自分語り -線を引くこと-

村山 淳




カワセミが飛んでゆく。

懐かしい橋のふもとにあった葦の原も消え、

住み易い泥の土手も消え、

灼熱を溜め込む白亜のコンクリートと、

ゴジラの背中のようなアスファルトが残る。

 

カワセミが飛んでゆく。

おいてゆかないでという声を、

あの子に届けることはできない。

言葉は我らのもので、

彼らには必要ない。

言葉があるからゆけない。

大地を穿つ腕はあっても、

虚空を舞う翼は無い。

我らの足では越えられない。

あの線は、翼がなければ越えられない。

 


私は福島県いわき市三和町の永井という小さな集落で育った。人口がどれほどかはよくわからない。でも、10年も住めばだいたい全ての人と顔を合わせたことがあって、名前が思い出せなくてもどこらへんに住んでいるかはわかる、そんな程度の数だったと思う。幹線道路から山を2つ越えると山肌や谷間に沿うように細かい道がいくつも分わかれて、そこにへばりつくように家々が建っている。山のほとんどは林業の手が入っていて、針葉樹が多い。川は山間部にしては緩やかで、川幅も広かった。高度経済成長期に消えた「里山」を中心とした循環型農業の残るユートピアのような村で、獅子舞などの祭事は土地の神々に捧げられていた。

村を貫く道路から北側に逸れて山へ至る道の、ちょうどふもとに私の家があった。20代で脱サラして有機農業をしたいと思っていた両親は、そこに土地を借りて自給自足の生活を営みはじめた。ちょうど小学校の校庭ほどの広さがあるその土地で、私と兄と妹は育った。2階建てのログハウス風の家で、鳥小屋と納屋、ビニールハウスと畑があった。ガスや電気はかろうじてあったけれど、お風呂も暖炉も薪で炊いていた。

家は村の中では高いほうで、村の道路をはじめ、集落の半分くらいが見渡せる位置にあった。正面に向かって左手には竹と杉が半々くらいの変わった林があり、ノビルやムカゴ、タケノコやヤブレガサなどは重要な食料だったし、降り積もった杉の葉は年中重要な燃料だった。右手にはウドの山と栗の林があった。裏手が山に通じる道で、道端は山の花の宝庫だった。スミレも木いちごも、山ユリも咲いたし、今でも名前をしらない花も咲いていた。裏手の山は深く、別の山とも繋がってとても知り尽くせるものではなかった。5分も登ればクヌギが群生していて、夏には虫取りのメッカだった。2時間も駆け回れば金だらいから溢れんばかりのクワガタやカブトムシが取れた。七夕になると町にでて、虫を売って小遣いを稼いだ。さらに奥に進むとだんだんと道があやふやになっていって、生き物の気配が濃厚になってくる。途中で右に折れて下って行くと小さな沢と沼地があって、苔がやわらかそうに茂っている。私と妹はそこを「トトロの森」と呼んでいて、よく母と一緒にピクニックに行った。「トトロの森」は清浄で、なんだか力のある空間で、つらいことがあるとよくひとりでも行った。更に奥に進むとそこはもう異界だった。一度冒険しすぎて方向感覚を失ってほとんど遭難したことがあった。幸いにも犬を連れていたので、リードを外して彼に着いて行くことで家に帰れたけれど。

家を出て下って行くと集落を流れる川があって、その片側に広大な田んぼが広がっていた。春先は早苗が田を彩り、夏には眠れないほどのカエルの大合唱が、秋には空を埋め尽くすトンボと田を跳ね回るイナゴがいたし、冬は綺麗な雪がたくさん積もって子供達の遊び場だった。初夏の田んぼを渡る風は目に見え、音はさざ波のようで美しかった。自分がその風になって村を渡っていくという想像をするのは私のお気に入りの遊びで、飽きずにじーっと眺めていたように思う。

両親は米と野菜作りのかたわら、比較的規模の大きい養鶏をして卵を売っていたので、村のおばあさんからは「卵屋のせがれ」と呼ばれることがよくあった。ともに東京出身のよそ者だったので、『風の又三郎』のようにきつく当たられることもあったが、子供達はおしなべて気にしていなかったと思う。むしろ老人の中には異質なものを村に持ち込んでいる私たちを煙たがる人もいた。今でこそ理解が広がった有機農法だが、当時は農薬を使うのが当たり前だったし、言葉もそれほど広まっていなかった。さらに、ズッキーニやプッチーニ(かぼちゃ)など、それほど知られていなかった野菜を栽培して、それを首都圏に卸すというビジネスも始めていて、それに眉をひそめる人もいた。子供からは楽しく、それほど不自由も無い暮らしだったが、土地を借りて農業をするという小作農だったので、決して金銭的に豊かではなかったようである。一度、私と妹が間引きした大根を美味しそうに食べているのを見て、地主のおばあさんが両親を叱責しているのを見たことがある。まるで戦時中の光景のようで、私たちを不憫に思ったのかもしれない。

確かに今から考えると貧しい生活だった。風荒ぶ夜にお風呂を炊きにいくなんて仕事は、寒くて怖くて本当に嫌だった。背中に覆い被さる闇を感じながら、何十分も火の番をするのだから。早朝に朝市に持っていく野菜を洗うのも大変だった。初秋には薄氷の張った水で洗うから、あかぎれにもなった。薪割りは重い斧を使うから怖かったし、煙突掃除を怠れば火事になった。それでも、畑の一角に自分の畑を貰って色々栽培するのは楽しかった。魚も虫も、獣も鳥も植物も、自分と同じ世界に生きていて、濃厚な生気の中で育つことができたのは本当に幸せだったと思う。東京に暮らしていては全てが宝物のような状況だったけれど、その中で私にはとっておきの宝物がひとつあった。

 

家からちょうど正面に真っすぐ見ると、川にかかる橋があった。作橋という名前のその橋は通学路でもあり、私たちには格好の遊び場でもあった。地域の獅子舞を奉納する御山がすぐ近くにあったせいか、橋の周辺の川も山も手つかずなままで、黄色い木いちごや桑の実がなる場所もいくつかあった。竹林が河原にひとつあって、子供達は竹を切り倒して筏や秘密基地の材料にしていた。竹林の傍にはミョウガが生えていて、ミョウガの花を引っこ抜いて食べもした。川辺には葦が群生していて、初夏にすくい網を持って水に入れば、どじょうやウグイ、ハヤやカジカ、小エビが取れたし、釣りをすればヤマメやイワナが釣れた。土手をあがった田んぼには、オニヤンマやシオカラトンボがいた。その中でもとっておきのお気に入りだったのが川辺の土手に穴を掘って何年も営巣していたカワセミだ。初めて川辺にとまっている神秘的な瑠璃色と茜色のコントラストを見たとき、それが自然に存在するものだとはとても思えなかった。でも、その宝石が矢のように川に飛び込んで、小魚を正確に貫いていく様子は、とても機械のそれではなかった。他の子供たちの中にはカワセミに大して興味を示さない子もいたけれど、私はそれ以来カワセミを宝物として、作橋を通るたびにその子を探した。今でも川を見るとまず土手の灌木に目をやってしまうのはそのせいだと思う。

私が小学校高学年のころ、村の道路に大規模な工事が入った。雨の日にはぬかるみ、冬は凍結して安心して走ることができなかった道路がようやくしっかりと舗装されるということで、村の人たちは喜んでいたと思う。私や他の子供たちも目下、工事現場の盛り土や見たことも無いほど太いプラスチックのパイプなどの遊び場がたくさん増えて、喜んでいた。道路をただ舗装するだけでなく、しっかりとした2車線にし、歩道と分離帯、ガードレールまでつける工事だったからその規模は結構なもので、必然的に周囲の田んぼやあぜ道、河原が削られ、舗装された。作橋も一部木造の危なっかしい橋からしっかりとしたコンクリートと鉄筋の橋になり、草がぼうぼうで転げ落ちそうな土手は菱形のコンクリートブロックで覆われた。葦の水辺は一部になり、やがて全て消えた。土手から川に覆い被さるように生えていたひねくれ者の木は切られ、寸断されて打ち捨てられた。そして、私の宝物だったカワセミが土手に作っていた巣は、雛と一緒に埋まった。それ以来、あの子がどこに行ったのかは知らない。止まり木も、巣もなくなったあの土手には二度と帰ってこなかった。それ以来、私は自分が魚や虫、獣や植物たちとは違う生き物であるという線を引いた。

 

豊かな「里山」で育った私は、人と環境の間に線を引いて生きてこなかった。「人と自然」という二分法には今も馴染めないところがある。そんな私が、「あちらとこちら」を感じた最初の出来事が、この工事だったと思う。そして私は、「こちら側」にいる自分を咎人だと思っている。それまであぜ道だったアスファルトの道路には、雨が降るとミミズ達がうようよと乗り出して車に轢かれ、そのままひからびていた。それが見るに耐えられず、登下校中に泣きながら拾っては土に還した。かつては葦原で、今はコンクリートになってしまった土手に溜まった水にカエルが卵を産めば、田んぼやため池に移した。「ぼくはまだそっちにいるよ」という気持ちでやっていたのだと思う。けれど、自分が何か罪深いことをしてしまったという感覚はぬぐい去ることができなかった。それから「自分がどこに立っているのか」という問いを持つようになった。

私はその答えを自分の内に求めた。自分に穴を穿って、その中に自分が飛び込み、自分を裏返すような問いを繰り返した。哲学や物語が導き手だった。しかし、言葉は線をはっきりさせることはあっても、消し去ることはない。「あわい」に戻るためにたてた問いが、いつの間にか線を上塗りし、自分をこちら側へと押しやっていった。線を何本も何本も引くことで自分の輪郭も周囲も塗りつぶせれば、きっとまたあちらもこちらもない世界に戻れるかもしれない、そんな風に思っていたのかもしれない。現実は、境界をより太く、より越え難くしただけだった。

 

いつからか人は線を引くようになった。人や神の領域、自分のものや他人のもの、耕作地と荒れ地、「こちら」と「あちら」。最初は農耕によって地面を引っ掻くことから始まったのかもしれない。でも、目に見える線だけでなくて、物事を区分するための概念的な線もまた、いつからか持ちはじめた。「言葉」だ。石や獣の皮、木片や粘土板という拓かれていない大地を、ペンという鋤で引っ掻き、言葉という糧を得る。結果的に、前者は私たちに定住と人口増加、後者は歴史と知恵の継承という果実を与えてくれた。人が初めて大地に線を引き、それが共有されたのがいつかは分からない。でもずいぶんと長い間、私たちはそれで上手くやってきた。こちら側とあちら側を分け、至ることのできない場を畏れ、あちらのモノ達を敬った。踏み込まず、かといって無視もせずに、時期や場所を決めて交流した。私たちは自分が弱い生き物で、あちら側の混沌をほんの僅かばかり「区切って、理を与えること」によってしか生きていけないことを知っていた。

でも、いつからか私たちは増長してしまった。混沌は線を引くまで意味を持たぬと決めつけて、所構わず、後先考えずに線を引きまくった。引っ掻かれる大地の痛みに共感することもしなくなり、山を砕き、川を裂くのを当然の権利のようにしてあちら側を消し去ろうとした。

線を引くことは身を裂くことで、痛みを伴わずにはいられない。それでも、その痛みを知る努力を怠らず、感性を鋭くもてば致命傷にはいたらない。指が開くためにアポトーシスが必要なように、私たちは生きるためにあちらとこちらを裂かなければならない。しかし痛むのは、あちら側だけではないのだ。

 私たちは、線を引く能力だけを発達させて、境界を行き来する能力を疎かにするようになったのではないだろうか。痛いことを忘れるために、たくさんの欲求を積み重ね、結果として麻痺したものがあることも忘れてしまったのではないだろうか。

 

私にとってカワセミは、私たちが引いた線と、引き裂いた痛みを忘れた咎の象徴になった。私は、工事によって引き裂かれたときのあの痛みをまだ忘れることができない。いや、忘れない自分を誇りとしているのかもしれない。でも同時に、線を越える方法はないかとまだもがいている。言葉は線を引くことしかできないけれど、まだ言葉を諦めることはできていない。数多くの思想家が言葉をもって、言葉の境界を打ち壊す努力をしてきた。私はまだ彼らほど十分な努力をしていない。「語り得ないものには沈黙を」というほどに語る努力はしていない。それに、言葉は人が持ちうる翼なのだと思わせてくれる出来事はたくさんあった。

 

たとえば、梨木香歩という作家がいる。鳥が好きで、文の端々から息遣いと慈しみが伝わってくるような美しい文章を書く人だ。魑魅魍魎を愛で、ユーモアとは笑いと涙に象徴されるということを教えてくれる。男性という属性では理解することのできない女性の怒りを織るように、染めるように描いて行く。彼女の眼差しは、子供が野の花を見て、摘まずに自分の宝物とするときのそれに似ている。彼女が『ぐるりのこと』という本の中で線と境界を彼女なりに描いている。国家の領土を巡る線、隣家との境界、人の心の境、あの世とこの世の境、男性と女性、そういった線のことを。その中で、私をハッとさせるエッセイがあった。イギリスに滞在した経験のある彼女が、イギリスの生け垣(hedgerow)を見つめたときの物語だ。

生け垣の役割はもちろん「場を区切ること」である。自分の家と隣の家、公共の場とプライベートな場、道路と住居などだ。そこには「所有」という概念が大きく関わっていて、生け垣を巡って諍いがあり、血が流れることもある。しかし、生け垣は植物で、それがひとつの生態系を持っている。サンザシを基本にして、オーク(樫)やトネリコ、ハシバミなどが混ざる。幅は広いところでは数メートルになり、木々の根元には様々なハーブが茂っている。家よりも古く、百年を越える年月を経たものも珍しくはない。昆虫はもちろんのこと、ヘビやカタツムリ、それを餌にする鳥や小動物たち、そしてそれを狙う肉食のキツネなど、多くの生き物の隠れ家になっている。彼女はそこから「隠れること」と「境界を曖昧にすること」へと筆を進めていくが、私は少し別の方向へと思考が延びて行った。

一橋大学の現代思想論の授業で、合田正人先生がジャック・デリダの思想を説明していたとき、先生は黒板に一本の線を書いてこうおっしゃった。デリダは「囲い」(clôture)の哲学者で、線とその内的環境を問うている、と。線は概念的に幅がない。しかし、線を描くことは線のイデアから離れて線に幅を持たせることである。そして幅のある線を展開していく哲学がデリダの哲学だと、先生は続けた。

「幅のある線」とは不可能の喩えのようである。しかし、梨木香歩の例を見てみれば、それは極めて当然の例でもある。「線を引くこと」は概念的な動作だけれど、ひとたびそれが現実のものとなれば、必ず線には幅があり、内側が生まれる。そして現実の線には世界が畳み込まれている。

 

言葉は線を引く。このことは、線を越えたい私に越えられないジレンマを突きつける。それでも梨木香歩は「宝物をみる子供」の眼差しによって、デリダは「線の上の哲学」という眼差しによって、そのジレンマをぼやかしていく。決してごまかしているのではない。線の中に畳み込まれた世界を紐解いて行くことで、線の機能を軟化させていくのだ。

 

私は線を引いた。カワセミの生きる場を裂いた咎をこの身のものとして。そして、その線を越えられないことに苦しみを持っている。しかし、線そのものでもある言葉を用いることで、線の内側を見つめることができるということを梨木香歩と合田先生は教えてくれた。だから私も、現実の線の内側を見つめ、線の上の哲学を生きてみようと思う。不可能ではない。「線の上」という比喩を生きているものたちが確かにいるのだから。

 

 

 

村山 淳/ むらやま じゅん

東京自由大学セカンドステージメンバー。福島県いわき市生まれ。中央大学文学部西洋史専攻卒業。スコットランド、グラスゴー大学に留学しスコットランドゲール語を学ぶ。現在、一橋大学大学院言語社会研究科修士課程在籍。日本スコットランド協会ゲール語講師。歴史学、社会言語学の観点から言語とナショナリズム、マイノリティ形成などを研究している。時々、ハープ奏者、ゲール語民謡歌手。