歴史のなかの神道(5)

島薗 進 

 

 

島地黙雷の神道「治教」論
浄土真宗の島地黙雷は日本なりの信教の自由の形成に貢献した人物として知られているが、その背後には、「神道」は宗教ではないとする考え方があった。では、神道は何か。それは「治教」だという。島地は「教導職治教、宗教混同改正ニツキ」という文で次のように述べている。

神道の事については臣は悉く知るわけではないそれが宗教ではないことは確かである(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)神道とは朝廷の治教である(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)。古くから天皇は神道の治教を保たれた。宗教とした儒仏を用い給うことがあっても、制度としては漢洋の風を模せられても、歴代天皇は、天祖継承の道を奉じて国民に(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)君臨し給うた。これが惟神の(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)道であり(丶丶丶丶)朝廷の百般の(丶丶丶丶丶丶)()()法令、みなことごとく神道である(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)この皇室の神道こそが真の(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)惟神の道である(丶丶丶丶丶丶丶)。ただ近世にいたって、私に神道者と称するものが、宗教まがいの説を立てて、勝手に自らの一私説をもって、それを皇室の「神道」であるかの如く曲解せしめようとする者があるが、それは皇室の神道を、王政を小さなものにしようとする誤りである。神道とは、本来、決して宗教に非ざる者であり、天祖いらいの治教の大道である。

 

「治教」と「宗教」を区別するこの論は、近代の神道をめぐる制度にも大きな影響を与えずにはいなかった。この一節を引いている葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』(新版、2006年、39ページ、初版、1987年)は、この島地の論がその後の明治政府の宗教政策に大きな影響を及ぼしたと捉えている。

葦津珍彦による島地「治教」論の捉え方

葦津は皇室神道を治教と捉え、民間人の排仏的神道とは切り離そうとした。そのようにして、神道の力を分断しようとしたのだという。

皇室の神儀礼典を宗教とみとめれば、日本帝国の将来は、かれが見て来た英国以下のヨーロッパの君主制国家のように神道国教制への道をとる懸念が大きい。かれは、その点に表では一語として言及しないで、皇室の神道、惟神の道を宗教に非ずと断定して、それと国民の間に現存する諸流派の神社および神社への国民の神道信仰とを全く無縁のものとして分断し切断する強引な論理を立てる。皇室の神道は政令、治教であり「一民も之に背戻するを許さざる」権威を有するものとする。皇室が由緒ふかい新刊神社への官幣を供されるがごときも、これを治教上の非宗教的礼典として敬重すればいい。/しかし、それといわゆる民間人の排仏的神道説とは全く無縁没交渉のものとして切断する。(同前、40ページ)

 

葦津は皇室神道が治教として位置づけられがことについて痛憤の念をもっている。本来、宗教であるべきものが治教にされてしまった。それが「国家神道」だ。そして、それは島地黙雷のような仏教徒側の思惑にようものだというのだ。なお、ここでいう「国家神道」は「教派神道」と対置され、宗教ではない祭祀として位置づけられた神社神道を指している。

この「皇室の神道は宗教なる者に非ざるなり(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)」との理論は、いわゆる後の「国家神道」「神社非宗教」の発端となるロジックであるが、その最初の有力な提唱者が、真宗の島地黙雷であるという事実、およびそのロジックの意図するところが、宗教的神道を封殺するための仏教徒の対神道政略であったという事実、これは、その後の「国家神道史」の推移発展を見て行く上で、もっとも重要な史実であることを銘記していおくべきである。このロジックは、十年後には明治政府の公式見解となる。(同前、41ページ)

 

大教宣布の詔における「治教」

しかし、実際には「宗教」とは異なる「治教」を掲げる論は、仏教の側、浄土真宗の側からだけ提起されたものではない。明治政府は早い段階で「治教」の重要性を掲げ、明治天皇の聖なる意思を示す「詔」としてこれを提示していた。187013日の「宣布大教詔(大教宣布の詔、大教を宣布せしめる詔)」がそれである。

朕恭しく(おもんみ)るに、天神・天祖極を立て統を垂れ、列皇相承け、之を継ぎ之を述ぶ。祭政一致、億兆同心、治教上に明かにして、風俗下に美なり。而るに中世以降、時に汚隆有り、道に顕晦有り。今や天運循環し、百度維れ新なり。宜しく治教を明かにして、以て惟神の大道を宣揚すべきなり。因つて新に宣教使を命じ、天下に布教せしむ。汝群臣衆庶、其れ斯の旨を体せよ。

この文書は「勅語」と同様の神聖な天皇による命令であり、この後、1945年に至るまで国家体制の根幹に関わる文書としてあり続けたものである。ここに「治教」の語が2度用いられている。また、それは「大教」「惟神の大道」とも合致するものとして示されている。国家体制に関わる重要な概念としての「治教」は、島地黙雷に先立って、明治天皇の「詔」によって示されていたのだ。

皇道興隆の御下問」における「治教」

さらにこの「大教宣布の詔」ご下される前の1869年の521日に「皇道興隆の御下問」という文書が出されている。これは「御下問」であるから、天皇から下々に「皇道興隆」のために意見を出すように促したものである。

 

我皇国天祖極ヲ立、(もとい)ヲ開キ給ヒシヨリ、、列聖相承、天工ニ代リ天職ヲ治メ、祭政維一、上下同心、治教上ニ明ニシテ、風俗下ニ美シク、皇道昭昭万国ニ卓越ス。然ルニ中世以降人心(いよいよ)(うすく)、外教コレニ乗シ、皇道ノ陵夷(つい)ニ近時ノ甚キニ至ル。天運循環今日維新ノ時ニ及ヘリ。然レトモ紀綱未タ恢復セス、治教未タ浹洽(しょうこう)ナラス。是皇道ノ昭昭ナラサルニ由ル所ト、深ク御苦慮被為遊、今度祭政一致、天祖以来固有ノ皇道復興被為在、億兆ノ蒼生報本反始ノ義ヲ重シ、敢テ外誘ニ蠱惑セラレス、方嚮一定、治教浹洽候様被為遊度思召候。其施為ノ方意見無忌憚(きたんなく)可申出候事。

 

ここでは「治教」の語が3度用いられている。「治教」が「浹洽」でないとあるが、「浹洽」とは「広く全体に行きわたること」を指す。また、それは「皇道」が「昭昭」たることを目指すことでもある。「昭昭」とは明るく輝くさま」を指す。つまり、「治教」と「皇道」とはほとんど同じ意義をもって用いられている。

「治教」「大教」「惟神の大道」「皇道」、これこそが国家の根幹となるべき「教」であり「道」である――この観念は明治維新の勅語に高らかに宣せられ、そこで定められた国家体制理念は1945年まで持続していくのだ。島地黙雷はその理念にそって、「治教」と「宗教」の関係を示そうとしたと捉えることができる。違いは皇道興隆の御下問」では「皇道」とされているものを、島地は「神道」とよんでいるところだが、「皇道」と「惟神の大道」が等置されているのだから大きな違いとは言えないだろう。実際、後には、「神道」と「皇道」が一致するとする論が神道家の間でなされていくことになる。 

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。