骨がある。大重監督がここにいる。

高橋あい

 

 

0、プロローグ

 

10月26日の朝、飛騨高山から大阪行きのバスに飛び乗った。

 

前日の25日は、3ヶ月通った介護員初任者研修の試験だった。試験に落ちたら追試になる。26日に出発と決めていたから、気合いを入れて試験に挑んだ。授業ではクラス不真面目だった私が、クラス1の合格点だった。本来は28日の終業式まで行くことが義務だったが、資格だけを受取り、卒業証書は辞退した。

そして、10月26日の朝、飛騨高山から大阪行きのバスに飛び乗った。終りを決めない旅だった。

 

 

1、縄文ミーティング

 

10月26日は、大重監督作品「縄文」主演の西尾純(天人JUN)さんの誕生日。彼のアジトである大阪・中崎町「Salon de AManTo」にて「縄文」上映会と、天人JUN×小嶋さちほ×Shaman Sugeeのトークとセッション。トークには、飛び入りゲストで岡野弘幹さんも加わった。コーディネートは、大重監督一周忌イベントに参加してからサポートをしてくれている関真理子さん。私がこの旅で持ち歩いていた監督のピンクのシャツも舞台に加わる。JUNさんを通じてしか大重監督を知らないという人が大半だったかもしれない。けれど、大重監督とJUNさんが私や多くの人をこの場所に導いてくれた。監督と一緒に純さんの誕生日を祝った。誰もが縄文の子どものように生き生きとしていた。

 

 

JUNさんが経営するゲストハウスに泊まり、翌朝は縄文モーニングセットを頂く。空家を改造したという建物の壁面は一面に木が繁る。コンクリートジャングルの大阪の中で、ここから縄文時代が呼吸をしている、そんな場所だった。店の中庭に差し込む光りは、「光りの島」に現れていた光り、そのものであった。

 

 

2、骨との再会

 

中崎町から大阪へ歩き、神戸三宮へ向かう。監督の息子、生さんと待ち合わせをし、大重監督の骨を受取る。白い簡易封筒に「お骨」とだけ書かれている。いまにも封筒の端が破れて、「お骨」がこぼれてきそうだったので、有り合わせのジップロックに封筒ごと入れた。キリンビールで献杯をして、私のバックパックに監督の骨を入れた。車椅子の乗り降りをする度に掛けていた「よっこいしょ」という声は、もう今は必要ない。

三宮のアーケードには、阪神淡路大震災復興企画のひとつとして、アーティストの作品が埋まっているという。その中に、大嶺實清さんの作品があるというので案内してもらう。

 

ブルーカナイ

琉球の昔からはるか海の後方より平和と安寧、五穀豊穣からもたらせるというニライカナイ伝説がある。作者はその伝説が好きである。兵庫・神戸鎮魂の祈りを捧げ、未来都市神戸に作品ニライカナイを贈る。

ホワイトカナイ

未来へ発信する。「何をしたか」ではなく、「何をするか」が最重要課題である。常に未来へ向けて創造しつづける。

 

大嶺さんのメッセージは、大重監督と二卵性双生児ではないかと思えるほどに共通している。これも何かの縁だろう。遠い沖縄からも「いってらっしゃい」と言われている気がした。

 

 

3、坪谷令子さんとの夜

 

神戸三宮から明石へ向かう。明石から海の方へ15分くらい歩いたところに、十数階建てだろうか、瀬戸内海に面して建っているマンションに向かった。

坪谷令子さんは、灰谷健次郎さんの本の挿絵を書いていることで知られている画家である。大重監督と坪谷さんは、阪神淡路大震災を共に経験し、震災後に監督の映画を見た坪谷さんはすぐに共鳴し、親交を深めるようになったという。

 

「あの時、大重さんが感動したのは、”夕日に映える瓦礫の影”でした。はじめはどうしたものかと迷っておられたようです。じっと瓦礫と向き合って、どれくらいの時間が経ったでしょう・・・夕日が西の空に落ちるころ、地面にクッキリと描かれた影を見て、「瓦礫も語りたいんだよなぁ~」と静かな声で言われたのでした。大重さんは、その時に瓦礫の”声”を聞いたのだと、私は、そう思いました。長い間じっと待って、ようやく瓦礫に”神戸で、その姿をさらすこと”を許してもらった・・・・映画監督という表現者の誠実を感じました。」

 映画「友よ!大重潤一郎魂の旅」を観る会ブログより

http://tomoyo-ooshige.seesaa.net/

 

坪谷さんも大重監督も、大の料理好き。監督が明石駅前にある「魚の棚商店街」で、魚丸ごと一匹買ってきては、坪谷さんの家で料理をし、夜な夜な話に花が咲いたのだと聞くとなるほど、その空気は私と坪谷さんの食卓にも流れてきました。監督の大好きな海と風と渚、これだけでも酒の肴に十分な自然だった。あれから22年の月日が経った震災を想うにも、また適した場所であった。

 

 

4、大阪南港へ

 

翌日は昼過ぎまで明石で過ごし、夜は京都今熊野に住む友人宅に一泊。ここも区画整理がされていなく、ひしめく住宅地の中に縄文の気配が残っていた。2002年まで監督が暮らしていた関西をしっかりと歩き、大阪南港から鹿児島へ向かう心の準備を整え、10月29日の夜、サンフラワー号に乗り込んだ。西に沈む夕日は、私が乗る船が進む道しるべだった。これから黒潮の流れを船一杯で受けながら下降していく。

 

 

5、魚雲の群れと桃色の龍

 

最も好きな公共交通機関は何かと問われたら、間違いなく船を選ぶだろう。いまでは最も時間がかかるし、運賃も安くない。けれど、島が見えなくなった沖で、甲板に一人佇む孤独と恐怖と、先が見えない期待を孕む時間は、真っ暗闇の山小屋に一人でいる時の興奮と似ている。もしかしたら死ぬかもしれない。けれど、その「もしかしたら」を、運良く通り過ぎたら、必ず光りに出会えるのだ。どんなに暗くても、どんなに寒くても、私は太陽が水平線から1キロ下にいる頃から闇を見つめ、空を泳ぐ魚や龍と共に、そのときを待つだろう。

山で暮らす私には、久しぶりの朝日だった。朝日は、監督と共に過ごした久高島にも、間違いなく等しい光を届けている。

一番安い雑魚寝の部屋は、両手で数えられる程の乗客数だったが、私以外は関西から九州へ里帰りをする年輩の女性だった。2016年2月に亡くなった熊本の祖母と同じイントネーションの会話に安心しきり、波に身体をゆだねていた。指宿方面に行くなら、「指宿ではなく山川に泊まりなさい」という助言をもらい、その日の宿は決められた。

 

次回は、鹿児島・坊津へ。そして再び大阪への旅をお届けします。

 

黒潮に、「光りの島」「風の島」の原点があるように思えてならない私の、大重監督との旅は、11月11日に飛騨へ戻った後も続いています。

 

※セネガル紀行も、気が向くままに推敲致します。気長にお待ち下さい。

 

 

 

高橋 あい/たかはし あい

写真家。多摩美術大学情報デザイン学科卒業。東京芸術大学修士課程修了。ポーラ美術振興財団の助成を受け、2012年9月から1年間、アメリカ合衆国・インディアナ大学にて写真作品制作と研究を行い、2013年10月に帰国。現在は飛騨高山を拠点としている。東京自由大学では、主に 「大重潤一郎監督連続上映会」の企画を行ってきた。また、このウェブマガジンの発案者である。ホームページ