戦争の手ざわり

高嶋 敏展 

 

 

戦後70年間の平和を築いてきた源は戦争の「手ざわり」ではないかと思います。

戦争遺構や激戦地ではなく日常に食い込むように残された「手ざわり」がくさびのように日常と戦争をつないで平和の側に引き止めてくれている。

そのくさびが70年経ってほころび、外れようとしていると感じます。

 

戦争は人を殺し、土地や利権を奪う行為です。

そして、その本質にある最も恐ろしいものは,人の心を蝕み、狂気を宿らせる事です。

良識ある普通の人間を教育と情報管理によって「敵を殺せ」、「奪え」,「敵は人ではない」と声高らかに叫ばせたことからもわかるでしょう。

狂気と一緒に叫んだ言葉の数々。

戦争協力にいじましく、ひたむきで滑稽ですらあった国民。

戦後、手のひらを返して平和を訴える権力者への不信感。

この70年間、危うい中で日本が平和を保ち、戦争を遠ざけたものは、戦争への反省と後悔です。ぶつけどころの無い、怒りと悲しみです。

 

戦争の「手ざわり」はくり返し、その時の記憶を甦らせ、戦争の悲惨さを思い出させます。

タブーとして踏み込んでいけない、犯してはいけないもの、戦争への恐怖や恐れが色濃くあったのではないでしょうか。

身近な戦争の「手ざわり」とはどのようなものか、僕の回りにある二つの「手ざわり」を紹介します。



「松根油の採取跡」

・松根油の採取の傷痕。逆三角形に切れ目を入れ、空き缶などで集める。

一晩でおよそ

 

 

「旧海軍大社基地の滑走路」

出雲市斐川町には終戦間際に航空基地が2カ所作られました。大社基地と直江基地と呼ばれるものです。

大社基地は昭和20年の3月から建設が始まり6月下旬に完成、直江基地は7月ごろに工事が始まり未完のまま終戦を迎えます。

1000人を越える兵士と数百人の海軍飛行予科練習生、数知れぬ近隣の住民や国民学校の生徒、都会からの疎開児童が基地建設のために動員されました。

そして、あと数ヶ月、戦争が続いた場合、この二つの飛行場から特攻作戦の飛行機が出撃する予定でした。

大社基地は、「桜花」とよばれる人間をミサイルにして敵の艦船に体当たりする兵器の基地になる予定で配備直前の状態でした。

直江基地は「応急離陸場」と呼ばれます。

非常に短い滑走路が特徴です。

特攻機の使用が前提で着陸する必要がない離陸専用でした。

九三式中間練習機(通称:赤とんぼ)で特攻を行なう準備が進められていました。

 

直江基地は戦後すぐに畑にされ痕跡を見る事はできません。また、大社基地の滑走路は国有地の払い下げによって大部分がなくなる予定です。

・大社基地の滑走路は高速道路のインターチェンジへの側道のために真ん中に道を付けられ、一部を民間に払い下げられました。正面のベージュの建物は滑走路の上に建てられた葬祭会館。

 

・石灰石が混じる滑走路のコンクリート。石灰石は岡山県の新見市より、砂利石は江津市より運ばれた。兵士や予科練の生徒、近隣の住民や学童にいたるまでが総力を上げて短期間で完成させた。

 

 

 

高嶋 敏展/たかしま としのぶ

写真家、アートプランナー。1972年出雲市生まれ。1996年大阪芸術大学芸術計画学科卒業。

大学在学中に阪神淡路大震災が発生。芦屋市ボランティア委員会に所属(写真記録部長)被災地の記録作業や被災者自身が撮影記録を行うプロジェクトを 企画。1995年~「被災者が観た阪神淡路大震災写真展」(全国30か所巡回)、芦屋市立美術博物館ほか主催の「震災から10年」、横浜トリエンナーレ 2005(参加)、2010年「阪神淡路大震災15周年特別企画展」、2012年「阪神大震災回顧展」など多くのプロジェクトに発展する。