏時にもっとも激しく魂を燃焼させる祭りの共同作業を行なう。弁慶と義経の意地にかけて。死んでも死にきれなかった悲しみと痛みと未来への祈祷=企投を込めて。すべてを注ぎ込んで、「魂能」に従い、生き、死んでいく。そんな16年を共にできたことを心より有難くうれしく思う。これは、天からのプレゼントであったと。

大重の遺言でもある「久高オデッセイ第三部 風章」を何があっても完成させる。そして、大重潤一郎のスピリットを風のように、呼吸のように、息=生きとして吸い込んで、それを世に媒介する。大重潤一郎の仕事は、21世紀の先取りであり、指針であると確信している。生存にとって何が大事か? それは、息吹、である。息吹かれることである。

大重潤一郎には、その「いぶき=風」がある。その「風」こそが、大重潤一郎の「魂」であり、彼の「魂能」である。

いのちといのりの総集編としておのが命を削り、力を振り絞って映画製作を進めている大重潤一郎、がんばれ!
 
骨も魂も、俺が拾ってやる。


存分に生きよ。そして、死んで池!

入院中の大重潤一郎監督と世話をする比嘉真人助監督
入院中の大重潤一郎監督と世話をする比嘉真人助監督
「久高オデッセイ第三部風章」の構成について検討する大重潤一郎監督と比嘉真人助監督
「久高オデッセイ第三部風章」の構成について検討する大重潤一郎監督と比嘉真人助監督
10時間の映像を編集中の大重監督と比嘉助監督
10時間の映像を編集中の大重監督と比嘉助監督

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951 年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト