歴史のなかの神道(8)

島薗 進

 

 

国家神道と神権的国体論

これまで、宗教界の動きを見ながら、明治前期に祭政一致や尊皇に連なる「神道」「皇道」が地位を高めていくさまを見、それが明治維新を神道復興として捉える見方の基盤になっていることを見てきた。連載の(4)(5)では仏教界、とくに浄土真宗の動きからそのことを見、(6)(7)では、神社神道の側からそのことを捉えてきた。

ここで目を転じて、政治体制の側から見ていきたい。宗教界から見ていくと「神道」、ひいては「国家神道」の語で捉えていくのが分かりやすい。他方、政治体制の側から見ていくと「国体論」、ひいては「神権的国体論」の語で捉えていくのが適当だろう。

宗教を捉えるときには、人々が抱く観念集合や思考様式、また行動様式の全体に目を配って、それがどのように全体的な構成をもっているかを考えていくことになる。宗教組織や教義や儀礼体系はそうした全体的構成を分かりやすく表すものだが、それだけではない。価値判断の様式や人間関係を構成する様式もそれが超越的なもの、聖なるものに関わる領域は宗教的といえる。これらは人々の生活の全体をさまざまな方法で捉えようとする社会史的な研究によって明らかにしなくてはならない。

他方、政治体制を捉えるときには、政治的意思決定やそれに基づく行政・軍事・治安・司法等をの秩序構成_秩序維持を行う体制を考えていくことになる。では、その政治体制がどのような理念にそって構成されているかという問いが生じる。それによって、政治組織の歴史的な変化を問うことにもなる。そこで近代の政治体制を支える理念はどのようなものかを説明しようとすると、一方で憲法がどのようなものだったかとともに、日本では「国体」の理念が登場することになる。「近代天皇制」という用語が用いられるが、それは「国体論に則った王制」ということもできよう。

近代国家の全体的なあり方を「宗教」という観点と「政体」という観点から捉えると、視覚は異なるが、社会の全体的構成を見ようとする点では共通している。「宗教」には政治的な側面が濃厚に宿っており、「政治」では宗教的な側面が強力に働くこともある。そして、近代社会では「宗教」と「政治」が別々の領域の事柄だとされてきたが、実際には大いに重なり合っている社会が少なくない。

戦前の日本はまちがいなくその良い例だった。そこでは、「国家神道」と「神権的国体論」が深く関連し合っている。しかし、それがとのような関連なのかについて、正面から問われることが少なかった。西洋近代の「政教分離」の観念、宗教は私的な領域の事柄であり、基本的に政治とは別の領域の事柄だとされていた。

ところが、少なくとも戦前の日本では、政治において宗教的な観念がたいへん大きな働きをしていたことが明らかだ。「神権的国体論」が宗教的でないと言う人は、今では少ないだろう。だが、戦前はそれは「祭祀」や「道徳」の事柄であって、「宗教」ではないという建前が作られていた。そのため、「天皇制」という比較政治体制論になじみにくい概念に頼って、そこに含まれている宗教的な要素を軽視してきたのだ。

「国家神道」を広い意味で用いるのが必要なのは、このような西洋的政教分離にこだわって構成されてきた思考枠組みの隘路を超えていく必要があるからでもある。明治維新後の政治体制を捉えるとき、「神話的過去にさかのぼる神聖な天皇」の観念は一貫して重要な位置を占めてきた。「祭政一致」、「神武創業」、「皇道興隆」といった理念は一度も、否定も軽視されることもなく政治体制の支えの一角だった。「大教宣布の詔」(明治3年13日)は、「祭祀」だけでなく「教」もなくてはならないという考えをよく示している。それはまた、神聖なものとして受け止められるべき「詔勅」が、強い政治的機能を果たすことを示していく政治的行為でもあった。

 

明治初年の段階で政治体制を支えるこれらの理念群をどのように名づけるのかは明確でなかった。「祭政一致」、「皇道」、「大教」などの語とともに、「国体」の語も掲げられたが、やがて立憲主義が取り込まれていくに従って、王制・帝政ではあるが、日本にだけしまない独自の帝政の原理として「国体」が定着していくことになる。だが、これらの背後には、伊勢神宮と天皇に国家全体を統合する神聖な地位を付与し、それに従う神社の地位を強化するという考え方が伏在している。実際、明治初年にはそのような施策が次々に具体化されていった。明治維新が「神道復興」と見なされてきた所以である。

戦前の日本の立憲体制の特徴を捉えようとしてきた憲法学者や法思想史研究者は、自ずからこのような経過に注目し、明治維新後の政治体制理念は何であったかを問うてきている。たとえば、憲法学者の佐藤幸治氏(京都大学名誉教授)は明治憲法について、「神権的国体観念と立憲主義とを結び付けようとする複合的性格の強い憲法であり、どちらに軸足をおくかによってその運用が大きく異なる可能性を秘めていた」と述べている(『立憲主義について――成立過程と現代』左右社、2015年、150頁)。このような複合的な政治体制は帝国憲法制定の過程で急に編み出されたものなのか。そうではない。では、そのような構想はどこまで遡るのか。佐藤氏は次のように述べている。

「王政復古」によって誕生した新政府は、慶応四(1868)年3月14日(新暦4月6日)、五箇条御誓文を発して、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」とするなどのキホ的国座を明らかにした。会盟は、紫宸殿において、軍神を率いて天地神明に誓うという形式で行われた。誓文は専制を排除する趣旨を明らかにするものであるが、この会盟形式の中に、既に、当地の正統性の皇居を「皇祖皇宗」に求める明治憲法の原形を見ることができる。(同前、143頁)

 

「皇祖皇宗」は天照大神や神武天皇に、また万世一系の国体に関わる用語である。神々に遡る天皇の神聖な系譜が関わっている点で「神権的」なものであり、だからこそ「神権的国体論」と言われているのだが、それは明治維新の当初から国家の柱に置かれていたのである。「神権的国体論」と「国家神道」を関連づけて捉える必要がある理由がよく理解できるだろう。

興味深いのは、神聖な天皇が直接、政治的意思を行使しないシステムで立憲体制を保証しようとした。つまり天皇超政論が法理論・政治理上は提起されたものの、天皇の神聖な権威は「宗教」組織や「政治」機構以外のルートで強く作用したことについて指摘していることである。

ここで一言しておきたいのは次のことである。すなわち、こうした体制(島薗注:神権的国体観念と立憲主義とを結び付けようとする複合的性格の強い憲法体制ということ)とも関連してのことであるが、天皇は宗教的・道徳的権威として、国民の教育の場に(「教育勅語))、あるいは軍人の精神生活の場に(「軍人勅諭」)、親臨したということである。

学校や軍隊を考慮に入れなくては、「神権的国体論」の作用を捉えることはできない。まさに学校と軍隊は、国家神道が広められる重要な場だった。佐藤幸治氏は明治憲法と宗教性(国家神道)の関係を「神権的国体論」という用語で明示し、そのおおよそを描き出している。明治憲法と宗教性(国家神道)の関係をさらに正面から問うているのは法哲学者の長尾龍一氏(東京大学名誉教授)である。

 

 

 

島薗 進Shimazono Susumu

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。