海の人が棲む魂ー「友よ! 大重潤一郎 魂の旅

四宮鉄男

 

 

 

同じ記録映画仲間で、岩波映画の助監督時代から50年ものつきあいのある 大重潤一郎さんにインタビューをして『友よ! 大重潤一郎 魂の旅』という記録映画を作った。
私と大重さんは考え方も発想も、行動パターンや表現方法も、真反対なくらいに大きく 違っている。だから、出来上がってくる映画もまったく違う。ただ、二人ともお酒が 大好きで、人の生き方や暮らしのあり方で目指すものに共通点があるから、これほど 長くつきあいが続いてきたのかもしれない。
私はこれまでにインタビューを中心にした記録映画をずいぶんたくさん作ってきた。そして、 私の記録映画づくりの最後の仕事として、全編をインタビューだけで構成する記録映画に 挑戦しようと思ったのだ。
と言うのも、大重さんの喋りに特別のものを感じていたからだ。喋りが上手いと いうのではないのだが、独特の魔力というか、迫力とか、パワーとか、エネルギーに 溢れていた。そして、そのエネルギーを更に自分のからだに取り込み、自分自身の血を 湧き立たせ、奮い立たせているように感じていたからだ。

大重さんは元々環境のことや自然のことをたくさん映画にしてきていた。ヒマラヤから 流れ出た水がインド洋に注ぎ、海の水が蒸発して雨になってバリ島のライステラス(棚田) を潤し、そして再び蒸発し雲となってヒマラヤに帰っていく映画とか。
『縄文』という映画では、縄文時代の人々が自然の恵みの中で暮らしを築き、それが 日本人の暮らしの中に連綿として続いてきて、大重さんは「今も縄文だよ!」と語る。
驚いたことに、大重さんは子ども時代の一時期を、鹿児島にある縄文遺跡の 傍らで過ごし、縄文の水を飲んで育ったのだと言う。日本の縄文遺跡のほとんどが 中期以降のものに対し、鹿児島の縄文遺跡は早期の、日本でいちばん早くて、 いちばん大きなものだと大重さんは語る。そして、日本の縄文土器とは異なる “海の縄文”がず~っと南の島々へとつながっていると言う。
そうした興味と関心に魅かれた大重さんは、活動の舞台を沖縄に移していく。八重山群島 誰も住んでいない新城島(パナリ*)に上陸して島の“気配”を撮って映画にしたり、 琉球弧の神々は女だった、母神だったと活写した写真家の比嘉康夫さんの遺言を映画に したり、そして、神の島と呼ばれながらイザイホーの大祭が途絶えた久高島の現在を、 12年かけて『久高オデッセイ』と題する三部作に取りかかっていた。

ところが10年前、『久高オデッセイ第一部』の完成直前に、大重さんは脳出血で倒れ、 右片麻痺となった。激痛を伴う視床痛に悩まされ、そのうえ肝臓がんも患い、それを 14回の手術で乗りこえながら『久高オデッセイ第二部』まではなんとか完成させた。しかし、 第三分は難航していた。大重さんの体力のことや製作資金の問題が立ちはだかっていた。


そんな大重さんを刺激し、励まし、元気づけてやろう! という動機が『友よ! 大重潤一郎 魂の旅』 づくりにはあった。大重さんにカメラを向けると、予想通り実に元気よくパワフルに 喋り始めた。それに、その話の内容にはびっくりさせられた。

大重さんのからだの中には先祖が棲んでいるのだと言う。それは特定の誰それという先祖ではなく、 ず~っと昔からの代々の先祖たちだった。東京で企業の制作本部長として、利益を出すために 忙しく仕事をしている時期だった。劇症肝炎になって苦しんでいる時にリアルに先祖たちが 現われて、「こんなところでうろうろしてるんじゃない!」と叱られたのだと言うのだ。それで 大重さんは西へ向かった。
独立してプロダクションを立ち上げ、大阪・中之島に事務所を 構えた。偶然に目の前が昔の薩摩藩の屋敷のあったところだった。そして、その前の堀は、 薩摩から荷を運んできた船の船着き場だった。
調べてみると、大重さんの直近の先祖は、鹿児島の坊津で海運業を営んでいた。坊津は その昔、遣唐使の船が行き来する港だった。そして、坊津の先祖は西南戦争の時に軍資金の 半分を提供し、挙句、敗れた西郷軍を熊本の海から救出したのだという。お陰で坊津の 先祖たちは明治政府に追われ、奄美や琉球の方へ逃れていったのだそうだ。それもあって、 大重さんの興味や関心がいよいよ深く琉球・沖縄の方へ向かっていった。「先祖たちに導かれた」 のだと大重さんは言う。

『久高オデッセイ』のために久高島の祭祀を撮影していて、いつも「なんだろうね? なんだ ろうね?」と自分たちも島の人たちも眺めていたものがあった。赤と白の上下二段に 染め抜かれ大きな旗だった。
調べてみると、それはインドネシアの国旗だと分かった。だが、それでは祭祀に 使われる赤白の旗の不思議は説明できない。更に調べを続けると、マチャバビトと いうインドネシアの最後のヒンズー王朝の旗だった。
実は16世紀になると、中国から大型の船と航海術が琉球王朝に贈られてきて いる。そして、航海術を学んだ久高島の海人(ウミンチュー)が水夫として乗り込み、 使節団を乗せて南の国々に向かっている。その時、マチャバビトから久高島に 持ち帰ったのが祭祀に使われている赤白の旗だと推量される。「そうしか考えられない!」と大重さん。
更に、久高島の海人たちはマラッカ海峡でモルジブの漁師たちと出会っている。モルジブと 言えばカツオ漁である。そして、久高島の海人たちとモルジブの漁師たちは、カツオ節の くん製技術で交流している。このことはカツオ節の著名な研究者が書物に記している。
久高島の特産品にイラブーと呼ばれるウミヘビのくん製がある。そのくん製技術とカツオの くん製技術の交流だった。航海する人にとっていちばん大切なのが水とビタミンだと 大重さんは指摘する。そして、猛毒のイラブーはビタミンや栄養に富んでいて、 久高島の海人の航海に大きな助けになったのだそうだ。

 

一方で、久高島の女たちは、イノーと呼ばれる環礁でいろいろな魚介類を手に 入れる。久高島の人たちは海の恵みをどっさりと受けて暮らしを作ってきたの だった。自然の恵みをいただいて生きていくのが日本人の暮らしの原型だった。それは 縄文時代から連綿と続き、日本の各地に受け継がれていた。それが現代の社会の中で 急速に消滅していった。だが、久高島には母である神たちと祈りのある生活とともに、 日本人の基層となる暮らしが残っている。そこに大重さんはカメラを向けたのだった。

中国の史書にはカツオ節が久高島の特産品だと書かれているのだそうだ。だが、 久高島ではカツオは獲れないと大重さんは言う。カツオは黒潮に乗ってやってくる。そして、 黒潮は久高島のはるか彼方を流れている。沖縄本島よりもずっと北の、十島村と呼ばれる、 小さな島が幾つもあるところで黒潮はクロスしている。そこは瀬になっていて、 そこでカツオはたくさん獲れた。久高の海人たちはそこに出かけてカツオを獲り、カツオの 鮮度が落ちないうちに現地でくん製してカツオ節を作り、それを中国へ輸出していたのだと 大重さんは語る。十島村には、「久高」という地名があちこちに残っているのだそうだ。
はるばるカツオがやってくる、そして、黒潮の起点ともなっている南の海の多島海には、 かつて久高の海人が訪ねていったマチャバビトを含めて、スンダーランドという大陸が あった。近年、人工衛星からの写真で、海底に川筋が発見され、大陸の存在が明らかになっている。

 

そして、おおよそ2~3万年以上前、人類の故郷であるアフリカから数次にわたって 人々がスンダーランドに移動してきた。そして更に、水位が上がってスンダーランドが海に沈む 一万年以上前に、ある人たちはベトナムへ、ある人たちは中国の華南や或いはオーストラリア などへと移動していく。
しかし、黒潮やカツオのように、島々を伝って小さな船で海を渡り、直接に沖縄や日本に やって来た人たちもたくさんいたに違いないと大重さんか強調する。日本の各地にあるハンヤ節も、 その源流はカツオや黒潮の発端である南の多島海であると民族音楽学者の小泉文夫さんが 指摘されている。
大重さんは、海はず~っとつながっているのだと言う。そして、一つの島から次の島へ ほんの少しずつ変化しながら、魚のうろこのようにつながっているのだと言う。
しかし、小さな船での海の旅は危険が大きい。海を渡って来た人も多いが、海で死んだ人も 多い。だから、海の人たちははるばるやって来た人を殺したりはしない。よう無事にやって来たねと歓迎する。
海はどこまでも広くて、そこに線を引こうという発想はなかった。実際、海の上に線は 引くことは出来ない。ところが岡では、すぐに線を引いてここから出ていけとか、或いは線を 引いてここからこっちは俺のものだと言ったりする。(ところで現代社会では、海にも線を引いてしまっている。)

そんな海の人の先祖が大重さんのからだの中に棲んでいる。黒潮の民だと大重さんは言う。そんな 大重さんの生き様を存分に語ってもらった。初めはこんなお喋りが映画になるのかと 心配だった。ところが編集してみると。とても面白い映画に仕上がった。

 

大重さんのことを知っている人にも、知らない人にも、この映画をぜひ見てもらいたいと 願っている。そのためにDVDにして2500円で販売している。
でもお金はないけれどぜひ見てみたいとか、或いはお金は払いたくないけれど大重さんには 興味があるとか、そういう方はご連絡ください。無料で差し上げます。
大重的生き方を多くの人に知って欲しいのです。

 

*パナリ=現地の言葉で「離れ」を意味する。上地島と下地島の二つの島からなる。

 

 

 

四宮 鉄男/しのみや てつお

1940年福岡県福岡市生まれ、ドキュメンタリー映画監督、テレビ演出家。早稲田大学第一文学社会学科を卒業。講談社に勤務するが、友人の泉田昌慶が黒木和雄監督の助監督だったことから、岩波映画製作所の演出家たちを中心にした同人組織「青の会」に入会。鳥山敏子さんと小泉修吉(「グループ現代」)さんと共に教育・環境に関わる多数の作品を演出している。

愚鉄パラダイス・http://www.geocities.jp/gutetu64/