ポケットに燕石を

8章 禁断の食

辻 信行

 

 

 

ブタの脳味噌、ウシのペニス、蚕のサナギ…。いわゆるゲテモノと呼ばれるものは、あれこれ食べて来たけれど、まだその機会に恵まれていないものがある。「人肉」だ。

 

つい先日もロシアで30人以上を食べたと疑われる夫婦が逮捕された。実際、人肉を目の前に出されれば吐き気を催し、口に入れることすらままならないかもしれないが、古今東西、カニバリズム(食人)をめぐる習俗、伝承、作品、事件は数知れない。

 

その実例として頻繁に紹介されるのは、1972年、アンデス山脈に墜落したウルグアイ空軍機571便遭難事故。乗客乗員45名のうち、29名が亡くなり、残りの16名は仲間の死体を食べて生きながらえた。たびたび映画化されてきた有名な史実である。

 

日本だと第二次世界大戦中、南島の前線で兵隊たちが飢餓に陥り、人肉を食したことが知られている。これと同時期のひかりごけ事件は倫理の授業で習ったりする。

 

近代のカニバリズムとして1816年のメデューズ号事件を嚆矢に、様々な事件や文学作品を紐解いた中野美代子『カニバリズム論』。現在でも多くの読者を惹き付けている古典だが、刊行当時、ある一人の青年の人生を決定付けた。パリ人肉事件の犯人、佐川一政である。1983年にパリ留学中だった佐川が、現地でオランダ人の若い女性と知り合い、最終的に銃殺してその死体を食べた事件は、スキャンダラスな報道のされ方で衆目を集め、現在もドキュメンタリー映画がつくられるなど、話題に事欠かない。

 

カニバリズムをめぐっては、このような華々しい事件に関心が向けられがちだが、もっと日常的な時空間でも起こっている。赤坂憲雄さんの『性食考』を読んでみよう。

 

東日本大震災が始まった年の夏から秋にかけて、「魚や蛸を食べる気になれない」という人がすくならかずいた。被災地に近い、たとえば岩手県遠野市では、捕れた地魚をさばくと、内臓のなかから人の爪や歯が出てきた、蛸の頭のなかに髪の毛がからまっていたといった、真偽を確かめようのない噂がしばしば聞かれたのだった。ところが、「だから、俺は喰うんだよ」と言い切ってみせた三陸の漁師がいた、と仲間から聞いた。強い言葉だな、と思った。板子一枚下は地獄といわれるような、生と死のきわどい境を生きる海の男だからこそ言わずにいられなかった、覚悟の言葉だったのではないか。

                     ―赤坂憲雄『性食考』

 

津波の犠牲となった人々を「食べる」ことで、その人々と共に「生きる」。漁師の決意から思い出すのは、九州に伝わる「骨噛み」だ。亡くなった人のお骨を葬儀の参列者が食べるという習俗である。九州生まれでない人で、「僕が死んだら骨を食べられて、みんなの中に入りたい」という先生を身近に一人知っているが、この発言はとてもさらっとしていて自然である。もしかするとそれは「骨」だからかもしれない。「肉」となると話は違ってくる。食べるためにわざわざ殺すとなると、なおさらだ。

 

去る9月24日(日)に東京自由大学で開催した「アフリカの呪術と音楽~モザンビーク・マコンデ族を迎えて」は、マコンデ族の暮らしに根付いている呪術の世界が紹介された。呪術師にはコランデイロ(白呪術師)とフェティセイロ(黒呪術師)の2種類がいる。フェティセイロは、いまでも人肉を食うとして恐れられている。

 

下の写真は、普段なかなか姿を見せないフェティセイロを写したものであるらしい。このフェティセイロは、モザンビークのテテ州で捕えられたという。家に閉じ込めるコランデイロの呪術にかかったらしく、口から血が滴っているのは人肉を食べたからで、夜中になると女性を襲うと言われている。

 

「食」と「性」の結びつきは因縁深いが、老婆のフェティセイロに襲われた男性の証言によると、フェティセイロの性欲の強さは尋常でなく、彼は襲われた翌日、終日ぐったり過ごしたという。命が助かっただけでも良かっただろう。なにしろ相手は阿部定をさらに強烈にしたような魔物なのだから。

 

もう10年ほど前になるが、ぼくには裁判の傍聴を趣味にしていた時期があった。ある日の横浜地裁。刑事裁判がおこなわれている法廷に入ると、イギリス国籍の30代の男が、同居していた20代の女性を殺害したとして罪に問われていた。被告側の弁護団は、この一件はあくまで「事故」であると主張した。殺害当時、二人は性交しており、イギリス国籍の男は相手に頼まれて首を絞めながら事に及び、気付いたら女性が息絶えていたのだと。

 

「食べる」という言葉は、ときに「セックスする」と同義で用いられる。「食べちゃいたいほど可愛い」「あのとき、食べておけば良かった」(綾小路きみまろがよく言う)という表現がそれである。セックスにも「死(逝く)」が伴うことを考えれば、動植物の命を戴いて「食べる」行為との近接性をさらに感じる。

 

ぼくが傍聴した事件は、男が女を食べてしまった(人肉は食べていない)わけであるが、被告の弁護団は、女もそれを望んでいたのだと言う。しかしこの主張が認められることはなく、男には懲役13年の実刑が下り、現在も服役中である。

 

「食」と「性」が濃密に絡まり合っているのは、地球に限った話でないらしい。SF小説家のヘレン・マクロイには、火星人の立場から書いた地球訪問譚『ところかわれば』という短編ある。男女のカップルで訪問した火星人は、地球人から夕食前のカクテルタイムに誘われる。しかし彼らは頑なにそれを拒否する。なぜなら火星人にとって、みんなと一つの部屋で、いっしょに飲み食いすることなどありえないからだ。火星人の主人公・アモリスは次のように言い放つ。



「火星人は極めて高い道徳観念を持っています。そして、自分たちの品性と礼儀正しさを誇りに思っています。もしここが火星なら、まず全員一緒に床に横たわり、子作りを始めます。それが終わると、失礼にならないように、遠慮がちに各カップルが退出して、ごくごく内輪で、各々の部屋で夕食を採るのです。火星では、パートナー以外の前で食事をするなんてことは考えられません」

               ―ヘレン・マクロイ「ところかわれば」

 

実は、火星人はセックスを一人で、食事を二人でおこなう。セックスは単為生殖なので相手を必要とせず、食事は<咀嚼者>と<消化者>という役割が分かれており、この二人がセットでおこなうというのだ。一見すると地球人とは似ても似つかない。しかし、裏を返せば食事とセックスの様態が逆さまなだけである。アモリスはこの後で、消化者は自分のような咀嚼者なしに生きられないと言うが、地球人の女性は「反対ではないか」と疑問を投げかける。つまりこれは、地球における男性上位女性下位の慣習と同じであるのだ。おそらくマクロイはこの短編に、男性/女性、植民地/非植民地、白人/黒人などをめぐる差別構造へのアイロニーを込めたのだろう。そして上位と下位の存在を結び付け、ときに揺るがすのが「食」と「性」に関わる事象であるに違いない。

 

さて、モザンビークには「食」と「性」に貪欲なフェティセイロと逆の立場として、コランデイロ(白呪術師)がいる。治療師や薬剤師としての役割も担うコランデイロは、口や性器ではなく、肛門に薬(動物の骨や木を粉にしたもの、動物の血など)を保管しているという。そのため、クライアントに対して肛門から直接、尻をなすりつけるようにして薬を塗ることがある。講師のナジャさんは、肛門で相手の首に薬を塗るコランデイロの動作を再現し、会場の笑いを誘った。

 

モザンビークではなかったが、食事の煮炊きをするときの燃料として、動物の糞を使う地域がある。そこでは糞の上にじかに魚を置き、焼くのである。現地の若い女性が「糞の味がよく沁みていて美味しい」と笑顔で言っていたのを思い出す。

 

この女性に感想を聞きたい映画がある。ピエル・ パオロ・パゾリーニ監督の『ソドムの市』(1975年/伊・仏合作)だ。マルキ・ド・サドの『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を脚色し、第二次世界大戦後に舞台を置き換えた本作は、ファシストの残党たちが美少年と美少女をかき集め、「秘密の館」に籠城する。その中で、ありとあらゆる快楽を貪るのだ。美少女に人間の糞を食べさせるシーンでは、えずきながら無理やり食べるさまにリアリティーがあるが(実際の撮影では高級チョコレートを使ったらしい)、食糞を日常的におこなう人々からすれば、どう映るだろうか。

 

もっとも、この世界が人間を含めたありとあらゆる生物の死体や排泄物から成り立っていることは、『古事記』のオオゲツヒメ神話や、南島のハイヌウェレ神話が示唆している。死体や排泄物を直接口にするかどうかはさしたる問題ではなく、地球上で生きている以上、それらの恩恵無しに生きてゆくことはできない。

 

言うなれば、わたしたちは気付いていようがいまいが、「禁断の食」を享受している。そしていつの日か、自らも「禁断の食」そのものに変容し、誰かに食べられるのである。

 

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえ、離れ小島や都市の喧噪、カビ臭い本の中でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」など。