ボケットに燕石を

4  寺山修司論② ウソを生むホントの場所

信行

 

 

 

流れていたのは美空ひばりの「悲しき口笛」だった。

寺山修司が中学一年で母と生き別れになるとき、二人は青森の駅裏の屋台で夜泣きソバを食べた。そのとき流れていたのが「悲しき口笛」だったので、寺山はこの曲を聴くと母のことを思い出すという。


舞台となった青森駅は、寺山作品にしばしば登場する。たとえば叙事詩「李庚順」では、主人公が次のように語る。

 

 

東京へ行きたい

と思いながら

自分の心臓の部分にそっと手をあててみるとその最初の動悸なのか

青森駅構内の機関車が一斉に汽笛をならす音なのか

ひどくけたたましい音がする

―叙事詩「李庚順」

 

 

機関車そのものではなく、汽笛に東京への憧れを高鳴らせ、それを心臓の鼓動と重ね合わせる。『ロング・グッドバイ』や『アダムとイブ、私の犯罪学』にもみられる寺山らしい手法である。

 


寺山は
19351210日、弘前市に生まれた。5歳から9歳までを青森市で、9歳から12歳までを三沢市で、そして中学一年から高校を卒業するまでを再び青森市で過ごした。つまり少年時代に青森県内を転々としたのである。しかし同じ県内とは言え、弘前と青森は津軽地方、三沢は南部地方だ。二つの地域は隣り合っているものの、おもむきを異にする。文芸評論家の三浦雅士は「簡単にいえば、津軽には雪があり、南部には雪がない。そして、誤解を恐れずにいってしまえば、津軽は暗く荒々しく、南部は明るくのどかである。むろんこれは優劣ではない」(『寺山修司―鏡の中の言葉』)と言った上で、寺山には津軽と南部の両方の要素があると指摘する。

 

三浦もまた、弘前生まれで津軽と南部の両方で育ったが、これは説得力のある説だ。『われに五月を』の瑞々しさと『青森県のせむし男』の不気味さは、とても同一作者とは思えないほど、作品イメージに隔たりがある。

 

さて、そんな寺山が少年期を過ごした本州最北の地を、ぼくは横浜から憧れ続けていた。そして21歳の夏休み、上野発の寝台特急あけぼのに乗り込んで、終点の青森駅で降り立った。かつて、ここは東北本線の終着駅。線路が途切れ、道内にゆく人々は連絡船に乗り換えた。


ぼくは駅を出て、まずは広大な縄文のムラ、三内丸山遺跡へ行く。遺物保護のため、遺跡の一部はドームで覆われている。その中は生ぬるいサウナ状態で、ブルーチーズみたいな臭いがする。三内丸山遺跡は寺山の存命中(
19351983年)も縄文遺跡として知られたが、1992年から始まる大規模な調査によって大量の遺物が発掘され、教科書に載るほど有名な遺跡になった。このときまで寺山が生きていれば、確実に自身の作品に取り込んだことだろう。


道路を挟んだ反対側に、青森県立美術館が建っている。青木淳の設計で
2009年に開館した同館は、発掘現場をモチーフにした白が基調のモダンなデザインだ。エントランスホールで、シャガール作の巨大な背景画「アルコ」3枚に迎えられる。ピカソやマチス、クレーといった同時代の画家たちの作品は、この美術館によくお似合いだ。青森出身のアーティストの作品も、棟方志功から奈良美智まで幅広くコレクションされている。2008年には寺山の作品展として、「寺山修司 劇場美術館:19352008」が開催され、「土方巽と日本のアヴァンギャルド」と併催された。寺山と土方はともに東北出身であり、日本のアングラを支えた二大騎手と言えるだろう。


三内丸山遺跡が濃厚なエロスとタナトスの漂う津軽なら、この美術館の清浄無垢な建物は南部だろうか。それらは同じ縄文の地層に建ち、津軽と南部の世界観を寺山が媒介している。

 

翌日。寺山が暮らした大叔父の経営する映画館から程近い青森港を、小型船で出航。下北半島の秘境、仏ヶ浦をめざす。人の手を加えず、津軽海峡の荒波と強風に何万年も揉まれて出来た巨大な奇岩群が、2kmにわたって続いている。しかもその多くが、仏像の形をしている。この地で歌人の大町桂月は、次のように詠んでいる。

 

《神のわざ鬼の手づくり仏宇陀人の世ならぬ処なりけり》

 

仏ヶ浦は近年、「日本のカッパドキア」などと呼ばれ、訪問する観光客が増加した。もうすっかり「人の世」になってしまったのではないか。そんな危惧をしていたが、大丈夫。まったくもって、向こう側だ。


そう思えてくるほど、ここには多くの人間に踏み付けられても破れない、タフな処女膜のような結界がある。その結界にたたずむお地蔵さんには、地元の人たちが白玉団子を供えてゆく。なんと象徴論的な空間であるのだろう。


三日目、霊場・恐山へ。ちょうどこの日は、下北半島上空を台風が通過する予定になっている。朝一のバスで早々に登る。バスは「三途川」という看板を越え菩提寺の門前に停車する。参道の脇には、入山料だけで入れる温泉がある。


寺を参拝して裏手に周ると、そこから先はあの世の風景だ。石積みの上に刺さった赤い風車、
10円玉が溶けた真っ青の水たまり、硫黄の涌き出る黄色い泉。


墓石や表札が捨てられた岩場を過ぎて、横殴りの雨の中、宇曾利湖の極楽浜へ歩いてゆく。白浜に突き立つ風車、ひっそりたたずむ墓、貝塚状の石積みと地蔵。もはやここに住所があり、番地まで打たれていることに違和感を覚えてしまう。


しかし不思議と人工性は感じない。それは、こんな悪天候にも関わらず、足元の砂の上で体調
3cmほどのイトトンボたちが、何組も交尾に励んでいるからかもしれない。このイトトンボたちは、水子なんだ。寺山が、あるいは小林秀雄が一匹の蛍を「おっかさんだ」と思ったように、ぼくはイトトンボを水子だと思った。透明な息遣いが荒々しく聞こえてくる。

 

ここ恐山は、寺山作品に幾度も登場する重要なモチーフである。しかし意外なことに、寺山がはじめて恐山に登ったのは196226のときであった。それ以前に登ったことがあるかもしれないが、意識的な体験として記録に残されているのは、これがはじめてである。高校卒業後に上京し、早稲田大学入学とネフローゼによる入院を経て、東京で活動を展開していった寺山。一時帰郷による恐山体験は、ここを土着的な素材として自らの作品に取り込んでゆく契機となった。

 


恐山を用いた寺山作品で最も知られているのは映画『田園に死す』である。この作品を通して恐山のおどろおどろしいイメージが全国的に広まったと言っても過言でない。とくに冒頭の
5分間。まず次の二つの短歌が、黒地のバックに白抜きでスーパーインポーズされ音読される。

 

《大工町寺町米町仏町老母買う街あらずやつばめよ》

《新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥》

 

そしてカラスの群れ鳴く声が聞こえてから、セピア色の画面が現れ、墓地を舞台にした鬼ごっこのシーンとなる。おかっぱの女の子が正面を向き、目かくししながら「もういいかい?」と言う。後ろの子供たちは草深い墓地の中にかくれる。「まあだだよ」。しばらくしてから鬼の女の子が「もういいかい?」誰も見えない墓地の中から「もういいよ」と声がする。

 

鬼の女の子が目かくしをとると、背後からかくれていた子供たちがゆっくり現れる。どうしたことだろう。鬼の女の子以外、みんなもう大人になっている。郵便配達人、洋装の女、軍人、子を抱いた母、満州浪人。

 

切り替わってカメラは暗い家の土間を映す。戸の隙間から日が射し込む。寺山の母の若き日の写真、破れているが糸で縫い閉じてある。戦死した二人の兵士の写真、これも破れているが糸で縫い閉じてある。おかっぱの少女の写真がもちくちゃにされ、破れている。その上に短歌がスーパーインポーズされ音読される。

 

  《ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな》

 

一輪の赤い花が川に落ちてゆく。

シーンが切り変わり、恐山が現れる。馬車に積まれた女の死体が橋を渡ってゆく。死体は馬車から半分ずり落ち、髪の毛が地面に引き摺っている。馬車の後ろから学生帽の一人の少年が風呂敷に包んだ遺品を抱いて、泣きながらついてゆく。この画面に短歌がインポーズされて音読される。

 

  《亡き母の真っ赤な櫛を埋めにゆく恐山には風吹くばかり》

 

カメラは荒涼とした恐山の菩提寺本堂を正面から映し、その画面にタイトル「田園に死す」の文字が現れ、少年少女による「こどもぼさつ」の合唱が始まる。

 

メイン・キャストのスーパー字幕が流れる間、バックの景色は次々に切り替わる。恐山をゆっくり渡ってゆく黒い角巻の老婆の群れ、カラスの群れ、岩の上に一面に並べられた紙の風車、血の色をした湖、そのほとりでコントラバスを弾く男、岩の上の卒塔婆。

合唱と共にスーパー・タイトルが終わる。

 

以上5分間の映像ではコラージュが多用され、他の寺山作品でも類を見ないほど高度な視覚的効果が実現している。それと同時に、「かくれんぼ」「戦争」「母」といった寺山作品の重要なモチーフが、極彩色を施された恐山をバックに次々と現れる。それぞれのモチーフについては、次回以降で詳しく検討することにしたい。


『田園に死す』の主人公である「私」は、父親のいない中学生の少年である。少年は母と二人で暮らしている。このことから、本作は寺山の半自伝的作品であると思わせる。そして「私」は、恐山のイタコに父親の霊を呼び出させて会話することを唯一の楽しみにしている。実際、寺山は恐山体験を通して、イタコに強い関心を抱いた。しかしその関心の所在は、映画の「私」とかなり異なる。寺山は「しらみの哲学」で次のように述べている。

 

 

七年前に飢餓で死んだという息子と話しをしに行った母親が、口寄せをしている巫女(イタコ)と死んだ息子の区別がつかなくなり、年老いた盲目の老巫女を抱きしめて、オイオイと泣きだしてしまった……、などという光景もなかなかいいものですが、もっといいのは、その母親も、口寄せが終わるとあとはケロリとして巫女と並んで坐ってにぎり飯などを頬ばりながら、

「ああ、よがったわなあ」

などと冗談をいってまるでオルガスムスのあとのように晴ればれとした顔になっている――という光景です。

こうして儀式を受け入れる感覚が、彼女らの人生に、形而上学を育てて行くのであって、わたしはこんなところに、土着した野外劇の思想を汲みとれるようにおもっています。

―「シラミの哲学」

 

 

ここにおいて寺山は、「儀式」と「演劇」の本質を「性交」に絡ませながら言い当てているのではないだろうか。ただし、恐山のイタコは憑依型のシャーマンとはいえ、死者の言うことを自分のことばに変換して伝えるので、そこまで演劇性は高くない。しかし死者も相談者も同じ津軽弁の話者であれば、相談者は途中から感情移入し、目の前のイタコを自分の呼び出した死者と思う、いや、思いたいという衝動に駆られることだろう。

 

また、寺山の言う「土着した野外劇」としての恐山は、ラジオドラマ『恐山』でとても明確に表れている。ここでは恐山そのものの演劇性を問いながら、寺山の脚色によって更にもう一重、演劇性を帯びた恐山が鮮烈に立ち現われる。物語の後半、主人公の良太少年は月夜、風呂敷包みを一つ持って恐山にのぼる。到着した後の独白からみていこう。

 

 

良太> 恐山は、のぼってみると、ただの山にすぎなかった。

   ……少なくともおらァには、そう思えたのだ。おらァは、硫黄で焼けただれた岩肌をのぼり、鴉の声にもふり返らずに、頂上の近くまでやってきた。灰色の山に……おらはのぼりきるとすがすがしい朝の空気を一ぱいに吸いこんだ。山頂に鳥居があり、鳥居をくぐると巫女(イタコ)がいた。

 

良太> お早う!

巫女> ああー。

良太> 何してるの、こんなところで!

巫女> 話コしてたね。

良太> 話をのー。話をといっても、誰もいないのに?

巫女> いねって?ああ、おめには……

   見えねえだけだね。

良太> (笑って)見えないものは、ないものさ!

   おらだってもう、子供じゃねえ。

巫女> うんにゃ、おめはわらしだ!

   見えねものは、ねえものだなんてしゃべってるうちは、わらしだぞ。

良太> ……

巫女> ふとりまえのあんさまになると、見えねもんでも、ちゃあんと「ある」ということがわかるようになる。

良太> それは巫女が盲だから、そう思うんだ!

巫女> いやいや……わいには、あるもの、とないもののみわけつくァで、目だのっていらねえだずオン。

良太> じゃあ、あるのに見えないものというのは何なの?

巫女> それは……冥土よ、あの世よ。見えてでも、ほんとは無え……のが、この世での……見えねえけんどもほんとはある……のがあの世さね。

良太> あの世なんて、ほんとにあるの?

巫女> あるがないが、行ってみねばわがらねえね……行ってみるが?

良太> (好奇心で)……うん。

巫女> 行ってみでも……あの世で、誰さ出逢っても、「なして?」とか「なぜ?」とが訊けばまいねんだよ!

良太> なぜ、って?

巫女> 死んだ人と長話はしてもいいけんど、「なぜ」って訊けば終りだい。ええが?あの世はちゃんともう出来上ってるがら訊くことは何も無んだずオン。「なぜ」ってのは中途半端なものに訊くときのことばだからの。

 

 

そして巫女は呪文を唱え始める。するとあたりの風景は変わってゆき、カラスの鳴き声がいやに多くなり、遠くから物売りの声が聞こえ始める。良太はあの世へやって来たのだ。物売りは生首を売っており、川はさかさに流れ、どこかで子守唄がうたわれている。良太が歩いていると、知り合いの老人に出くわした。「なぞなぞじっこ」だ。この世では子供にむかってなぞなぞばかりかけていた乞食の老人である。

 

老人は、生まれ代るためにここへ来たのだと言い、ここへ来た人間は「誰も死んだんではない」と言う。「「夢だと思っていることがほんとで、ほんとだと思ってることが夢だ……」ということを誰も知らんだけなのだ」

 

不気味に思った良太は、帰ると言い出す。すると老人は、和子に会っていかないのかと訊く。和子とは、良太が思いを寄せる娘だ。その和子があの世にいると聞いて良太は驚き、老人に問いただす。

 

 

老人> いるとも、よ。

 あの賭博地獄の岩のかげの納骨堂の新仏が和子よ。昨日、漁師と結婚させられるのがいやで欅の木で、首を吊って死んだんだ。

良太> 欅の木で?

老人> そうさ、首を吊ったのさ。

 

良太> おらはあわてて岩山へ駈け上り、納骨堂に向かって走った。木々の白髪のそよぐ枯れ林をぬけて、納骨堂の前まで駈けこむと、はげしく戸を叩いた。

   和子!和子!

和子> (うたっている)「月ごよみ」

 

良太> (その唄声にかぶせて)おまえ、欅の木で死んだんだと?おらァの作った話通りに?

和子> (うたうだけ)

 

良太> おらがおまえのことを、姉さんみたいに……いや、おらの嫁さんみたいに好きだったのを、知ってて死んだのか?

和子> (うたいながら、すすり泣きはじめる)

良太> それとも……ほんとに漁師になるのが嫌だっただけなのか?

和子> (泣くだけ)

良太> なあ、和子、ここは夢の中だ!

   夢の中でためしたことを、ほんとにやるんだ、そうだろ?夢の中だからおらははっきり言える。おらはおまえが好きだ!

   好きだ!好きだ!好きだ!好きだ!

 

物売りの声> (遠く)生首――生首はいらねえがの……

 

良太> だが、好きだ、と夢の中でためしたってそれはためしにすぎない!和子!ほんとに好きだって言うためにおまえ、こんなところに来てしまっているなんて……

和子> 夢ではないの。これがほんとなのよ。

良太> 夢ではない?なぜ?なぜだ!

和子> ああ、言わないで……「なぜ」って……

良太> 和子(と抱き寄せてゆさぶる)(はげしい音楽、地獄の音楽)和子……夢なのか、これは

 

良太> 気がつくと、おらは巫女の首に手をかけていた。まるでこの年老いた巫女がおらの和子でもあるかのように……

   いや、この白髪の老女が、和子の生まれ代りであり、「夢だと思っていたことが現実で現実だと思っていたことが夢であったかのように」。

 

良太> おらはそれから巫女から手をはなした。

 言いようのないものが、おらの胸をじんと熱くした。

 おらは叫んだ。力一杯に叫んでやった。

 恐山の嘘つき!

 恐山の嘘つき!

 

 

現在のような独特の風景に恐山が造形されたのは、大正時代以降のことである。その意味で恐山はウソつきだ。また、マリリン・モンローの霊を呼び出しても津軽弁で喋るのは仕方ないとして、どの相談者に対しても同じような内容を語って聞かせるイタコの口寄せも、ウソつきにみえる。しかし良太の叫ぶ「嘘つき!」は、これらと次元を異にする。良太はイタコに見せられた恐山の夢の中で、自らの現実的な本心を悟る。そして、夢では本心を明かせるのに、現実では本心を隠すしかないこの転覆した世界そのものに、「嘘つき!」と叫ぶのである。

 

しかし、寺山自身は「ウソ」を決して否定的には捉えなかった。それは自身の思想を反映させたエッセイの中でたびたび触れられている。

 

 

ホントよりもウソのほうが人間的真実である、というのが私の人生論である。

なぜなら、ホントは人間なしでも存在するが、

ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。

―「人間を考えた人間の歴史」


ぼくが恐山から下山するバスに乗り込むと、台風の目に差し掛かりポッカリ晴れた宇曽利湖の上に、巨大な虹がかかっていた。ぼくは思わず、「恐山の嘘つき!」と叫びたくなる。しかしこれは、人間なしで存在する「ホント」の現象である。同じように、そこかしこから涌き出る硫黄も、極楽浜で交尾に励むイトトンボも、近代以前からある「ホント」である。

 

つまり恐山は、ウソを生むホントの場所なのだ。人間によって生み出される豊饒なウソの源泉となるホントの場所。しかしいざそこに立ったとき、もはや何がウソで何がホントかはさして重要でない気がしてくる。そんな恐山に、寺山は魅了されたのである。


 
辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学をふまえ、離島でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」など。