ポケットに燕石を

10章 前衛でも、ただの平和主義者でもなく

辻 信行

 

 

 

金子兜太、岡本太郎、寺山修司。この強烈な個性を放つ3人が顔を合わせ、「現代の前衛とはなにか」語り合う。ケンカにならないはずがない。

 

『週刊読書人』の1969年1月6日号(『対談集 岡本太郎 発言!』所収)。

当時の俳句、芸術、演劇の分野で前衛と呼ばれた3人を集めておこなわれた鼎談だ。序盤、最年長の岡本の発言を金子がうなずきながら聞き、最年少の寺山は2人に食ってかかる形で進められる。しかし途中で三者三様に分裂し、最後は金子と寺山が正面衝突して火花を散らす。

 

金子は対談当時の1968年、そして60年安保前後に前衛があったか、と問題提起する。これに対し寺山は、歴史をパースペクティブでみて、後世に残るかどうか、芸術運動の中のエコール(流派)と評価されるかどうかで前衛を規定するやり方を激しく批判する。

 

金子>そこで寺山修司がブェーンと爆発した。「書を捨てよ、町へ出よ――」と言って素人を集めてやった。それでボワーンと爆発して消えちゃったというだけのことなら、あの戯曲の仕事は、街のあんちゃんの芝居ごっこと変らないんだよ。前衛の所業とはいえない、というのがぼくの言い方なんだよ。

 

寺山>自立、変革、覚醒の役割だけで充分だ。

 

金子>つまり自己満足でいいというわけだな。

 

寺山>それは観客や、参加した連中にきいてくれよ。観てない芝居の評価をされても仕方がない。

 

この後も両者の言い分は平行線をたどる。岡本は、創作活動に目的性をもった金子と、無目的性をもった寺山という対立に見えるが、実は寺山も無目的的に見せかけて、そうでないものをねらっていると指摘。「だから目的性と無目的性の――まあむずかしいことばでいえば、弁証法的な存在であるわけだよ。だから、片っ方を強調するために片っ方を否定するということになると、水かけ論になるんだ。どうも仲裁役のほうがおもしろい(笑)」とまとめる。

 

「芸術は爆発だ!」の岡本太郎が仲裁にまわり、激しくスパークした金子と寺山をなんとか取り持ち、バランスの取れたところに着地させようとしているのが面白い。

 

そもそも金子は、「むかしから自分が前衛かどうか疑ってきた」と述懐する通り、前衛俳人としての自覚が薄い。しかし「ぼくは俳句の中で意欲的に第一線的な気持ちで自分の俳句をつくってきたことについては自負している」と語る。

 

これに対し寺山は、「だから、前衛じゃなきゃだめなんですよ、金子さん」とけし掛ける。そしてこの鼎談で寺山は、自身の思う「前衛」の姿を立ち振る舞って見せたのだ。金子が指摘するように、寺山の言い分には論理の飛躍も前言との矛盾も散見されるが、とにかくエッジが立っており、言葉そのものに面白味がある。それはまさに「アヴァンギャルド」だ。

 

前衛とは、前衛部隊のように「第一線」という意味に端を発しているが、芸術における前衛は「アヴァンギャルド」でなくてはならない。金子は「第一線」であったものの、必ずしも「アヴァンギャルド」ではなかった。寺山と岡本は「第一線」であると同時に、「アヴァンギャルド」でもあった。

 

同じアヴァンギャルドでも寺山とは馬が合わず、岡本とは合ったのは、金子と岡本の両者に縄文のアニミズム感覚があったからだ。岡本は火焔型の縄文土器に衝撃を受け、「太陽の塔」をはじめ自身の作品に縄文のモチーフを取り込んで革新的・実験的な制作を展開する。一方の金子は、作品世界そのものが縄文だ。たとえば次の一句。

 

〈おおかみに蛍が一つ付いていた〉

 

「大神」と崇められながら絶滅したニホンオオカミの身体に、たましいのように幽玄な光を放つ蛍が一匹付いている。蛍もまた現代では絶滅が危惧され、その多くが姿を消してしまった。つまり、オオカミも蛍も現代人の与り知らない異界へと旅立ってしまったのだ。そのためにこの句は過去形で、まるで古老から伝え聞いた昔話のようになっている。金子自身もまた、縄文のアニミスティックな世界を現代に伝える語り部であった。

ぼくが生まれる6年前に寺山は異界へ旅立ち、6歳のとき岡本も旅立った。生前の二人とは会えずじまいだったが、金子の謦咳に接するのには間に合った。2016年3月、神奈川大学で開催されたシンポジウム「俳句にとって季語とは何か」。

 

金子は講演で、「俳句とは、五七五のリズム形式の詩のことば。自然を捉えた「季語」、人間や社会を捉えた「事語」の二つから成り立つ」と定義付けた。

 

その上で、松尾芭蕉は季節と関係のない旅・恋・名所・離別などを詠んだ無季の句を積極的に認めているのに対し、高浜虚子は俳句を「季語」というみみっちいフンドシの中に収めてしまったと主張。虚子が自分の商売のため、自分の俳句を広めるためにしたことが、「俳句には季語が必要」という固定観念を生んでしまったと語った。

 

司会の復本一郎は、各パネリストに「季語と季感のズレはどのように考えているか?」と問いかけた。金子は、「自分の季節感で押し切れば良い。寒紅梅も冬と思えば冬、春と思えば春。歳時記なんか必要ない。俳句には季語のほかに、事語という大切な要素もあるのだから」と応じた。

 

このシンポジウムは、全国高校生俳句大賞の授賞式に合わせて開催されたので、会場には高校生俳人が詰めかけていた。北海道の旭川からきた2年生の男子は、俳句における「高校生らしさ」は何かと質問。

 

金子は毅然と言った。「「らしさ」なんかに捉われる奴はバカだ!「高校生らしい」なんて言葉をまともに受け取っちゃいけない。ここにいる大人の言葉もまともに受け取っちゃいけない!」

 

この言葉には反戦への想いが滲み出ている。昨日まで「勝てば官軍!」で戦争を礼賛していた大人たちが、敗戦と同時に手のひらを返して反戦を主張し、教科書にも墨を塗らせた。そんな大人たちを、簡単に信じてはならないのだと。

 

金子の戦争体験は、シンポジウムで紹介した自作の句にも表れていた。

 

〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉

 

早春で梅の咲く庭が青さめている。特に朝は、海の底のように青い。春の空気が立ち込め、いのちが訪れている。その様子が、戦時中にトラック島で日本人を食っていた青鮫と重なった。平和な庭を目の前にしていても、突如として256歳の戦争体験が蘇ってくる。自衛隊の活動拡大などを認めた安全保障関連法案への反対を表明し、2015年に「アベ政治を許さない」と太字で揮毫したのも、自身の戦争体験に基づく危機感からだった。

 

そして会場に集まった高校生たちに、もう一句紹介した。

 

〈谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな〉

 

鯉とは恋のことであり、季節は関係ないと言う。鯉のぬるぬるした魚体が水のなかでもみ合い、それが男女のまぐわいに見立てられている。金子は高校生に反戦への想いと同時に、官能の愉楽、生きることの歓びを伝えたのだった。

 

90歳で毎日芸術賞の特別賞を受賞した際、金子は贈呈式で次のようにスピーチしている。

「講評にある句〈男根は落鮎のごと垂れにけり〉は自分のことを書いたのであります。私のにはまだ落ち鮎程度の実体感がある、と。そのことを申し添えたい」

 

前衛と呼ばれるもその内実は縄文。反戦の想いと同時にあふれるエロティシズム。いまごろはフンドシからはみだす落ち鮎と三途の川を渡り、寺山や岡本と議論を戦わせているだろうか。

 

 

11章 行間にみちる海の底から

 

 

姓を一字にするよう命じられた。1785年、奄美を支配する薩摩藩が、他地域の人間と姓で見分けられるよう、対外的には琉球領と見せかけるよう、奄美の人々に姓を二字から一字へ変更させた。

 

時は流れ、1920年代初頭。奄美から本土へ出稼ぎに行く人々が増え始めた。一字姓だとすぐに気付かれ、差別されるのではないか。そう考えた奄美の人々は、自主的に二字姓に改姓した。

 

たとえば、「福/正一郎」が「福正/一郎」というように、名前の一字を姓に移動させるパターンがあった。また、「中」姓を「中村」「中島」、「安」姓を「安岡」「安達」というように、一般的な姓として使われている漢字を付け足すパターンもあった。

 

奄美の改姓から思い出すのは、1939年より日本植民地下の朝鮮でおこなわれた創氏改名だ。奄美の改姓のほうが20年ほど早い。同時期の1923年に発生した関東大震災で、朝鮮人が暴動を起こすとデマが流れ、「ジュウゴエンゴジュッセン」と発音できない人々は容赦なく虐殺されたが、その中には朝鮮出身者のみならず、中国、アメリカ、イギリス、そして日本国内の東北、沖縄、奄美の出身者もいた。奄美にはこれを引き合いに、「一字姓で外国人と間違われては困るから二字姓に変えるのだ」と語る人々もいた。

奄美群島喜界島出身の作家・安岡伸好(191897)に『遠い海』(※)という小説がある。主人公の上月は奄美出身だ。彼は広島で原爆を体験して上京し、朝鮮戦争の勃発するさなか、同郷の奄美出身者が校長を務める東京都立朝鮮人学校に教師として赴任する。

 

日本の敗戦によって故郷を回復した朝鮮と、故郷を失った奄美(沖縄や小笠原と同時にアメリカ軍政下に置かれた)。どちらも日本の中心から弾圧され、虐げられてきた半島と群島の島人である。だからきっと、奄美出身の教師と朝鮮出身の生徒の間にはあたたかな友情が芽生える、という予想は早々に裏切られる。

 

上月は最初の授業で出欠を取るが、生徒は誰も返事をしない。あらかじめ調べておいた朝鮮名で点呼しているにも関わらず。そのとき一人の生徒が上月の正面に立ち、「あなたは」と言う。「ひとの家を訪ねた時、自己紹介もしないで、いきなり家人を呼び捨てに呼びますか?ぽくらは、そんな警察みたいな人間に、返事する義務はないのです」

 

そうであったかと上月はいくぶん吃りながら自身の経歴を述べる。すると今度は別の女子生徒が問い詰める。

 

「では、そういう、日本人として、立派な履歴をお持ちのあなたは、わたし達朝鮮人が現在兄弟同士で、血を流し合っているのを、いつたいどう思って見ているのか、教壇に立つ前に聞かせて下さい。それを聞いてからでないと、わたし達は、あなたを、先生と呼ぶわけにはいかないのです」

 

上月は気が付いた。目の前の生徒たちには、自分のルーツ「奄美」がなんの意味も持たず、「日本人」としてしか見られていないと。そんな「日本人」である自分が、生徒たちのルーツ「朝鮮」(現在の北朝鮮)の味方であれば「先生」と認められるが、敵であれば「先生」と認められないのだと。

 

ここで上月が「僕は君たちの味方だ!」などと言って、その場をひとまず収めるのは簡単だ。しかし上月はそんな安易な方法を選ばなかった。では彼はどのようにしてこの窮地を乗り切ったのか。そしてその先にある奄美出身者でありながら「日本人教師」としてしかみなされない朝鮮人学校での教師生活に、なにが待ち受けているのか。

 

著者の安岡伸好は、父が東京都立朝鮮人学校の校長。自身も一時期、同校の教師だった。安岡は本書のあとがきに書いている。

 

「私は、この作品で、私が生きている場所をたしかめてみたかったのです。

生きにくい、生きられない、という言葉は、いきなり破壊ということではなしに、私にとっては、その場所を検討する作業へとしぜんにつながっていくものだったからです。

島での生活と本土での生活が、いつも私のなかに重なり、とけ合わずに並存しているために、とくに私はこうした場所への関心が強いのかもしれません」

 

現在は私立の学校法人東京朝鮮学園が、都立学校だった5年3カ月(194912月~55年3月)の記憶に基づいて書かれている。「あとがき」からも見て取れるように、『遠い海』は小説であるものの、事実に即したエピソードが多い。

 

日本人教師の給与についてもその一つ。朝鮮人教師の2倍の額なのはもちろん、他の一般的な都立校の給与より1500円高かった。1949年当時の国家公務員の大学初任給は4223円(人事院「国家公務員の初任給の変遷」より)。高給だった理由は、都立朝鮮人学校の日本人教師が、日常的に生徒たちから「吊し上げ」られたり、朝鮮人教師たちとの確執に揉まれたりして、心身ともにストレス過多であったためである。

 

『遠い海』の主人公、上月も例に漏れず苦節をなめるが、作品の後半では「奄美出身者」として、朝鮮人学校の生徒たちと共闘するシーンが登場する。その前段で上月は生徒たちに向かって言う。

 

「君たちは、前に、日の丸を見、君が代を聞くと、憎悪に駆られると言っていましたね。ところが、ぼくの故郷では、それはいま軍政府によって両方とも禁じられているのです。しかし、島の者は、いま敢然とそれを掲げて、それを歌って、じぶんたちが日本人であることを主張しようとしているのです。で、ぼくも明日から、故郷の人たちと相呼応してその運動のために街頭に立とうと思うのですが、君たちは、それをどう思うだろうか」

 

本作は刊行当時、同じく奄美出身の作家・島尾敏雄から「奄美の人と風土が文学として定着され得る道がまず開かれた」と安岡の他の作品とあわせて南海日日新聞で書評されたが、いまでは忘れられた佳作になってしまった。

 

安岡はデビュー作「民族の城」で、近世の薩琉関係と朝鮮戦争前後の日朝関係の政治経済的な歪みを捉えた。そして19世紀初頭にサトウキビの一大生産地として薩摩藩に搾取される奄美群島を描いた「地の骨」が、芥川賞の候補作に選ばれた。

 

安岡と同じ喜界島で少年期を過ごし、直木賞候補となった作家・安達征一郎は、「怨の儀式」「日出づる海 日沈む海」など、民族や国家の枠組みにとらわれず国境を無化して自由に生きる海民を、特定の島から脱却した「南島」の普遍的なイメージで描いた。これに対し安岡は、民族や国家の狭間でもがき苦しみ疎外される人々に愛情を注ぎ、島言葉を多用して表記方法に悩みながら絞り出した。

 

表現方法は大きく異なるが、どちらも紛れもなく、奄美と周辺地域を生きる人々の姿である。その姿を見つめることで、重層的な支配と差別のもとに生じた喜怒哀楽さまざまな記憶がよみがえってくる。奄美が世界遺産になろうとなるまいと、行間にみちる海の底から、島人たちの声をききたい。

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※:安岡伸好「遠い海」の初出は、『群像』196010月号。翌1961年に講談社から単行本として出版されたが、絶版となっており古書でも入手困難。2016年に刊行された『地の骨-安岡伸好作品集』(北島公一編集、喜界町文化協会)の中に収録されているが、この作品集は限定200部の刊行であったため品切れ状態。編者の北島氏によると、2018年中の改訂版出版を目指している。

 

『遠い海』を早くお読みになりたい方は、①『群像』196010月号、②単行本『遠い海』、③『地の骨-安岡伸好作品集』のいずれかを図書館で蔵書検索されたい。なお、2018年1月15日~2月2日まで西日本新聞で連載された全11回の「『はざま』を生きて:忘れられた作家安岡伸好」は、安岡を通して奄美の風土、歴史、文化をまなざした充実の取材記事である。

 

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき

 

東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえ、離れ小島や都市の喧噪、カビ臭い本の中でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」、「寺山修司の身心変容―不完全な死体への質問状」など。