―白い虹―

桑原 真知子

 


 
    月の影を踏んで 海辺へと続く道を急ぐ
    海辺には一面の流木が 星に向かって鋭角に立ち並ぶ
    銀色に光ってあまりにも美しいので 一本持って行こうとすると
    白い登山帽をかぶった作家が
     「それは時間と距離の重層で 運んで行くには一億光年必要だから
    そのままにしておいた方が良い」という
    生命の深淵を見つめ続けた殿敷さん
    今どの辺りを歩いてますか
    アンドロメダにはもう寄りましたか

 

広島の無垢画廊であった殿敷さんの個展は、壁のコーナーに流木が立ち並び、「時間と距離のバームクーヘンですね」と感想を述べると、殿敷さんがさざ波のように静かに笑っていたのを、昨日の事のように思い出します。
 
殿敷侃さんは、広島生まれの現代美術作家です。三才でお母さんと共に被爆し、お父さんは原爆ドーム隣の郵政局で気化されました。被爆からしばらくして朝目覚めた殿敷さんの傍らで、一緒に寝てたお母さんが息を引き取っていて、それからは親戚の家で育ったと聞きました。
作品のテーマは自らが体験したヒロシマ、過剰なモノが溢れゴミが溢れる消費社会を告発する環境アートでした。
タイヤを木の枝にかけた、タイヤの生る木。浜辺に漂着したゴミを、砂浜に大きな穴を掘って焼いた巨大な塊のお好み焼きシリーズ。
透明ビニールシートの何百メーターかに赤ペンキでドローイング。竹竿に引っかけて壁のように直立させたシートは、平和公園から繁華街にまで続き、赤く塗られた広島の顔が見えました。
ドローイングの現場を見たながた画廊のお父さんは、「ワーワー叫びながら真っ赤になって描きよって、母親を探しとるようで可哀想なかったわ」と話してらっしゃいました。

 

錦帯橋での「環境アートプロジェクト」も含めて、作品作りにはいつも大勢のボランティアの方が関わってました。かねこアート、ロサンジェルスのコンヴェンション・センターやソウルでの展示、佐賀町エキジビットスペース、水戸芸術館、栃木県立美術館と精力的に制作を続けて、今度はヨーロッパで作品を展開して行く準備をしてる矢先でした。被爆に起因する肝臓ガンで、1992年2月11日に50才で亡くなりました。
1975年にながた画廊で出会ってから亡くなるまで、いつもお兄さんのように接して下さいました。時々家に電話があって私がいないと母と話し、「あなたのお母さんはどんな人かね」と訊ねられたこともありました。
殿敷さんの旅は、お母さんを探す旅だったのかも知れません。私のお財布の中には、母の女学生の頃の写真と共に殿敷さんの益田のプロジェクトのテレフォンカードが護符のように入ってます。

    「私は明日を信じる」と
       魔法瓶に踊る赤い文字と咲きこぼれる曼珠沙華の花弁
      ひび割れた唇からの最後の叫びに
       赤く塗られた『ヒロシマ』が風に舞い上がりはためいて
       死者たちに夏の体が還ってくる
 
曼珠沙華の花が好きだった八月の人。自らの命を燃焼させて苛烈に作品作りを続けた姿勢に、作家の凄みを感じていました。
MICHIKO FINE ARTでは殿敷さんが焼いた器に頼まれ花を生けて、これが最初で最後のコラボレーションになりました。

 

 

人間は、自分たちのつくり出した人工的な世界に入り過ぎました。土や水、植物の芽生えといった現実の世界から遠ざかり、鋼鉄とコンクリートの町に自分自身を隔離してしまったのです。人間は、おのれの力に酔って自分たちの世界を破壊する実験をつぎつぎに進めているように思えます。―

レイチェル・カーソンの言葉です。

 

5月にオバマ大統領の来広があり、出迎えた被爆者代表の方の「謝罪を求めない。それよりも核廃絶の為に未来に向かって一緒に歩いて行きたい」といわれた言葉に考えさせられました。原民喜の『夏の花』の最後にはこう記されています。「この地獄と抵抗して生きるには無限の愛と忍耐を要する」と。被爆者の方は愛と忍耐で「謝罪を求めない」菩薩の境地にたどり着かれたのでしょうか。殿敷さんならどんなことを思ったでしょう。

来年三月には広島市現代美術館で殿敷さんの特別展が開催されます。白い虹になった魂にまた出会えます。

 

 

*美術手帳[追悼]殿敷侃死を生きる座標19925月号参照

 

*レイチェル・カーソン―いまに生きる言葉/上遠恵子著/株式会社翔泳社より抜粋

 

 

 

桑原 真知子/くわはら まちこ

広島県生、空見人。多摩美術大学絵画科油画課卒業。広島大学文学部考古学科研究生修了。草戸千軒町遺跡にて、遺物の漆椀の図柄の模写や土器の復元を行う。シナジェティクス研究所にてCG担当とモジュール作成などを経て、現在は魂を宙に通わせながら作家活動を行っている。