ボケットに燕石を

6  寺山修司論④ 南へ行くなよ

信行

 

 

「私」は母を殺せなかった。寺山修司の映画『田園に死す』は、主人公の中年男である「私」が、中学生である二十年前の「私」と出会い、母を殺すよう命令する。しかし中学生の「私」は母を殺せず、仕方なく現在の「私」は二十年前の母と向きあい飯を食う。

 

二人が食事しているのは恐山の実家の土間である。すると突然壁が倒れ、新宿の街が表れる。実は新宿のど真ん中に作られたセットの中で撮影していたのだ。このような「屋台崩し」を、寺山は映画でも演劇でも好んで多用した。

映画『田園に死す』の舞台崩し
映画『田園に死す』の舞台崩し


寺山の「屋台崩し」は、映画監督・今村昌平の影響が大きい。今村は監督作の映画『人間蒸発』で、ある日突然失踪したサラリーマンの男の行方を婚約者の女と捜索する。男の田舎の両親や会社の社長、仲人など、あらゆる関係者をインタビューして回るが、最後のシーンで、実はこれはすべてフィクションで、失踪した男など存在しなかった、そしていまこのシーンもスタジオのセットの中で撮影されている、という種明かしをおこなう。

 

映画が製作された1967年、都市では失踪人が急増し、社会問題になっていた。それをテーマに据えながら、今村はこの現実世界そのものが脆弱なフィクションに過ぎず、我々が安穏と生きているのも可能性の一つに過ぎないということを訴えたのだ。

 

今村は野心的な作品を数多く発表した。『神々の深き欲望』(1968年)もその一つだ。今村にとって初めてのカラー作品であり、いわゆる「南島」を舞台にした娯楽大作として、初めてキネマ旬報ベストテン第1位にランクインしたほか、毎日映画コンクール日本映画大賞・脚本賞・助演男優賞を受賞した。

映画『神々の深き欲望』のポスター
映画『神々の深き欲望』のポスター


構想6年、撮影2年の歳月を費やし、制作予算を大幅にオーバーしたこの作品は、南大東島、波照間島などで撮影が行われた。映画では現代文明から隔絶された南海の離島を舞台に、神話の世界観を受け継いで暮らす島民(彼らの名前は「ウマ」「トリ子」「亀太郎」など、動物名が入っている)と近代文明との超克、そして東京に暮らす現代人を魅了する島の根源的な生と性に光を当てている。

 

寺山は「ヤドカリ思想―今村昌平の場合」において、『神々の深き欲望』の随所に表れるヤドカリに注目し、ヤドカリのように家を守ろうとする島民の思想と、古事記に端を発する国造り(島を開発しようとする)の思想が対立を迫られるのが面白いと述べている。

 

『神々の深き欲望』の原作は、喜界島で幼少期を過ごした小説家、安達征一郎の短編小説だ。一話だけでなく、いくつかの短編小説から着想を得ている。「憎しみの海」と「種族の歌」は、丸木舟を使った海上での暴力シーンのモデルとなったし、「氾の儀式」は、前近代的な島の習俗に生きる島民と、近代的な都市から来た研究者との衝突というプロットの構造が映画と類似している。「島を愛した男」は、畑にある大きな岩を、穴を掘って埋めようとする男がいるという設定が採用されている。

 

このように、安達征一郎の南島の世界観が凝縮されたのが『神々の深き欲望』である。それにインスパイアされた寺山は、最後の長編映画『さらば箱舟』で神話的世界を描いている。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を大胆に翻案した本作は、沖縄でロケを行った。結果的に、沖縄・日本・台湾のテーストに寺山のテーストが混じり合い、「どこでもないどこか」の雰囲気を醸し出している。

映画『さらば箱舟』
映画『さらば箱舟』


しかし、沖縄でロケを敢行することは、寺山本人の意志ではなかった。寺山は北海道でロケをしたかったのだ。しかし周囲が悪化する寺山の体調を気遣い、寒さ厳しい北海道でのロケには耐えられないと配慮し、沖縄を強く推薦したのだった。

 

寺山は、『迷路と死海』で次のように書いている。

 

  人たちが皆、南へ向きはじめるとき、北へ目ざすことは、悲願である。文明は終焉するのだ、と人類学者は言う。南方憧憬は今では、時代を支配する疫病となってしまった。満員電車に揺られ、疲れきったサラリーマンは、目をとじる。瞼の裏に浮かぶのはロビンソン・クルーソーの無人島だ。文化果つるところに行けば、ずっと楽になるのだ、とサラリーマンは思う。(中略)

 北は曇り、日は荒れていた。そこには、血と麦の土地と、蠅と、書物と、桎梏があるばかりだった。北は呪い、南は祈った。北は言語で、南は沈黙だった。私は、孤立した個の内部の八甲田を、雪中行軍する第五連隊の悪夢を繰り返していた。南には芸能のさざめきがあった。南の聖地では、「生産とか交換とかが普通におこなわれる」日常の現実は、越えられていた。しかし、私は北に踏みとどまって、言語に執しながら、言語による「もう一つの都市計画」をもくろんでいた。言語は、意味の根拠であることに変わりはなかったが、しかし決して醒めた伝達の手段ではなかった。自由になんか、なりたくないのだよ、と私は言った。演劇が生成されるとき、かならず一つの自由は死ぬのだから。

  それから、南なんかへは行くなよ。

  南では、演劇の生きる場所など、ありゃしないのだ。「幸福は個人的で、不幸は社会的である」と、私は書いたことがある。実際、幸福感のなかで、手をあわせて祈っている魂には演劇のつけ込む余地などないだろう。市街との緊張関係のなかで生まれるべきであり、切り離そうとしても切り離れなくなってしまった日常的な現実を、劇の外の世界とせずに、劇そのものとして包括してゆく構想力である。生産も、交換も、すべてたぐりこんでしまうドラマツルギー、新聞記事を第二幕のテキストにしてしまう虚構の咀嚼力が、問われることになってゆくのだよ。

                   ―寺山修司『迷路と死海:わが演劇』

 

いささかステレオタイプな寺山の「南」へのイメージは、宮古列島の大神島を訪ねたことも影響している。紀行文「風葬大神島」(『花嫁花鳥:日本呪術紀行』)で、寺山は島の祭祀について口を閉ざす島民の寡黙さについて指摘している。もっとも、寺山という得体の知れない人間に対して、島民が秘められた神祭りについて饒舌に語るはずもないのだが、寺山は後日、大神島について民俗学者の鎌田久子にインタビューしている。しかし彼女もまた口をつぐんだと報告し、民俗学者の「過去の保存」に心をくだく研究態度が、島民の直面する過去と現在の桎梏に目隠しさせようとしているのではないかと批判するのである。

 

しかしながら、寺山の「南なんかへは行くなよ」という言葉を、文字通り受け取ってはならない。『家出のすすめ』では「精神の乳離れ」を、『書を捨てよ、街へ出よう』では、「街全体を書物として読みとっていくこと」を訴えた寺山だ。

 

ここで寺山は、「つくられた楽園」として消費される南国へ、右向け右でどっと押し寄せて癒される現代人の賤しさを指摘し、言語による世界の変革を続けてゆくことを宣言しているのである。

 

そもそも寺山は、行こうと思っても南なんかへは行けなかった。寺山の歌集『田園に死す』に次のような歌がある。

 

わが息もてどこまで花粉飛ばすとも青森県を超ゆる由なし

 

たとえ新宿にいようと、沖縄にいようと、寺山の魂は青森という北の辺境から一歩も超え出ることができなかったのだ。それは少年期に定められた宿命のようなものである。そんな寺山が沖縄でロケをした『さらば箱舟』は、イトコ同士の近親相姦に基づいた神話のような成り立ちをしている。寺山は次のように書いている。

 

  どうやら「古事記」って本が面白くないわけがわかってきたぞ、と私は言った。「古事記」、国造りの神話は毎年一冊ずつ書かれねばならないのに、そうなっていないところが問題なのだ。国造りとヤドカリのあいだのつながりが、立元と根吉の「戦友同志」という共通項でしかないところに、「神々の深き欲望」の暗さがある。私たちは国家にも家にも、他の何にも「属すべきではない」のであり、それらの神話を構想してゆける「古事記」の作者でなければならないのに、ウマもトリ子も根吉も亀太郎も――その他の登場人物達も「古事記」の一ページずつに埋もれてしまっている。

                 ―寺山修司「おまえの「古事記」をこそ」

 

 

毎年更新される『古事記』、読み手一人一人によって書かれる『古事記』。寺山は生涯を通して「もう一つの神話」の創造をたくらんでいたのだ。それは国家にも家にも他の何にも属すべきでない私たち一人一人によって書かれる神話であり、「もう一つの現実」を立ち上げるための神話である。

 

その神話の創造のために、寺山は「言語」の力に信頼を置いていた。しかし演劇作品をとってみても、「言語」に加えて、視覚・聴覚・嗅覚・触覚に訴えかけるような呪術的な仕掛けを畳みかけている。寺山の「言語」とは、音楽や美術、身体表現を含めたもっと広い可能性を持つ「ことば」という名の大海であったのだ。

 

寺山に惹きつけられる人々がいまなお後を絶たないのは、寺山のことばに触れた人々が「もう一つの現実」へ駆り立てられるからだろう。それはドラッグのような魔力を持ち、触れた人々を原初の「ことば」が発生したところ、芸術と宗教が一体になった「ことば」の源泉へと誘うのである。

 

198354日。寺山は47歳にして肝硬変から腹膜炎を併発し、敗血症によって帰らぬ人となった。しかし、寺山があらゆるジャンルを越境して散布したことばの種は、いまなお人々の心のなかで乱れ咲き、「もう一つの現実」を陶然と立ち上げるのである。

線路を走る寺山修司
線路を走る寺山修司

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえ、離れ小島や都市の喧噪、カビ臭い本の中でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」など。