天河~沖縄~ニライカナイ 大重潤一郎監督との出会い

鳥飼美和子

 

 

2018年722日、例年にない暑さ、青空に祭りの旗が翻る奈良の山奥、天河辨財天社御造営三十年記念大祭の最終日。この日は大重監督が他界されて3年目の命日でもある。

そこで大重潤一郎監督の遺作となった『久高オデッセイ 第三部 風章』と『水の心』の2作が上映さた。水の神でもある弁天=サラスバティ、その名を何度も呼び、アジアの水の源流を訪ねた『水の心』は、天河で上映されることがふさわしい作品だ。併せて「水の心とまつりの心」というパネルディスカッションが行われた。司会は『久高オデッセイ』の制作者であり、大重監督を最後まで支えた鎌田東二先生。パネリストは天河神社の柿坂神酒之祐宮司さん、三本の大重映画の音楽を担当し、親しく交流された音楽家の岡野弘幹さん。大重さんとの思い出や作品に込められたスピリットについて語り合った。岡野弘幹さんの歌にあるとおり「Spirit never die」だ。

天河神社での『久高オデッセイ第三部 風章』の上映会
天河神社での『久高オデッセイ第三部 風章』の上映会
パネルディスカッション「水の心とまつりの心」柿坂宮司と岡野弘幹さん
パネルディスカッション「水の心とまつりの心」柿坂宮司と岡野弘幹さん

宮司さん、鎌田先生、岡野弘幹さんと、そして大重監督…。この方々が最初に集ったのは今から20年前、1998年の「神戸からの祈り」だった。阪神淡路大震災から3年たった年に、神戸から鎮魂の祈りとともに、よみがえりのエネルギーを発信しようと多くの人が集った「まつり」。その「まつり」から大重監督と多くの人の縁が深まり、次々と展開していった。

 

2015年7月1日、那覇の大重監督のもとへお見舞いに行った。たまたま二人だけの時間があった。その時に監督は私に言った。

「鳥飼さんよー、「神戸からの祈り」は必然的だったと思う、あの事なしには進めなかった。良い時につながりをもてた。人生において、あのこと無しではその後はつまらなかったと思う。それに結び付けてくれたのはあなたなの。ありがたいこと、あだやおろそかには出来ないと、密かにずっと思っていたんだ。それからが人生で一番充実したときだ。まさかこんなに変わるとは思っていなかったなあ。縁とは不思議なもの、小説より奇なりだ」。と。その4日後に東京での『「久高オデッセイ第三部 風章」完成上映会』が大成功し、そして20日後に鎌田先生はじめ監督を支えた人たちに見守られて他界された。

私がお見舞いに行ったとき、痰が詰まって息苦しくなるので時々姿勢を変えながらも、あれこれと思い出しては笑った。いろんなエピソードも聞いた。さらに大重監督はしみじみと「人間の歴史はつらいなあ。戦争が終わって生まれて良かったけれど、今も世界中で戦争をやっている、人間はどうしようもないなと思う。なればこそ、そうではない志を持った人と共に、その志を忘れずに共にいかないとな」と。

そして最後に「今日はたっぷりお話しできて良かったな。昔、石垣に行ったとき台風に出くわして、帰ろうにも帰れないときの、なんとも幸せな気持ちになった。そういう何もないゆっくりした時間が大切だ。これがお別れではない」と。このひと時、監督とのこの世での最上の時間だった。

2015年7月1日 那覇の事務所で
2015年7月1日 那覇の事務所で

私が監督と鎌田先生を結んだきっかけは沖縄への旅だった。そしてその旅の出発点は天河だった。

「神戸からの祈り」の一年前、1997年の7月、私は天河の奥宮の弥山に登拝、本宮での例大祭に参加し、鎌田先生の導きでそのまま沖縄に向かった。岡野恵美子さんや「天河曼荼羅」・「天河護摩壇野焼き講」という活動を通して親しくなった友人たちと共に。目的は新城島の秘祭「アカマタクロマタ」に参加するためだ。沖縄本島から石垣島を経て西表島へ。そして新城島へ。それは海と空の青に染まり、波に揺られ、祭りに酔った暑く眩しい夏だった。

 

夢のような一週間から東京に帰ってどのくらい経っていただろうか、関西気功協会の津村喬さんから大重潤一郎監督の『光りの島』という映画を、そのころ東京の拠点にしていた文京区の壱岐坂のスペースで上映する、というお知らせが届いた。大重監督のことは全く知らなかったが映画のタイトルに魅かれて観にいってみた。その舞台は新城島だった。この偶然! 

阪神淡路大震災に衝撃を受け、自然と母と死をいう原初的なテーマの映画を完成させたという。この寡黙な映画の発するものは、これまで私が気功を通じて、また鎌田先生を中心に「天河」の精神的意義を発信しつつ展開してきた活動とつながるものではないか、「超宗教への水路」ではないか、大重潤一郎監督という人と繋がらなくては、そんな気がしてならなかったのだ。

そして大重監督に初めてのFAXを送った。するとすぐに監督から電話がかかってきた。今、自分は上田紀行氏の著書を読んでいるが、ちょうど魂の兄弟「鎌田東二」という文字をみて、それが浮き上がって自分に何かを発している。ただの文字ではない、この人に会いたいと思っていたら、あなたからFAXが来た、と言うのだ。

それから私との何回かのやり取りがあり、大重監督と鎌田先生が直接会ったのは、しばらくして翌年になってからだった。そのタイムラグはちょっと不思議で意味深い。大酒飲みだった鎌田先生が1998年の1月から一切の酒気を断った。ゆえに大重監督と鎌田先生は一度も共に酒を飲んだことがない。もしお互いに酒をこよなく愛する者同士、共に飲んでいればその後の展開は違ったものになっていたかもしれない。酒を飲んで夢を語り合って盛り上がっておしまい、ということもあり得たか?あるいはお互いに病に倒れたか…。

ともあれ、酒を断った鎌田先生からの依頼で、大重監督は「神戸からの祈り」の関西での中心となった。知り合ってみるとお互いに共通の友人がいて深い繋がりがあったことが解ってきた。そして二人は強いタッグを組むようになった。

神戸からの祈り ポスター
神戸からの祈り ポスター
1998年6月「神戸からの祈り」記者会見 鎌田先生と大重監督
1998年6月「神戸からの祈り」記者会見 鎌田先生と大重監督
神戸からの祈り 打ち上げ 神戸からの祈り実行委員
神戸からの祈り 打ち上げ 神戸からの祈り実行委員
1998年10月10日「神戸からの祈り~東京おひらき祭@鎌倉大仏」
1998年10月10日「神戸からの祈り~東京おひらき祭@鎌倉大仏」

大重監督はロマンチストであり夢追い人である。作品は映画というより映像詩といったほうがふさわしい。「神戸からの祈り」以前も、良き映画仲間に囲まれていた。しかし、「神戸からの祈り」以降、監督を囲むのは彼よりずっと若い人たちになった。監督のその夢のスケールの大きさと、人間としてのチャーミングさに多くの若者が共鳴していったのだ。久高島のことを「一周遅れのトップランナー」と呼び、「この世こそがニライカナイであると思えてくる」と語った監督。身体は病に侵されても、魂は侵されない、という気概を持ってこの世を歩みつくした。

 

御造営三十年記念大祭の天河神社で、大重監督を思う。大重監督を追いかけるように彼岸へ渡った岡野恵美子さんのことを思う。語り尽くせない思い出、ともに力を尽くしたまつり…。大重監督からお礼を言ってもらったが、それは私のお役目だった。ただ、それだけ。役目を果たせたことは、本当に貴重でありがたいことだった。

そしてその後は、鎌田先生や岡野恵美子さんをはじめ多くの心ある人たちが大重監督を支えたのだ。大重監督からスピリットを受け継いだ人たちが今あちこちで多様に活動し、発信し続けている。この世こそがニライカナイである、とだれもが本当に感じることができるように、と。(了)

2015年8月の久高島
2015年8月の久高島

 

 

 

鳥飼 美和子/とりかい みわこ
気功家・長野県諏訪市出身。立教大学文学部卒。NHK教育テレビ「気功専科Ⅱ」インストラクター、関西気功協会理事を経て、現在NPO法人東京自由大学理事、峨眉功法普及会・関東世話人。日常の健康のための気功クラスの他に、精神神経科のデイケアクラスなどでも気功を指導する。
幼いころ庭石の上で踊っていたのが“気功”のはじめかもしれない。長じて前衛舞踏の活動を経て気功の世界へ。気功は文科系体育、気功はアート、気功は哲学、気功は内なる神仏との出会い、あるいは魔鬼との葛藤?? 身息心の曼荼羅への参入技法にして、天人合一への道程。
著書『きれいになる気功~激動の時代をしなやかに生きる』ちくま文庫(2013年)、『気功エクササイズ』成美堂出版(2005年・絶版)、『気功心法』瑞昇文化事業股份有限公司(2005年・台湾)