東京自由大学

リレーエッセイ 第九回

 

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大重潤一郎監督との思い出

―『久高オデッセイ』上映会に寄せて―

 

  慶福寺住職 関口亮樹

 

 

 

8月から、住職をしている慶福寺にて月一回のペースで大重潤一郎監督の遺作「久高オデッセイ」の連続上映会に取り組んでいる。といっても、大重作品の上映はこれが最初ではない。寺で地域における新しい祝祭の在り方を模索していた’96年から’99年にかけて、一泊二日にわたり境内を開放して行っていた祭り「シャンティホリデー」ではじめて「光の島」を上映した。夏の宵、風にゆらめく野外スクリーンを囲んで、みながてんで好きな格好で映像に見入るその様子を、一升瓶をあぐらの前に突き立てて、お堂の縁側から嬉しそうに眺めていた大重監督の顔が思い出される。 

 

監督と出会ったきっかけは、’981010日、鎌倉の高徳院で開催された「神戸からの祈り・東京おひらき祭り」に実行委員として関わったことにほかならない。当時を振り返れば、’95年に阪神淡路大震災とオウム真理教地下鉄サリン事件が起こり、’97年には14歳の少年「酒鬼薔薇聖斗」による神戸連続児童殺傷事件を経験した。だれもが社会を覆う虚構を取り払って、いまいちど大地から連なるいのちの感覚を取り戻すべきだと考えていたと思う。

 

「神戸からの祈り・東京おひらき祭り」で、監督は発起人である鎌田東二氏の絶大なる信任を得て神戸サイドの実行委員長を務めていた。ミーティングの際、祭りにかける意気込みを語る監督の姿に出会って私は共感を深めていった。 

 

「廃墟となった神戸の街を家に向かって歩きながら、ふと顔を上げると、街の向こうに六甲山が昨日と変わらず、何事もなかったように佇んでいた。われわれが依拠していた文明が豆腐かプリンのように崩れ去って、ようやく何千年もそこにあり続けた揺るぎないものに気づかされた」。 

 

「街が壊れ、家の壁が崩れたら、人を隔てる壁がなくなった。エレベーターが止まったマンションの階段を、金髪にピアスの若者が何度も行き来をして上階にいるおばあさんに水を届ける姿をみて、まさにここが極楽浄土だと思ったのも束の間、三年経って街が復旧したらみんな何もかも忘れてしまった」。 

 

春の時点では青写真さえ見えなかった「東京おひらき祭り」は、短期間のうちに莫大な人的、経済的な支援を引き寄せて、10月の本番を目前に大イベントの様相を呈していた。それにともない、私を含む実行委員の若手メンバー数名が、それぞれの音楽ユニットで祭りに参加することになっている点ついて、関係者の一部から異議が唱えられた。「アマチュアの出演はこの祭りに相応しくない」というのが理由だった。これに対して、監督は「先日、彼らが主催する祭りで演奏を聴いたが素晴らしいものだった。私からぜひ推薦したい」といって擁護してくれた。つねに後進の者、チャレンジしようとする者を引き立てようと心を砕いてくれた監督の存在がなければ、私たちにとってこの祭りはまったく意味の違ったものになっていたかもしれない。

 

二度目の上映会は、第一部結章が完成し、配給会社も決まって間もなくだったと思う。監督をよく知る仲間と共に近くの公民館を借りて、「原郷のニライカナイへ・比嘉康雄の魂」とのカップリングとして開催した。そのとき、監督は自身の体調のせいで会場へ出向けないことをしきりと詫びながら、当日の来場者に向けたメッセージを届けてくれた。

 

あれから10有余年の歳月が流れたのだ。この間、私は初めて子供を授かり、また、先代を見送って寺の法灯を引き継ぐことになった。日々が慌ただしく過ぎ去っていくなかで、時折、沖縄から電話をいただくこともあった。こっちはこんな様子だ。奥さんと子どもはどうしている?他愛もない会話を交わしながら、激痛を抱えて奮闘を続ける監督の状況を知りながら、なんの力になれない自分がなんとも不甲斐なく、ひたすら苦しかった。 

 

そんな私の思いをよそに、映画は奇特な方々の支えによって第二部、第三部と無事完成を遂げていった。私がようやく監督のもとを訪れることができたのは、亡くなる一か月前のことだった。当時、監事を務めていた全日本仏教青年会の全国大会と定期総会が、思い切りの悪い私を沖縄へと運んでくれたのだ。その少し前まで、電話口で「酒だけは飲んでるよ」いっていた監督が、私の持参した地酒の瓶に目をやりながら「もう、飲みたいと思わないんだよ」とこぼしていた。 

 

明かりを落とした本堂のなか、内陣の正面にかけられたスクリーンに監督の在りし日の心象風景がしずかに映し出されていく。その光は、さながら監督自身の遺影のようであり、いのちの秘密を解き明かす如来の相でもあるかのようだ。この上映会が、三回忌を迎えた監督の良き供養になってくれればという願いがこみ上げる。

 

ドキュメンタリー映画「久高オデッセイ」には、時系列に進行してゆくストーリーがない。さらに、ナレーションによる解説は極めて限定的であるうえ、島民の思いに直接触れうるインタビューも意図して試みられていない。映画は、この島の中で起こる一切の事象について観念的に評価すること、あるいは評価されることを拒んでいるかにみえる。 

 

そこで、観客である私たちは、監督の後について歩調をそろえ、呼吸を合わせるようにしながら島を歩きはじめる。そして、監督の足が止まれば、一緒に歩みを止めて目の前の出来事をしずかに見守る。けっして驚かせたり、干渉したりすることなく、息をひそめて無始無窮のいのちの

営みを、その中の刹那の輝きを、ただ固唾を飲んで見届けるのである。 

 

歩きながら、ふと監督の横顔に目をやる。トレードマークになっている大きな眼鏡の奥に見慣れた眼差しがあった。これまで幾度も、ひたすら未熟で奔放な私を赦し、受容してきてくれたあの眼差しだ。深山からほとばしりでる清流も、人の営みが排出する汚水も併せて呑み込みながら、なお陽光を受けて平然とたゆたっている聖なる海の母性にも似たその眼差しに照らされて、森羅万象がみずからの終わりなき物語を語り始めるのを私たちはじっと眺めたていた。

 

(了)

2015年6月22日 左・大重監督、中・佐藤壮広氏、右・筆者
2015年6月22日 左・大重監督、中・佐藤壮広氏、右・筆者

 

 

関口 亮樹 / せきぐち りょうたつ

天台宗慶福寺住職。(一財)埼玉県佛教会理事。教誨師。天台雅楽会会員。埼玉県蓮田市出身。駒澤大学文学部国文学科卒。S62年得度、同年延暦寺止観院・小林栄茂大阿闍梨のもと四度加行を満行。広告コピーライターなどの前職を経て、’94年慶福寺に入山。2010年同寺住職拝命。’92よりインド文化圏を中心に聖地巡礼を開始。2012年より金峯山寺大峯奥駈修行に毎年参加、各地の霊峰登拝を行っている。