『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風-Passing through the Shrine’s Gate-』を鑑賞して

唐澤 太輔

 

 

私が、この映画に何か運命的なものを感じたのは、私が南方熊楠研究者(実は哲学が専門です。日本海文化も研究しています)だからというだけではありません。私は、以前より「風」に大変関心があり、今年に入ってからは、「虚空と風―南方熊楠の場所をめぐって―」という題名の論文を、これまでにないほど力を入れて書いていました。数ヶ月かけて、じっくりと書き、先月末、初校を出し終えたばかりです(詳しい内容はここでは書けませんが、融通無礙で浸透性のある風と熊楠の「在り方」について述べた論文です)。そのような時に、『鳥居をくぐり抜けて風』を知りました。(予告さえ)観る前から「この映画は、絶対にすごい」と直観しました。

この度、池田監督、小笠原プロデューサーの御厚意で、プレスリリース用の DVD を鑑賞させていただき、私の感じていた直観は、やはり正しかったと「確信」に変わりました。

 

「神様は、目には見えないようだけど、どこにでも居て、目を凝らせば見えるんだよ」

 

――これこそ、神道の感覚だと思います。言語化することの難しいこの「感じ」は、大変重要なものです。そして風こそが、それを見事に表すものだと言えます。当然、風は、人間の目には見えませんが「ある」と言われるものです。そして、少女の祖父が言う「目を凝らして見る」とは、きっと、視覚ではないところで感得するということなのだと思います。

「感得する」(熊楠は「了簡(りょうかん)する」という言葉を用います)、これがこの映画を観る上で、非常に重要なポイントになるような気がします。それは、understand(理解する、下に立って対象を見ることによって頭で理解する)というより、perceive に近いと思います。per-は、through と同じく、入口から出口まで貫通することを表し、-ceive は、掴みとることを表します。つまり、perceive は、「知覚する」という意味で用いられるのが一般的ですが、語源的には「感得する」「了簡する」というのが相応しい言葉です。

神社や鎮守の森に入ったときのように、この映画は、ある種の神聖さ≒Something Greatを感じさせてくれました。

 

古来、風は「気」と同義と考えられてきました。人体の「気」をコントロールするとは、換言すれば、「呼吸」を整えるということです。「呼吸」とは、いわば、人体を流れる風です。つまり、呼吸=風=気と言えると思います。もう少し言うならば、「良い気」が流れている場所は、風が吹き抜ける場所です。豊かな森を抜け、太陽の光をたっぷり浴びた風が吹き抜ける熊野は、本当に「良い気」が流れる場所なのだと思います。

私淑する精神医学者の木村敏先生は、ある本の中で、「自分のことが自分のことでありながら同時に相手のことであり、相手のことがそのまま自分のことでもある領域」のことを「日本語で『気』という言葉で表される領域だ」と述べています。風も同じではないでしょうか。それは、人と自然、人と動物、そして人と人とをつなぎつつ混ぜ合わせる(Mix する)ようなものだと思います。そして、その領域のシンボルが、鳥居なのだと思います。

西洋の教会のような巨大で堅牢な門などとは異なり、日本の神社の鳥居は、あまりにも簡素で華奢です(映画の冒頭でも、たくさんの質素な鳥居が出てきました)。しかし、それこそ重要なのだと思います。それは、誰をも拒まず受け入れてくれる存在の象徴であり、また、人と人、人と神、この世とあの世を、ある種容易につなぎ(ムスビ)合わせてくれる通路にもなっているのだと思います。

ムスビは、神道において最も重視される概念です。男女が結(ムス)ばれ、息子(ムスこ)と娘(ムスめ)が生まれ、最期に息(いき・ムス)を引き取る。――このように、日本人の人生は、「ムス」あるいは「ムスビ」の連続です。「息を引き取る」の「息」は、つまり人体を流れる風であり、気であり、それを、遺された者は自分に引き受けて生きていくわけです。

「ムスビ」が、「苔むす」の「むす」と語源を同じにするかはわかりませんが、何か関係はありそうな気がします。苔を美しく感じるのは、どうやら日本人独特の感性のようです。映画の中で、少女が苔を口に含むシーンがありましたが、あの「感じ」、わかる気がします。美しくむす苔を、引き受けたいというか、取り入れたいという感覚です。

「良い気」が流れる場所では、自他の壁は溶解するのかもしれません。鎮守の森などに入り「このまま自然に溶け込んでしまいたい」と思う経験は、私だけではなく、色んな方々がしているのではないでしょうか。しかし「このまま自然に溶け込んでしまいたい」と思うのは、まだ、少しだけいやらしい自我が残っている証拠で、それを一歩越えれば、言葉や概念など吹っ飛んだ処に行けるのだと思います。そこは極めて「無」に近い場です。少女が虚ろに苔を食べるシーンは、その「感じ」がとてもよく現れていると思いました。

 

この映画を観る上で、もう一つ重要なポイントは、音だと思います。少女が苔を食べるシーンの前後は、三味線の音以外、自然の音(葉擦れや川のせせらぎ)は、ほとんどありません。音のない自然は、どこか無機質な感じがします。逆に音のある自然、例えば「上風(うわかぜ)」は、映画を観ている私に、稲の匂いまで運んで来てくれました。また、風が森の葉を揺らす音は、木々の匂いを運んで来てくれました。音は、風と密接に関わっていて、また音は、嗅覚にもつながっているのだと思います。稲や木々や花の匂いに包まれた私は、なぜかとても懐かしい感じになりました。

65 分間の映画を見終えて、私は、まるで〈夢〉を見ていたかのように感じました。〈夢〉はあらゆるものを結びつけます。自己と他者の壁を溶かし、自分が他人に他人が自分になることもあります。また、古来、人々は〈夢〉を、あの世とこの世との通路だと考えてきました。私は、自己と他者、この世とあの世、すべてに行き渡り浸透する〈夢〉は、まさに風のようだと思います。風は、懐かしい匂いとともに、大抵あっという間に吹き抜けていきます。〈夢〉も、郷愁や暖かさとともに一瞬にして終わってしまします(勿論、時には暴風雨や悪夢に襲われることもありますが)。

神倉神社、神倉山は、神武天皇と縁が深いところですね。『記紀』によると、神武天皇は、東征の際、紀南の熊野村で大熊に出会い、気を失ってしまったそうです。しかし、夢で宝剣を手に入れた高倉下(たかくらじ)という者が、その剣を神武天皇に渡した結果、難を逃れることができたと言われています。ちなみにこの〈夢〉は、日本で最も古いものだと伝えられています。

御燈祭の映像は、初めて見ました(神倉神社には一度だけ行ったことはあります)。圧巻でした。石段を駆け下りる人たちは、自分と他人の区別も、神と人間との区別も曖昧になっているのだと思います。すごい勢いで駆け下り、鳥居をくぐる人たちは、個という形をかろうじて保った全体=視覚化された風になっていると思いました。

 

熊楠は、風が見えたそうです。彼が「ゆうべ風の玉が入ってきて、書斎を突き抜けて西へ行った」と言うと、必ず近しい人の訃報が届いたそうです。また、熊楠は(日記に書いていますが)、熊野の森の中で、動植物の声がわかったそうです。勿論、それは視覚ではないところで見、聴覚ではないところで聞いていたのだと思います。このような感覚を、現代人の多くは「異常」と言うかもしれません。

命を落とすかもしれない危険な祭りを行い、目に見える風になろうとする人々を、都会の人々は「理解できない」と言うかもしれません。しかし、そのような感覚や行為こそ、古代においては、最も神聖視されてきました。なぜなら、そのような事柄こそ、「根源的な場」へと帰還する(少なくとも近づくための)方法だと、昔の人々はわかっていたからです。それこそ頭とは違う部分で。

頭だけで考え行為する現代人こそ、実は異常性を有しているのかもしれません。「根源的な場」あるいは「神」を知る方法を、自ら閉ざし見向きもせず、時に嫌悪さえすることこそ、実は、異常な事態なのかもしれません。

私は、私以外の方々も、この映画を見ることで、自己と他者、神と人、自然と人間との、つながりの在り方=「つながりそのもの」を改めて見直すことができると思っています。そして、日本の文化が、これまで長い間、どれほどこの「つながりそのもの」を大事にしてきたかが、体の芯から感じとることができると思います。

日本人が大事にしてきた「感じ」は、私たちにとって、最も近いが故に最も遠いものになっているのだと思います。近すぎるものは、当たり前になってしまい、その重要性が忘れられることがよくあります。この映画は、その近くて重要な「感じ」を、私たちに改めて教えてくれる作品になっていると思います。おそらく、主人公がニューヨーク育ちの少女というのが、とても良いのだと思います。鑑賞者が、少女の視点に自身を重ね合わせることで、(実は私たちにとっては最も近い)日本の不思議で、美しく、圧倒的な「感じ」を、新鮮な気持ちで見直すことができる工夫がなされているのだと思いました。

 

とりとめもない長文となってしまいました。どうぞお許しください。しかし私は、感得した Something Great を、完全な形で言葉に落とし込むこと自体、不可能なことなのだと思っています。「そこ」からの「感じ」が強烈であればあるほどに、それは難しくなるものだと思います。

『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』、私にとって本当に強烈な「感じ」でした。もっと多くの方々に鑑賞してほしい映画だと、心から思います。素晴らしい映画を制作してくださり、本当にありがとうございました。

 

2016/11/30

 

 

 

唐澤太輔 / Karasawa Taisuke

1978年、神戸市生まれ。2002年慶応義塾大学文学部卒業、2012年7月、早稲田大学大学院社会学科研究科・博士後期課程修了(博士〈学術〉)。日本学術振興会特別研究員(DC-2〈哲学・倫理学〉)、早稲田大学社会学科総合学術院・助手、助教を経て、現在、龍谷大学世界仏教文化研究センター(国際研究部門)博士研究員。専門は、哲学・倫理学、文化人類学、華厳思想の研究、南方熊楠研究。