東京自由大学会員 

リレーエッセイ 第三回

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 学習の場としての東京自由大学

原田憲一

 

 

 

『論語』は以下の有名な文章で始まります。

 

「子曰く。学んで時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや。朋有り遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍(いか)らず。また君子ならずや。」

 

この白文で32文字の文章に『論語』全体の基本思想が凝縮されている、ということを最近「未来共創新聞」(第13号)の特集「孔子の真実に迫る」で知りました。『原発事故と東大話法』(明石書店)や『生きるための論語』(ちくま新書)の著者・安富歩・東京大学東洋文化研究所教授によると、最初の文章は、本や先人から学んだことを実践によって自分自身の身に付ける(習)喜びが社会秩序の基礎だ、という考え方を表しています。そして、人間が「生きる」とは、学習の喜びを魂レベルで実感することであり、そうした意味で「学習できる」ことが孔子の言う「仁」なのだそうです。

「朋有り遠方より来たる」という二番目の文章は、最初の文章にかかる二重の比喩と捉えることができるそうです。最初の意味は、学び習うという学習の悦びは、旧友(=すでに学んだこと)が突然に訪ねて来てくれる(=習うこと)悦びに似ているということです。

もう一つの比喩は、仁の伝播力です。たとえばガンディーは、1930年、イギリス植民地政府の塩の専売に対する抗議を決意して歩き出しました。有名な「塩の行進」です。それは局地的(ローカル)で些細な行動のように見えますが、実際には広い範囲(グローバル)に伝播して、今では全世界に影響しています。このように、自分自身が仁であれば、その影響は自分の周辺だけでなく、社会全体にまで及んでいくのです。しかし、仁を守りぬくには勇気が要ります。ガンディーの非暴力的抵抗の思想と同じように、あらゆる抵抗や困難に打ち勝って実践していくという勇気がなければなりません。逆に言えば、勇気があれば、仁は世界に広がり、社会の秩序が正されるわけです。

そして。最後の「人知らずして慍らず」の文章は、『生きるための論語』に

よれば、他人を無知だからといって馬鹿にしたり、学習の喜びを知らないからといって憤激したりしない。それはまったく君子ではないか、という意味にな安富教授が『論語』について語っていることは、東京自由大学の設立と行動に直結しているように思えます。

 

東京自由大学は学問的な探求と芸術的創造の場として1999年の4月から活動を始めましたが、その2年前の1997年に兵庫県で起こった「酒鬼薔薇聖斗事件」は世間を震撼させました。当時、小中学校で起こっていたいじめや不登校、学級崩壊など、日本の教育が孕む問題の根の深さを暴き出したからです。こうした教育界の問題を真正面に受け止めた大人の一人が、自由大学設立者の鎌田東二さんです。学校での学びが生徒の生きる喜びに結びついていない。

その背景には、子供を取り囲んでいる大人たちが、やはり学びの楽しみを味わっていないという現実があると見抜いたのです。そして、せめて志のある大人だけでも、自分の興味と必要に応じて、生き生きと楽しく、しかも真剣な学びができる場、つまりフリースクールの立ち上げを決意しました。

 

鎌田さんから相談を受けた私はもろ手を挙げて賛同しました。そして初代学長の横尾龍彦さんや大重潤一郎さんら21人が発起人となって東京自由大学を西荻窪のWENZスタジオで立ち上げました。

 

現在、私は京都に住んでいますが、東京自由大学設立時は、山形大学理学部の地球環境学科で教えていました。当時はまだ国立大学の独立法人化は話題になり始めていた頃で、大学には教える側にも学ぶ側にもまだまだ時間的・精神的な余裕がありました。そのために、開学時に<宇宙を知るコース>の講師を頼まれた時は喜んで引き受けることができました。しかし、もしも設立が、国立大学が独立行政法人化(独法化)した2004年以後だったら、実質的な協力ができたかどうかわかりません。なぜならば、国立大学の独法化によって、日本の大学は、国公私立を問わず大きく変質したか私は独法化実施前の2002年に、京都造形芸術大学に転職しました。そのために、独法化後の山形大学の変化は体験していませんが、かつての同僚からは、以前よりも大学のPRや外部資金の獲得に追われるようになって、教育研究に割ける時間が少なくなったと聞いています。大学間の競争をあおる国の文教政策は私学にも及んでいます。私の勤務校でも年々歳々忙しさに追われるようになり、京都―東京間は山形―東京間よりも新幹線の便がはるかに良いにもかかわらず、東京自由大学に足を向ける余裕がなくなってしまいました。

 

そして、独法化後の大学では、電力会社や製薬会社などから多額の外部資金(研究費)を獲得した御用学者や、マスコミに登場して何事にも単純明快に答える売れっ子教員が発言力を増しています。そして、複雑で根の深い問題に地道に取り組んでいる研究者や授業に情熱を注ぐ教育者は落ちこぼれ扱いです。残念ながら、今の大学は、孔子が描いたような「学習の場」とは程遠くなっています。だからこそ、東京自由大学の存在はますます意義のあるものになっていると言えるでしょう。

 

ところで、東京自由大学のような非営利の組織を維持・発展させるためには、組織の長(つまり海野和三郎学長)のリーダーシップが重要なことは言うまでもありませんが、それと同等に重要なのは事務局を担当する人たちの働きです。幸い、東京自由大学には岡野恵美子さんや鳥飼美和子さん、故吉田峰穂子さんといった優秀な人材が集まり、各コースの運営にかかわる事務を分担しています。こうした縁の下の力持ちがいなければ、いくら講師と受講生が集まったとしても、途中で空中分解していたことでした。私が担当した<宇宙を知るコース・地球編>のコース責任者は吉田峰穂子さんでした。当時、私が引き受けていた山形県内での講演会では、市町村の職員は講師に

こまごま注文を付けるのは失礼だと思っていたのか、ほとんど事前の打合せはなく、むしろ私の方から会場の様子や聴衆の数や背景などを問い合わせたものでした。ところが吉田さんは、講座の日程が決まるやいなや、第1回目の講演題目や配布資料などについて、達筆な手紙で細かく問い合わせてきました。事前に打合せをすればするほど講演準備はしやすくなるものなので、こちらも気合が入りました。

第1回目の講義は、「西荻W EN Zスタジオ」(東京自由大学発足時の事務局)で行いました。当時は、地球に生き物が満ち満ちている理由は、火山噴火や地滑りといった災害によって山から土の素が運ばれてくるからだ、という構図を描き始めたところでしたので、話の展開はまだズムーズではなかったはずです。しかし、幸いにも講演後に多くの質問と好意的なコメントを頂きました。

それを受けて、吉田さんが「先生、講義記録をつくりましょう」と言って、松倉福子さんと一緒に、講演と質疑応答のテープを実に丁寧に起こしてくれました。送られてきた初稿には、やはり筆書きの手紙がついていて、地質学の専門用語の意味を質問したり、分かりにくい文章を指摘したりと、本物の編集者のようでした。編集者は最初の読者だと言われますが、読者代表の吉田さんの質問に答えることは、自分の講演を振り返り、誤りを正したり表現を分かりやすく工夫したりするという、嬉しくも楽しい作業となりました。校正した原稿を送り返すと、数日のうちに打ち直したものが送られてきて、それに再び朱を入れて送り返す、といった作業を4~5回繰り返しました。お二人にとって手間暇かかる作業でしたが、私は納得するまで作業を繰り返すことができました。「つくるのなら、読者のためになるものを」という彼女の誠意がなせる業でした。

お二人のご尽力で、『東京自由大学 宇宙を知るコース 人間は月に住めるか 環境編』という28ページのおしゃれな小冊子が、1999年10月1日付で完成しました。佐々木雅之さんにデザインしていただいた表紙には、中央に月面から昇る地球の映像「アースライズ」が配されています。表紙をめくると、本文には「青い鳥は何処」、「なぜホウレン草のおひたしのはなしまでするのか」とか「海の真ん中何もない」、「青い鳥はここにある」といった、内容を端的にまとめた詩的な小見出しが並んでいます。そして、講演の部と質疑応答の部の間の余白には、月にちなんだ可愛らしいウサギのカットがこの小冊子は、私の講演記録のなかで、内容と体裁の点で、最も気に入っているものです。京都造形芸術大学では、通学部と通信教育部の教養科目として「環境論」を担当しているので、課題として冊子を読ませています。2013年に定年退職してからは大谷大学と同志社大学でも同じような科目を非常勤講師として担当するようになり、やはり課題として読ませています。千人以上の学生と社会人に読んでもらいましたが、幸いにも好評で、レポートには好意的なコメントが書かれています。これも、吉田さんが、読者を代表して、分かりにくい個所を事細かく質問してくれたお蔭だと心から感謝して東京自由大学には、吉田さんのように、講師と受講生の橋渡しを役目と心得ている人が沢山います。お蔭で、講師と受講生は、活発な質疑応答を通じて、ともに学習の喜びを味わうことができるのです。そして、講師も受講生も次の学びを楽しみにするわ鎌田さんが「世直し」を目指して設立した東京自由大学が、人の輪を大切にして、ますます発展することを祈念します。

 

 
 

原田憲一/はらだけんいち

1946年山形生。専門は、地質科学・比較文明学。現在、NPOシンクタンク京都自然史研究所 特別研究員。

1970-72年米国ウッズホール海洋学研究所留学を経て、77年京都大学大学院博士課程修了(深海底産マンガン団塊の成長史の研究で理学博士号取得)。独キール大学地質学古生物学教室奨学研究員(アレキサンダー・フォン・フンボルト財団)、米国ワシントン州立大学地質学客員講師を経て80年山形大学理学部地球科学科・助教授、95年同地球環境学科・教授。2002年より京都造形芸術大学教授(2013年3月退官)。