いえの素形

大重 潤一郎

 

 

 

今年の旧正月は、2014年1月31日でした。私とスタッフ2名と映画の発起人の木村はるみ先生(山梨大学)と、旧正月の撮影に出掛けました。今年は、例年と比べると、参加者も少なく、穏やかで静かな印象でしたが、新しいうねりをも感じました。

一部の方にはお報せしておりましたが、1月20日に、東京神田の順天堂大学病院にて16回目の肝臓癌の手術を行いました。「癌を食い物にして生きている」と冗談半分で言っておりますが、手術を終え、ますます元気になりました。お見舞いに来て下さった方々、お電話などで励ましを下さった方々へこの場を借り、感謝申し上げます。

 

旧正月の撮影を終えた2月上旬、私は久しぶりに、沖縄市の写真家・比嘉康雄さん(故人)のお宅と、読谷村やちむんの里に工房を構える大嶺實清さんを訪ねた。

私が沖縄を訪ねてはじめて本格的に撮った二本の映画があるが、大嶺實清さんは、そのうちの一本「風の島」で、パナリ焼の焼成実験を本格的に行った焼物師である。大嶺さんが、沖縄生まれで、沖縄の風土をよく知っていたからこそ実現した映画であった。1983年に大嶺さんは、「沖縄の文化」と私を、より強い形で繋いでくれた。

比嘉康雄さんは、「久高オデッセイ」を制作するきっかけを与えてくれた写真家である。比嘉さんは2000年に亡くなったが、亡くなる数ヶ月前に「私の遺言を映像で残したい。」という連絡があった。私は、梅原猛さんのご子息・梅原賢一郎さんと共に比嘉さんのお宅を訪ね、ビデオを回した。その撮影の半月後に比嘉さんは亡くなり、私は涙を流しながら半年かけて編集を行った。半年後、「原郷ニライカナイへ」というタイトルを付け、完成版を持って久高島へ渡った。島の人たちへ、比嘉さんの遺言としてお渡しして帰ろうと思ったが、このまま、島を離れることができなかった。比嘉さんのように、島と外部をつなぐ仕事をしたいという思いが沸き上がり、12年かけて「久高オデッセイ」の制作に至ったのである。つまり、比嘉康雄さんは、「久高島」と私を繋いでくれた人である。

そんな二人を訪ねることができたのは、実に嬉しかった。比嘉さんは2000年に亡くなったので、奥さんにお会いした。比嘉さんと大嶺さんも古くからの付き合いがある。お互いに認め合っていた。私にとって、比嘉さんは月、大嶺さんは太陽のような印象を心の中で感じていた。

 

大嶺實清さんとは久しぶりにお会いした。一昨年、大嶺さんから一つの作品を預かった。器ではなく、「家のオブジェ」だ。私は、この作品を一目で気に入った。ふるさとを感じたのだ。

 

 

 

撮影:比嘉真人
撮影:比嘉真人

 

 

2011年3月11日の東日本大地震は、改めて人間のふるさとについて考えさせられる出来事であった。震災は、人々と土地の関わりが、どのような関わりになってきたかが皮肉にも如実に表したのだ。というのは、縄文時代から人が暮らしていた多くの土地は、津波の被害が小さかった。経済ベースで建てられた集落は、流されてしまったのだ。暮らす場所は、経済性と相拮抗する必要があるのだと思う。縄文以来、人間と土地との関わりは密接であり、暮らしぶりは人間の命を繋いできた。食料、衛生、天候などを知り、生きていける場所を知っていた。人間の生命と自然は深くリンクしていた。弥生時代に入り、稲を増産することで平地に降りてきた。そこから現代まで続いている。今は、人間の暮らしと自然は乖離していると言ってもいいのだろう。あの日の出来事は、これ以上乖離してはいけないよ、という合図のように聞こえた。

大嶺實清さんは、「家のオブジェ」について、一切の説明を私にしていない。けれども、直感でこれは人間と土の関わりについて物語っていると察した。

かつてこんなことがあった。大嶺實清さんの窯元は先にも書いたが「やちむんの里」にある。「やちむんの里」には、いくつもの窯元があり、沖縄の一つの観光地となっている。ある年、行政が道路を全てコンクリートに整備しましょう、という提案を持ってきたが、大嶺さんは頑に反対をしたという。人間の足は、土の感覚を味わってこそなのだ。理屈を述べ、言葉で説明をするところに、大事なことを伝える消失点がある。利便性を求めたところには、必ず失うものがあるのだ。

大嶺さんの「家のオブジェ」と時を同じくして、最近、感化された作品がある。野津唯市さんという画家の絵画である。野津さんの幼少期の記憶に残る、昔ながらの沖縄のふるさと、原風景を描いている作家である。自然とともに共生し、そこには人間がいう自然である「風土」が描かれているのだ。

久高島は、外部からの観光会社が入っていないため、他の地域に比べると自然と祭祀(文化)が残っている。それでも、高齢化が進み、耕されなくなった大地が増え、堤防やコンクリートによって魚は昔に比べてかなり減っている。日本の縮図のように感じる。

 

私は久高島の再生を12年かけて願い続けてきた。比嘉康雄さん、大嶺實清さん、そして野津唯市さんの仕事を通して、久高オデッセイを別の角度から垣間みる。そして今、久高に根付く地下水脈と、2011年3月11日以後の日本の現状も、ようやく呼応するかもしれない。これから変化が始まってほしいと、震災と原発事故から3年を目の前にして希っている。

 

 

 

大重 潤一郎/おおしげ じゅんいちろう

映画監督・沖縄映像文化研究所所長。NPO法人東京自由大学副理事長。
山本薩夫監督の助監督を経て、1970年「黒神」で監督第一作。以後、自然や伝統文化をテーマとし、現在は2002年から12年の歳月をかけ黒潮の流れを見つめながら沖縄県久高島の暮らしと祭祀の記録映画「久高オデッセイ」全三章を制作中。久高オデッセイ風章ホームページ