歴史のなかの神道(4)

島薗 進

 

 

皇室と国家を支える浄土真宗

明治初期に浄土真宗が主張した「信教の自由」が、天皇崇敬システムと同調する性格のものであったことは、島地黙雷の思想の分析などを通してつとに論じられてきた(たとえば、藤井健志「真俗二諦論における神道観の変化――島地黙雷の政教論のもたらしたもの」、井上順孝・阪本是丸編『日本型政教関係の誕生』第一書房、1987年、など)。それはそれで意義深いものだが、あわせてその当時の浄土真宗教団の政治的動きも見てみたい。島地の論の政治的背景が見えやすくなるだろう。
仏教寺院を禁止していた薩摩への布教が解禁されるのは1876年である。その際、長州藩と縁が深い西本願寺は大洲鉄然を派遣し、自らが念仏とともに敬神と報国に努める教団であることを政府に明確に示そうとしていた(小川原正道『近代日本の戦争と宗教』講談社、2010年)。宗教は宗教、政治は政治だから政治権力には異を唱えず従うとする「真俗二諦」論を奉じ、「国威法光並ヘテ海外ニ輝カス」と唱える立場だった。大洲らの布教工作は西郷隆盛や大久保利通の意図にも合致するものだったが、国学・復古神道の思想的影響が強く反政府に傾いていく私学党の反発を招く。西南戦争に際しては西本願寺は強く政府側について布教し、「朝廷ノ至仁ナルヲ知ラシメ反党之非法不正ナルヲ悟ラシムル」ことを申し出ている。
西南戦争が終わると西本願寺の南九州への布教は急速に展開し、1880年までに鹿児島県内に80カ所以上の説教所を開設するに至る。1876年に創建されていったん戦火で焼失した鹿児島別院も1878年に再建される。東本願寺派や興正寺派などの諸派も布教を進め、1876年にはわずかに3つであった仏教寺院は、1877年に20、79年に10、1880年に19と増大していった(『近代日本の戦争と宗教』91ページ)。

「大師号」と「勅額」
この時期には、また本願寺教団と皇室との結びつきも強められていった。1876年、明治天皇から浄土真宗の開祖、親鸞に「見真大師」という大師号が宣下された。そして79年には、「見真」と書かれた明治天皇直筆の「勅額」が東本願寺に下賜され、2014年現在も御影堂正面欄間に掲げられている。この経緯について、真宗大谷派教学研究所編『「見真額」に関する学習資料集 「大師号」と「勅額」』(真宗大谷派宗務所、2011年)によって述べる。
君主から高僧に大師号を授けることは中国で始まったことだが、日本では死後に贈られる(おくりな)諡号(しごう))として授けられるようになった。最澄に対する伝教大師(866年)、円仁に対する慈覚大師(同)、空海に対する弘法大師(921年)、円珍に対する智証大師(927年)などが早いもので、江戸時代には源空(法然)に5度異なる大師号が授けられている他、覚鑁(真言宗)、聖宝(真言宗)、良忍(融通念仏宗)、実慧(真言宗)、真雅(真言宗)に授けられている。これらをあわせて12人の高僧に16の大師号が下賜されたが、親鸞は対象となっていなかった。
東西本願寺は江戸時代に何度か親鸞の大師号を朝廷に誓願している。親鸞聖人五百回忌を前にした1761年以来のことだが、その都度、却下されてきた。これはまた、一向宗にかわる「浄土真宗」という宗派名の公称の問題とも関わってきた。浄土宗から異端視される親鸞門流に浄土真宗を公称するのを抑える力が働いていた。明治維新後、大師号宣下と宗名公認の働きかけは新たな政治的意味をもつようになる。西本願寺は早くから勤皇の態度を明確にしていたが、幕府との関係が太かった東本願寺は、1868年1月に「朝廷遵奉」の誓詞を朝廷に提出し、その後は莫大な献金などで地位の保全、改善に努める(奈良本辰也・百瀬明治『明治維新の東本願寺』河出書房新社、1987年)。


国家神道に従属していく過程
教部省の設置には、仏教界も明治国家に貢献したいとする真宗からの働きかけが作用したとされるが、これとほぼ同じ頃、「真宗」を宗名として用いることが公認された。教部省開設にあたって、東本願寺は門末へ次のような「御教示」を送っている(『「見真額」に関する学習資料集 「大師号」と「勅額」』14ページ、『厳如上人御一代記Ⅱ』[真宗学事資料叢書八、大谷大学真宗学総合研究所、1994年]からの引用)。

今般教部省御開設ニ相成候に付テハ、広ク教法ヲ()キ普ク人民ヲ化シ、御国是ヲ光大ニ致候様、教法ニ関係有之(これある)モノハ勉強不致(いたさず)テハ聖恩ニ奉酬ニヨシナシ。就中(なかんずく)我真宗ノゴトキハ、内心ニ他力ノ信心ヲタクハヘ表ニハ王法仁義ヲ先トス事今更ニ喋々ヲ待タス。(中略)幸ニシテ僧侶学業習練ノ為、教導職ノモノヘ大教院ヲ建造スル事ヲ御免許ニ相成、(中略)右ニ付キ、各宗一同一ヶ寺金二円已上ヲ出金可致筈候(いたすべきはずにそうろう)条、時勢ヲ弁ヘ朝旨ヲ体認シ、(中略)一分ノ尽力可有之(これあるべく)候。


「聖恩」というのは天皇の恩を指すものと読める。「恩」は真宗において信仰の深い次元に関わるものだ。このときは期待をかけていた教部省体制が崩れかけた1876年9月、真宗六派は大師号宣下を教部省へ願い出ている。そこには次のように記されていた(同前、16ページ)。

 

 冀クハ之ヲ奉上シテ、親鸞ニ追賜スルニ大師ノ称号ヲ以テセラルゝコトヲ得セシメタマハゝ、啻ニ今日ノ信徒数十万歓喜スルノミニアラス、必ス当ニ子々孫々相伝ヘテ今上陛下ノ優恩ヲ感戴シ生々世々ヲ尽シテ之ニ報答センコトヲ欲スルニ至ルヘシ。其治化(ちか)ニ資益アル、已ニ此ノ如ク其当ニ然ルヘキノ理由甚タ照々ノ儀ニ候ヘハ前条御照察被成下(なしくだされたく)殊特ノ御詮議奉仰願(あおぎねがいたてまつり)候也。


これによって同年11月には大師号宣下が達せられ、79年には勅額が下賜される。そしてこのパターンは他の仏教宗派にも広がっていく。 
真宗諸派への大師号の宣下や勅額の下賜の際、真宗各派が皇道論的な言説を多用したわけではない。ただ、天皇の権威を宗教的な権威の上位におき、「王法」の領域では「王法」を尊び、その政治的支配の論理に従うという態度表明は明確になされている。「今上陛下ノ優恩ヲ感戴シ生々世々ヲ尽シテ之ニ報答セン」という語り口は、皇道への帰依を進んで唱えるようになる昭和期の暁烏敏や金子大栄を先取りするものである。
1890年代以降、真宗寺院では神聖な天皇を礼拝対象とする「天牌」を正当化し、1905年頃から一般寺院に受け入れるようになる(林弘幹「『天牌』安置の歴史と実態」『教化研究』73/74号、1975年4月)。こうして国家神道を積極的に受け入れていくようになる態勢は、1870年代の「信教の自由」「政教分離」の「達成」の段階ですでに着々と準備されていた。「国教」的な体制が緩められ「政教分離」へと向かったというわけではなく、「国教」としての国家神道がより有効に機能する体制が整えられていったと見るべきだろう。

 

(付記) 連載第4回の今回も第2回、第3回同様、島薗進「明治初期の国家神道――神社と制度史中心の歴史的叙述を見直す」(島薗進他編『シリーズ日本人と宗教――近世から近代へ』(高埜利彦・林淳・若尾政希と共編)「第1巻 将軍と天皇」春秋社、2014年9月)の一部を用いている。

 

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。