嶽之枝尾神楽ー宮崎県椎葉村

三上敏視




12月の第一土日、6日から7日にかけて行われた宮崎県、椎葉村の嶽之枝尾(たけのえだお)神楽に行って来た。

これは前年の「神楽せり歌取材」で訪れようと計画していた時、祭の直前に集落に不幸があって嶽之枝尾神楽は中止となったため、再び行くことにしたのである。

椎葉は、ここでは「ごやせき」と呼ぶ「神楽せり歌」が未だ生きている地域なのだが、その中でもここ、嶽之枝尾は歌の名手が多く、とても盛り上がるということで楽しみだったし、また26ヶ所残っている椎葉神楽の中で「宿借り」という来訪神が出てくる演目を持つのはここだけということで、それもとても楽しみだった。

そして、またここは、これまでだったら願成就の年しか立てない「大宝の注連」という、屋外に立てる12本の巨大な注連を伝承継続のために毎年立てるようにいるというところも見逃せないところだった。


この日はこの冬二度目の「猛烈寒波」が日本列島を襲った時で「こんな寒い神楽は初めてだ」「いつもなら神楽が終わると冬が始まるのに」と地元の人々が驚いている中で、5時過ぎに神事が始まり、嶽之枝尾神楽はスタートした。


場所は嶽之枝尾神社なのだが、神社自体が民家の襖を取り払ってワンルームにした状態に作られている。かつて神楽は毎年民家を代わる代わる神楽宿として使っていたのだが、それを続けることが大変になり、専用の施設を作った集落もあるが、ここは神社が神楽宿となっているのだ。

本来、神楽は神社とは別に、また神社でやったとしても本殿とは別に祭場を設けて行うのが通例だが、ここは神社でやるので神社から神楽宿への神輿渡御はない。宿の中央正面に御神屋(みこうや)という祭壇が作られ、庭に青柴垣の外神屋が作られていて、これは高千穂神楽にも見られるやり方でどちらも高天原を表している。


演目は三十三番あるが最初の見ものは三番目の「注連立て」。御幣や扇、紅白の布で飾られた12本の注連を外神屋に次々と立てていくのである。壮大な景観が誕生した。そして五番目に「宿借り」がある。これは破れ傘に蓑を背負い、腰に刀を帯び、破れ草履を履き、竹杖をついたみすぼらしい姿の旅人が、神楽宿に一夜の宿を宿を乞いにやってくるのである。まさにスサノオを連想させる姿であり、典型的な来訪神の姿とされているものである。


「御宿申し候」と乞うと、宿主は「御宿なるまじく候」と応えて最初は断る。このあと問答が続くのだ、神楽ではよく使われる中世の言葉づかいがふんだんに出てくる。(椎葉の人たちは普段の会話の中でも「たもれ」とか中世の言葉がまだ出てくるらしい。)この問答の中で歌(歌妻)のいわれや雲(旗雲)のいわれがやりとりされ、やがてこの旅人が「山の神」であることがわかり、仲裁役が酒を持って出て宿主は「どうぞゆっくり泊まっていってください」ということになっているが、この時は仲裁役が酒を勧めながら「今夜は寒いので、どうぞ早く帰って下さい」と言って、見ているものを笑わせていた。

このあと旅人は宿にいったん上がり、宿主と入れ替わるような動きを見せるが宿にはとどまらずに退出する。


椎葉に隣接する諸塚村の戸下神楽では十年に一度の大神楽で「山守」という演目があり、これも山の神の来訪であるがこの山守の姿は笠をかぶり、葛を輪にしたものを袈裟にかけて山から走り下ってくる。山守役は山で神事をしたあと、榊の木を一本切り、それを担いでトランス状態になって降りてくるのである。奥三河の花祭でも山からやってくる榊鬼が根付きの榊を持って現れるし、山の神としての側面もある猿田彦大神が絵に描かれる時も根付きの榊を持っている事が多い。

戸下神楽の山守では神主との問答となり、宿借りの内容ではなく、仏教的内容の問答になり、他の荒神との問答でも同じような内容だが、仏教の経典などが取り入れられる前はもっとプリミティブな山の神との問答だったろうし、神がかりの痕跡でもあるのだろう。


神楽では、花祭の榊鬼にも問答があるし、各地で問答が見られるが、宮崎では芝荒神、綱荒神、三宝荒神などがかなり長い問答をして、ひとつの神楽の中で問答の演目が何度も出てくるところもある。これは神がかりの際の審神者との問答が芸能化したものという説もあり、これがのちに猿楽に取り入れられ演劇の元になったと考えられている。修験者がまたそれを神楽に取り入れて全国に広めたのである。

猿楽はその後、観阿弥、世阿弥という天才によって芸術として大成し権力者の庇護のもとに江戸時代は「猿楽の能」として、明治になってからは「能楽」として今に至っている。能はとてもむずかしいものだと思う人が多いと思うが、能がもうひとつわからないという人は、村々に残された神楽におけるこのような能の原点を見ることによって、能を理解し、楽しめるようになるのではないだろうか。神楽をいろいろ見ていると能の中に猿楽の痕跡が見えるところや見えないところに散りばめられているのがわかるのである。世阿弥も『申楽談儀』で「猿楽とは「申楽」であり、即ち「神楽」であると言っている。「神」から示偏を取れば「申」ということだ。

 

さて、このあと、御神屋で舞ったあと、外神屋の前で舞い、最後に大宝の注連の布をひいて揺する「注連引き鬼神」が初めての面の舞として登場。締めを弾く時は村人が囃し立て、最初の盛り上がりとなった。

このあとしばらくは御神屋での舞が続くので開け放たれていたガラス戸が締められ、ようやくストーブの暖気が宿を暖められるようになった。

いったん、休憩となり婦人会手作りの温かい蕎麦が振る舞われる、今や都会で大人気の椎葉の蕎麦で、素朴な味だがとても美味しい。ご祝儀のお礼として配られた折詰弁当を食べる人もいる。もちろん御神酒もタップリといただいた。

そして舞が再開され、十番目の「一神楽」になったら、御神屋を挟んで反対側にいた地元の人達から「ごやせき」が聞こえてきた。せり歌はどこでも、神事の部分が終わったあとの演目から歌っていいことになっているのだ。「ついに嶽之枝尾のごやせきが聞けた!!」と大感激。三脚で撮影していたビデオカメラを外し、歌っている人たちの中へ突撃取材。この「一神楽」は長いのでたっぷりと「ごやせき」を聞くことが出来た。マイクが回されて次から次へとお母さんたちが歌い出す。そして男性も知っている歌は一緒に歌っていた。

リードしていたのはやはり前年の6月に取材に行った時に話をしてくれ、歌ってくれた椎葉アサエさん、右田美佐子さん、椎葉浪子さんの三人だった。前年、神楽のお囃子や見ている人たちの会話やざわめきのない歌を収録できたのは、資料として価値あるものを頂いたわけだけど、やっぱり真髄は神楽の現場でのせり歌だ。「ごやせき」の意味についてはいろいろあるが、ごやは「この夜」という意味の「御夜」、せきは「競る」が「せく」となり「せき」となったのが一番納得できる。ただ、競るのが観客と舞人のやりとりなのか、せり歌を歌う者同士の競争なのか、そのへんは両方混ざっているんじゃないかな、という印象だ。

すっかり嬉しくなった僕は撮影をしているのについ一緒に歌ってしまい、ビデオを確認したら自分の声が聞こえてくる始末である。いつものことだけど(笑)。

写真は右がアサエさん、左が美佐子さん
写真は右がアサエさん、左が美佐子さん

そのあと、「芝荒神」や「綱問答」などいろいろおもしろい演目が続いたが、僕はごやせきが嬉しくて呑み過ぎて朝まで寝てしまった。と思ったらどうも起きていたらしい。自分の席に戻ってからもごやせきを一緒に歌ったりして、地元の人から誉められていたと、同行者があとから教えてくれた。ビデオを見たらたしかに手撮りでその後も3時過ぎまで撮影をしていたのである。すっかり見た記憶が飛んでいたのだが、ビデオを見ていたら少しずつ思い出してきた。寝入ってしまったのは確かだが思ったほどは長くなかったようだ。


三十三番が終わったのが午前10時過ぎ。たっぷり味わった嶽之枝尾神楽、また今年も行ければいいなと思っている。

なお、暮れに丸善出版から刊行された『民俗学事典』の「鎮魂の芸能」という項目で神楽のことを書いています。中辞典なのでけっこういろいろ書けました。高い本なので図書館ででも見て下さい。自説も少しは入れて良いということだったので、これまでにない内容も入った神楽解説だけど、監修の先生たちからダメが出なかったので、モンダイはないのでしょう。

http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/shinkan/shinkan_old/pub-sin201412-j.html#108773


それとやはり12月に坂本龍一監修の、コモンズ:スコラ、シリーズ第14巻『日本の伝統音楽(Traditional Music in Japan)』で神楽音源を一曲提供しました。

元々はNHKCDから収録する予定だった早池峰神楽の音源が、権利関係が不明になっていたため使えなくなり、急遽「音源ありますか?」と連絡が来て、ちょうど札幌にいたために素材に限りがあったけど、なんとか坂本さんの納得できる音を探すことが出来ました。

440秒という短い時間に収まる神楽の音を探すのは難しかったですが、岳神楽の「五穀の舞」の中にリズムの変化、テンポの変化、詞章、神楽歌、すべて入れられる部分があり、神楽囃子の豊穣な世界を示すことが出来たと思っています。

民俗音楽からは神楽だけですが、このタイトルにすべて収めるとなると、入っただけでもありがたいことです。

http://www.commmons.com/schola/schola14.html

 

 

 

三上 敏視/みかみ としみ

音楽家、神楽・伝承音楽研究家。1953年 愛知県半田市生まれ、武蔵野育ち。93年に別冊宝島EX「アイヌの本」を企画編集。95年より奉納即興演奏グループである細野晴臣&環太平洋モンゴロイドユニットに参加。

日本のルーツミュージックとネイティブカルチャーを探していて里神楽に出会い、その多彩さと深さに衝撃を受け、これを広く知ってもらいたいと01年9月に別 冊太陽『お神楽』としてまとめる。その後も辺境の神楽を中心にフィールドワークを続け、09年10月に単行本『神楽と出会う本』(アルテスパブリッシン グ)を出版、初の神楽ガイドブックとして各方面から注目を集める。神楽の国内外公演のコーディネイトも多い。映像を使って神楽を紹介する「神楽ビデオ ジョッキー」の活動も全国各地で行っている。現在は神楽太鼓の繊細で呪術的な響きを大切にしたモダンルーツ音楽を中心に多様な音楽を制作、ライブ活動も奉 納演奏からソロ、ユニット活動まで多岐にわたる。また気功音楽家として『気舞』『香功』などの作品もあり、気功・ヨガ愛好者にBGMとしてひろく使われて いる。多摩美術大学美術学部非常勤講師、同大芸術人類学研究所(鶴岡真弓所長)特別研究員。