アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その3

鎌田 東二

 

 

 

5、「バカヤロー」発言から始まる

 

 

1999220日、「ゼロから始まる芸術と社会」というシンポジウムから東京自由大学は幕開けを迎えた。東京自由大学の発起人10人が出席し、パフォーマンスとディスカッションを行なったのだが、最後の最後に、「このような活動はオウム真理教のようになる危険性があるのではないか?」という疑問と意見が参加者の中から出た。

冒頭の説明や趣旨文などで、わりと熱っぽく、1995年に起きた2つの大きな出来事に対処する目的で東京自由大学を始めたというようなことを語った。その1つは、もちろん、阪神淡路大震災で、もう1つはオウム真理教事件であった。この2つの出来事にどう向き合うことができるのか? それがわたしたちの課題であり、その課題に応えていく道と方法と場として東京自由大学を設立したのだと。

 

だが、それもまた、オウム真理教と同じような陥穽にはまり込むのではないかという疑義に、マイクに口をつけて、思いっきり、「バカヤロー!」と叫んだのであった。

その時のわたしはとても冷静だった。自制しようと思えばできた。

しかし、ここで自制してはいけないのではないかという思いが湧いてきた。はっきりと、「それは違う!」と言う必要があるのではないかと思った。それも、理路を持って答えるのではなく、どうしようもないNOを突きつける感情を持って。

そんな判断が一瞬にして生まれ、わたしは「バカヤロー!」と発していた。

 

その後の反応は、みな大変否定的なもので、「鎌田さん、最初からあんなこと言ったらダメだよ」と言われた。そうかもしれない。でもね、そう言う必要があると思うよ、とわたしは心の内で思っていた。

その思いはほとんど誰にも理解されなかったように思うが、わたしにとってそれが「東京自由大学ビッグバン」であった。そこから、わたしの東京自由大学が始まったのだった。

 

 

 

6、漂流教室

 

 

だが、そのネガティブ発言も「奏功?」してか、東京自由大学の初年度は苦労続きだった。事務局のゴタゴタ、会場のゴタゴタ、と混乱が続き、結局、東京砂漠の中でオアシスを求めて漂流しているような感じであった。

わたしたちは、いくらか自虐的に「東京自由大学は漂流教室だね」と言って、苦笑いをするのだった。そのために、次の目標というか、悲願は、安定した教室を確保することとなり、やがて、早稲田大学近くの西早稲田のイタリアレストランの三階に場所が見つかった。

そこは、前は居酒屋だったとかで、一段高くなった畳スペースで、面白い空間ではあった。空間に違和感はなく、早稲田大学からも徒歩五分と近く、高田馬場駅まで歩いても十五分以内で行けるので、まずまずの便利さであった。

だが問題は、大家さんや隣近所付き合いであった。そのビル全体1階のイタリアレストラン借りていたので、その一部分だけに割り込むような異分子的存在となり、肩身が狭く、自由度もなく、いろいろと苦情や注文があり、気の使い方も半端ではなく、ノイローゼになりそうな事務局だったために、もうここを出ようという気持ちも出てきた。

そうこうしているうちに、大家さんがこのビルを手放すという。レストランも移転するというヒッピー・フーテン・貧乏暮しのわたしたちにも落ちついて活動できる拠点が必要となった新しい場所を探すことを余儀なくされた。幸い大家さんが新しいビル探しに協力してくれた

こうして次に見つかったのが、神田紺屋町のビルの四階であった。今のビルの三軒隣りのビルであった。ここは空間的には交差点のところにあり、窓も多く、明るく、悪くはなかったが、車の発着音の問題と、エレベーターのない4階にあるために足の悪い方にはたいそう負担をかけることになり、何とかならないのかとも言われた。

が、万年赤字団体(今も実態は同じく赤字団体)である東京自由大学に引っ越しする余裕はなかった。しかし、ビルのオーナーが次々と変わり、ビルを建て直すので、出て行ってくれということになり、出て行かざるを得なくなった。

嗚呼、住居運の悪い東京自由大学よ。と嘆きつつ、しかし、困った時には、いつもどこかで、ギリギリの助け舟が入り、三軒隣りの今のTMビルの2階に引っ越すことになった。ここの大家さんが素晴らしい人であった。そこで、東京自由大学はこの地に安住することでき、自分たちのやりたいことを着実に実現していった。

財政的には厳しく、何度も会社であれば倒産していたが、関係者で補填しつつこれまで維持してきた。お金の面では大変苦労した。しかし、その分、みんなが助け合った。

僻みでも自虐でもなく、お金持ちでは味わえない学びと経験とみんなの協力があった。それによって鍛えられた。動じなくなった。何とかなるという、持ち前のノーテンキに磨きがかかり、今日に至っている。

 

 

 

7、海野和三郎学長

 

 

東京自由大学はスタッフと学長に恵まれた。初代の学長は画家の横尾龍彦氏だった。そして、二代目の学長は天文学者の海野和三郎氏である。両学長とも個性的で、独自の飄々とした行動スタイルで、わたしたちを賦活し、教導してくれた。

わたしはといえば、運営の方に力を入れざるをえなく、もちろん、講座やワークショップやシンポジウムなども懸命に行なったが、全体を運営していくために多くの力を注いだ。それを創立時からの古参スタッフが支えてくれたので、何とか持ちこたえた。東京自由大学は、学長もすばらしい。内容もすばらしい。そして、スタッフもすばらしい。

もちろん、超「3K大学」(金ない・きつい・窮屈)ではあったが、宇宙一すばらしい大学であると胸を張った。実際、天文学者で東京大学名誉教授の海野和三郎氏は、日本一の天文学者で「宇宙の寅さん」と言うネームを宗教哲学者の上田閑照京都大学名誉教授から授かったので、「宇宙一」自由で、融通無碍(?)な大学であった。

カリキュラムはみんなが納得のいく形を探った。講師料は半端ではなく安く、ほとんどボランティア金額。スタッフももちろんボランティアで持ち出しが多いくらい。

そんな、形而下的な苦労は昔も今も絶えることはなかったが、しかし、どこか、浮世離れをした、形而上的な自由と幸福があった。今も、ある。それは、東京自由大学のかけがえのない最高の精神的財産である。

「東京自由大学」の「自由」とは何であるのか? 各自がその「自由」の重みと軽みと自在さをさらに深化発展させてもらいたいといつも思っている。

 

わたしたちは、もっともっと、「自由」にならなければならないのではないか?「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」(藤原新也『全東洋街道』)なのだから。

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト