「境界をめぐる冒険」

Ⅲ渋谷の死者たち ~後半~

辻信行

 

 

 

広島・長崎で平和祈念式典が終わり、終戦記念日も過ぎ去ると、いよいよ夏休みは大詰めを迎える。一日一日を噛みしめながら過ごしても、時の流れはモズクのように歯の間をすり抜け、今日91日を、寂寞の思いで過ごす少年少女らのため息が、全国から漏れ聞こえてくるようだ。

 

若い女の先生とその生徒たちの戦争体験を描いた『二十四の瞳』で知られる壺井栄には、『渋谷道玄坂』(1948年刊)という中編小説がある。ここには、終戦直後の渋谷に降り立った三姉妹のため息がおさめられている。

 

 

土埃のひどい階段を降りきると、駅前は見渡す限り焼跡の風景がつづいていた。

「へえ、これ渋谷、まあ、これが渋谷」

驚嘆の声と一緒に立ちどまって千枝は動かない。でこぼこのひどい駅前の空き地は焼跡と家屋の疎開のけじめもつきかねる荒れた地肌をむき出している。広い空地のはずれから道玄坂へかけて、小さな商店が思い思いの小さな屋根を並べたり、離れたりして建っている。人間の理想が根こそぎくつがえされて、もみくしゃになったような統一のない風景である。それは何一つ三人の記憶にない風景であり、何一つ心を高鳴らすことのない不気味な風景であった。

                          ー壺井栄『渋谷道玄坂』

 

それから70年が経とうとする現在の渋谷に、この三姉妹が降り立ったなら、そこに「人間の理想」や「心を高鳴らす風景」を見出すのだろうか?ぼくは、見出して欲しいとも、欲しくないとも思わない。渋谷の街は、そんな白黒つけられるほど、単純な成りたちはしていない。

 

古代から現代まで、渋谷の歴史を概観すると、先土器文化の定着、円墳の大量製作、渋谷氏の発生、大永の乱、江戸府内外の境界域の生成など、重要な出来事をいくつか挙げられる。近代に絞って歴史的画期を眺めると、①明治維新期 ②明治20年前後 ③日露戦争前後から大正初期 ④関東大震災から昭和初年 における大きな変化が指摘されている。[1]

 

1912(明治45) に生を受け、3歳から渋谷で過ごした陶芸商の藤田佳世は、近代の渋谷の変遷を次のように書いている。

 

 

今は東急デパート本館の華麗な建物が占めている広い敷地も、つい先き頃までは大向小学校であり、大正五年にこの学校が出来るまで、この辺りは田圃であった。

春一番の吹く頃になれば、手かごをさげてこの大向田圃に嫁菜や餅草を摘みにゆき、たんぽぽや、すみれの花にも手を染めた楽しい思い出を、その頃の子供はみな持っている。

                      ー藤田佳世『大正・渋谷道玄坂』

 

田んぼの広がる渋谷の街で、手籠をさげて花摘みをする。なんとまあ、夢のある風景だろう。花摘みに興じる子どもたちを見かけることはもうないが、ぼくはこんな光景に出くわしたことがある。

 

「わっしょい、わっしょい」という男たちの掛け声と共に、センター街を神輿が練り歩く。渋谷の氏神・金王八幡宮の例大祭だ。半纏姿の男たちに担がれた神輿が、SHIBUYA109前に集合し、ここから渡御に出かけるのだ。資本主義の欲望を抱え込んだ渋谷の土壌を、神を担いだ男たちの足がリズミカルに踏みしめる。センター街を通る神輿は、徐々に円山町へと近づいてゆく。それを遠巻きに、もの珍しそうに写メを撮る人、何も気にせず通り過ぎる人。

 

かつて白装束に身を固めた人々が、富士山という母胎めざして宮益坂を上って行ったときも、渋谷の民衆は思い思いに、彼らを見送ったのだろうか。

 

渋谷は、「聖」と「性」が隣接し、それが人々の「生」を支えていることを、露骨に顕現している。ラブホテルのすぐ隣には神社があり、そのすぐ隣には、また別のラブホテルがある。東電OL殺人事件の舞台となった花街・円山町には、都内有数の高級住宅地・松濤が隣接している。

 

しかしぼくは渋谷において、「聖」と「性」が分化して隣りあっているとは考えない。むしろその境界は溶け合って、相即相入していると思うのだ。

 

渋谷駅から道玄坂を5分ほど上がって脇に入ると、アダルトショップや無料案内所が軒を連ねた通りになる。色褪せた安物のジャンパーを羽織ったおじさんに、「お兄さん、ヘルス~、ヘルス~」と声をかけられながら先を行くと、アナクロニズムたっぷりの建物が一軒。昭和元年創業の言わずと知れた名曲喫茶だ。中に入ると、壮麗なコンサートホールを思わせるヨーロピアンスタイルの空間が広がっている。吹き抜けを貫く巨大スピーカーを前に、店内は私語厳禁だ。たまに聞こえるささやき声は、まるで教会の告解が漏れ聞こえているようである。10年前、ぼくが初めてここを訪れた時、この空間をグレゴリオ聖歌「死者のためのミサ曲(レクイエム)」が満たしていた。神聖な気持ちのままトイレに行って、ぼくは驚愕した。足元から頭上まで、壁一面を覆い尽くす細かな文字の、落書き。その言葉の一つ一つの、なんと淫らなことか。半世紀以上前の日付が刻印されたものから、つい数日前に至るまで、抑圧された性のリビドーは、このトイレの壁面を匿名の墓場としていたのだ。

 

「禁欲的」な喫茶店を出て左に行くと、すぐそこは円山町だ。ラブホテルが立ち並ぶ通りを歩いていると、今日も大学生風のカップルや、中年おやじとその娘、と言っても良さそうな年恰好の男女が、「ディズニーランド」へと吸い込まれてゆく。そう、そこはディズニーランドだ。清潔で綺麗な西洋風の人工的外観、一歩中に入れば精密なシステムによって統制される「夢の国」。

 

資本主義の「夢」は、もはや世界中の街々の境界を乗り越えて、人々の潜在・顕在の「夢」を侵食し、画一化することに成功している。

 

こうして渋谷のディズニーランドを歩いていると、ぼくは遠い東欧の異国を思い出す。人間の顔をした社会主義を目指そうと、若者たちが熱き言葉を闘わせた石畳の街に、魂は飛んでゆくのだ。

 

 

<つづく>

 

 


[1]⁾上山和雄編著『歴史のなかの渋谷―渋谷から江戸・東京へ―』(雄山閣、2011年)を参照。なお上山は本書第七章において、上記四つの歴史的画期が、渋谷の特色(①交通の要衝②癒し・遊興・購買の場、盛り場③高級住宅地④先端的企業、情報発信機能を備えた企業の集積地)を醸成するのに一定の影響を与えたと論じている。

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき

東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。