「歩けども 歩けども」 Vol.2

浜田 浩之

 



430日(火) 仙台〜一関〜気仙沼〜南三陸〜涌谷

東北の地域情報誌『MAIタウン まちねっと』に掲載する企画の取材のため、宮城の金華山へ向かう。『まちねっと』は、岩手県一関市を中心に、宮城・秋田・岩手・山形に配布されていて、各エリアの話題を掲載している。私は、東日本大震災以降に東北を訪れた際に『まちねっと』を読み、各エリアの「パワースポット」として、「巨石・巨木」を紹介する企画を提案して、掲載していただいた。今回も同じ流れで、金華山を紹介することになった。

取材に行く前に、東北に関する本を読み、金華山の情報を集めた。井上ひさしの『吉里吉里人』は、全編に東北弁が使われ、東北の一地方が、豊富な金を財源に独立する事件を通して、日本の抱える政治・経済・軍事・外交から、農業、医療・福祉、日本語・文化にいたる、あらゆる問題が、ユーモアを交えて提起されている。NHKビデオ『新日本紀行5 夏鯨漁〜宮城県・金華山〜』(19698月放送、30分)には、金華山沖が、世界三大漁場の一つで、金華山に近い牡鹿半島の鮎川は、鯨漁の基地として栄えてきたことが紹介されている。

金華山は、「山」となっているものの、宮城県の牡鹿半島の目と鼻の先にある、全山花崗岩の島である。「東奥三大霊場」と呼ばれて、西の出羽三山、北の恐山とともに、東の霊山として信仰されてきた。山をそのまま海に浮かべたように、平地はほとんど無く、現在は、金華山黄金山神社という神社の関係者の他に住む人はいない。金華山では、鹿が神の使いとして保護されていて、鹿の他に猿も多く生息しているという。かつて気仙沼〜三陸海岸〜牡鹿半島の一帯は、金山が多かった。日本で初めて金を産出したという涌谷にも、黄金山神社がある。

東日本大震災では、震源にも近く、地震と津波で大きな被害を受けた。社殿と建物は無事だったものの、灯籠などは倒壊して、桟橋周辺の建物は流された。地盤がゆるんでいたところに、台風の被害が重なり、参道が土砂に埋まるなどした。現在は、全国から集まるボランティアなどの支援を借りながら修復を進めて、参拝者を受け入れられるようになってきている。

取材は、仙台から鉄道を乗り継いで気仙沼に行き、気仙沼から三陸海岸を鉄道とBRT(バス高速輸送システム。震災で運休している区間を結んでいる。)で南下しながら牡鹿半島に行き、金華山に渡る計画を立てた。

前日に夜行バスで出発して、早朝、仙台駅に着く。東北本線で一関に向かう。一関で『まちねっと』編集室に立ち寄り、編集人のT氏に挨拶をする。気仙沼周辺まで、T氏の車に乗せていただけることになり、9時頃出発した。道路沿いには、横浜では見頃を過ぎた桜や水仙の花が咲いている。雨が降ることもあったが、次第に晴れてきた。

気仙沼市に入り、鹿折(ししおり)金山資料館に立ち寄る。鹿折金山は、1904年に「モンスター・ゴールド」という巨大な金塊を産出したことで知られる。資料館の隣には、モンゴルから贈られたという巨大な岩塩を祀った、金山神社がある。マイナスイオンを発するという白い岩塩は、固くスベスベ、ヒンヤリとしていた。

気仙沼市街に入る。ここには、2011年の東京自由大学の「夏合宿」で訪れたことがある。復興商店街「南町紫市場」の「あさひ鮨」で昼食。「あさひ鮨」は、気仙沼名物の「フカヒレ寿司」の元祖。フカヒレ寿司も入ったにぎりは、見た目、味ともに新鮮そのものだった。震災時、この辺りの人たちは、高台にある紫神社に避難していたそうで、商店街の名称も、そこからきているらしい。

三陸海岸もT氏の車に乗せていただいて、見て回る。海岸沿いは、瓦礫が片付けられ、BRTが通って、仮設商店街があちこちにできている他は、どこも更地が広がっている。志津川でT氏と別れBRTに乗る。柳津駅から気仙沼線で涌谷に向かう。涌谷駅で宿を探し、駅から離れた「研修館」にチェックイン。近くの巨大なイオンモールに食事の買い出しに行く。買い物客が多く、レジ前で長時間並ぶ。東北では、あちこちでこのような巨大なショッピングセンターを見かける。

 

 

51日(水) 涌谷〜石巻〜牡鹿半島・鮎川浜

8時に宿を出発し、歩いて黄金山神社に向かう。周辺は、平野で水田が広がり、水田の向こうに低山が見える。水田はまだ田植え前。9時頃に黄金山神社に着いて参拝。境内は、他に参拝者もおらず、ひっそりとしていた。次に神社に隣接する「天平ろまん館」を見学する。職員から、黄金山神社や砂金について、神社周辺は、今でも砂金は採れるが、国の史跡のため許可の無い採集はできないこと、金華山黄金山神社との関連は特になく、創建もこちらの方がずっと古いこと、などの説明を聞く。

展示を見物した後、館内の施設で、砂金採りの体験をする。洗面器のようなたらいに砂金を含む砂利を入れて、たらいを振って水とともに砂利を除いていくと、最後に砂金が残る。制限時間30分で、採れた砂金は2粒。それも1粒は、職員がお手本に実演した時のもの。採った砂金は持ち帰れる。この砂金が涌谷のものかどうかは、「企業秘密」とのことだった。

涌谷駅に戻り、石巻線で石巻に向かう。車窓からは、仮設住宅を見かけるようになる。2年前、石巻に来た時、石巻から先は運休していたが、今回は浦宿まで復旧していた。待ち時間に、石巻駅周辺を歩く。どこを歩いても石ノ森章太郎の漫画のキャラクターが目に入ってくる。商店街の復興はかなり進んで、交通量が多くて賑わいがあった。

渡波駅から鮎川浜方面に歩く。風が冷たく、小雨がパラついている。工事関係のトラックなどの交通量が多い。万石浦にかかる橋の付近で鮎川浜行きのバスに乗る。バスはカーブを繰り返しながら坂道を登っていく。バスから見える牡鹿半島の風景は、ホタテ養殖の貝殻の束、狭く不便な場所に建てられた仮設住宅などが目につく。海岸沿いの集落はどこも壊滅的な被害で、建物の土台だけ残った更地が広がっている。

鮎川浜で「ホテルニューさか井」にチェックインする。客室から金華山が目の前に見え、山頂は雲に隠れている。夕食は、新鮮で豊富な魚介類で、鯨、マグロ、カンパチ、エビなどの刺身、ボイルかに、ヒラメのカルパッチョ、イカ、鯨のステーキ、ホタテのホイル焼きなど豪華だ。ホタテは、スーパーなどで目にするものとは比較にならないほど大きく、味も濃厚だった。

 


52日(木) 鮎川浜〜金華山

朝、ホテル周辺を散歩する。ウグイスなど鳥の声を聞きながら歩く。鹿を度々見かけ、鳴き声も山に響く。金華山神社を遥拝する「一の鳥居」を探すが、見つからなかった。

ホテルをチェックアウトしてから鮎川浜のフェリー乗り場に行く。13時の金華山行きの船まで時間があるので、周辺を見て歩く。鮎川浜の被害も大きく、高台の住宅が残っている他は、ほとんどが更地になっている。港から少し離れたところに仮設商店街があった。商店街には、鯨の缶詰や鯨肉、海草などの特産物を販売する店や食堂など、15店舗くらいが営業している。鯨の歯を加工した工芸品を売る店のご主人は、私が取材に来ていることを知ると、鯨や震災について以下のように話してくれた。

鯨には、歯のある歯クジラと、ヒゲのあるヒゲクジラがあって、工芸に使うのは、歯クジラである。最近、NHK仙台の取材が全国にも放送されて問い合わせが増え、現在、仙台駅で行われている物産展に出店している。震災の時、津波で店は流されたが、鯨の工芸材料はほとんど被害を受けなかった。ここで鯨の工芸をやれと言われているように感じて、店を再開させた。自分は三代目で、頑張って店を続けていきたい。震災後の支援で感謝しているのは、自衛隊とボランティア。震災後は、まだ金華山に行っていない。震災前は、金華山には、鮎川の人はみんな毎年行っていた。鮎川にとって大切なのは、一に鯨、二に金華山。捕鯨が禁止されている今は、金華山は大切な資源。捕鯨の再開も強く望んでいる……。

工芸品店のご主人に、金華山について詳しいという、商店街にある観光案内所の人を紹介してもらった。以前、金華山の桟橋にあった売店で働いていたことがあるという。その人の話では、金華山には全国から色々な人が集まる。参拝の人、「パワー」を求める人、観光の人など。参拝の仕方も様々。修験道の行者も年に12回、決まった時期に来る。行者は、山頂の大海祇(おおわだつみ)神社で祈っていると、霊気の集まってくるのが感じられるという。最近は、そのような神社は少なくなっているらしい。この他に、島内の見どころや、震災の影響などの話を聞いた。

13時過ぎ、定期船に乗って金華山へ渡る。新しい桟橋から島に上陸する。この桟橋は、公共の工事ではなく、ボランティアに来ていた人が周囲に呼びかけ、大阪の民間会社が無償提供したものという。従来の桟橋は、震災後、冠水していたが、この桟橋の完成で、中型船が接岸できるようになった。桟橋周辺は、津波の傷跡が生々しい。崩落した山肌がむき出しになっていて、復旧工事が進められている。仮復旧の道を歩いて、高台にある金華山黄金山神社に向かう。境内には花崗岩の大岩や大木が点在する、独特の景観。桜の花が見頃を迎えている。

金華山黄金山神社は、今年12年に一度の大祭の期間に入っていて、今日の夕方と明日に神事が行われる。受付を済ませてから、参集殿という宿泊施設に入る。今日は、参拝者が多く、3人の相部屋である。相部屋の人は、千葉と東京・世田谷から来ているという。コンクリートの参集殿の建物内は、あちこちに亀裂が入っている。大浴場の被害が大きく、現在も使用不能になっている。

16時半から本殿で「巳歳御縁年(みどしごえんねん)・初巳(はつみ)大祭前夜祭」が始まる。参列者は50名位だろうか。奥の扉を開けて、野菜や鯛、餅などの供え物を奉納する。その後、神職の祝詞に続き、雅楽の調べや歌とともに二人の巫女が「浦安舞」を奉納、供え物を下げて扉を閉めて祭儀は終了した。感激のためか涙ぐんでいる女性参列者もいた。

18時半から、食堂で、直会(なおらい)という、参籠者(さんろうしゃ、宿泊者のこと)が集まった夕食。最初に宮司さんが挨拶し、震災当日のこと、震災や台風の被害から、多くの人の協力で今日の大祭が開けたこと、これからの復旧に向けて協力のお願いなどの話をした。震災当日、参集殿の前にいたが、震源地に近いため激しく揺れた。瓦が雨のように落ちてきて、境内のあちこちが崩落したり沈下したりした。揺れが収まってから職員の安否を確認した後、今度は津波が来るということで、海の見える場所に行くと、潮が引いて、島と牡鹿半島の間の海峡の底があらわになった。その後、島の左右から押し寄せてきた津波がぶつかって、50mもの水柱になったという。

宮司さんの挨拶の後、お神酒で乾杯して食事になった。宮司さんは、参籠者にお神酒を注ぎ、話をして回っていた。TBCという地元のテレビ局も取材に来ていて、参籠者から話を聞いている。食後、部屋に戻ってメモを書き、21時頃に寝た。

 

 

53日(金) 金華山

朝、4時半に起きて、広い境内を歩く。5時半から「一番大護摩祈祷」が行われる。待ち時間に、神社の地震や台風の被害に詳しい参列者の話を聞いた。ボランティアの支援が復興の大きな力になっている中で、特に、ある一人のボランティアの貢献が大きい。その人は溶接工で、震災後、テントに泊まり込みで10ヶ月間、復旧作業を行い、本殿前の常夜燈をはじめ、倒壊した境内の設備を次々と修復したという。重機が使えなくても手動の道具を使い、塗装まで行なった。現在も島に通っているらしい。

一番大護摩祈祷は、本殿の奥の扉を開け、酒や野菜、餅などの奉納〜イヤサカの舞奉納〜参列者の玉串奉納を行い、7時頃に終了した。その後に朝食。

10時の「巳歳御縁年・初巳大祭本祭」まで、相部屋の人と話して待つ。世田谷から来たという青年は、東日本を中心に、全国の神社の朱印を集めているという。一度の旅で、1020の神社を回って朱印を貰うそうで、朱印帳を見せてくれた。自身で参拝した神社の朱印ばかりで、神社に人がいない場合も、連絡先を調べて、管理者の自宅にまで行って朱印を貰ったり、郵送で送ってもらったりしているらしい。何十年ぶりに朱印を押したという管理者もいたそうだ。金華山には「3年続けて参拝すると金持ちになれる」という言い伝えが広まっていて、3年用の朱印台帳がある。

本祭は、参集殿前から始まった。参列者は、50人余り。正装した神職がかける清めの水で手と口をすすぎ、参列者と神職や巫女が対面して挨拶する。その厳粛な様子を大勢の一般の参拝者が見守る。報道関係者も多い。宮司の挨拶の後、神職たちを先頭に1列に歩き出す。近くに作られたお祓い場で、榊を持った一人の神職が、神職たちと参列者に、榊を三回振ってお祓いをする。その後、本殿への階段を登り、本殿に上がる。本殿では、前夜祭や朝の祈祷と同じ順序で、奥の扉を開けて、供え物が上げられ、宮司の祝詞〜イヤサカの舞の奉納〜参列者の玉串奉納で本祭を終了した。40cmくらいのお札を受け取る。

同室の世田谷の青年は、本祭が終わると帰り、一人部屋になった。小休止した後、12時前から金華山山頂に登り始める。登山道は、花崗岩の転がる道で、大きな岩と、色々な種類の巨木があちこちに立っている。木は、土の中から生えるものと思っていたが、岩の上に巨木が根を張っているのを見て、岩には気というかパワーみたいなものがあって、それを受けて、これほど大きく育っているのではないかと思った。登山道の脇に沢が流れていて、貯水池に注いでいる。足元には、紫のスミレ、ピンクや黄色など小さな花が咲き、バイケイソウも群生している。鹿を度々見かける。尾根に出ると見晴らしが良く、太平洋側と本州側が見渡せる。

13時頃、山頂に到着し、大海祇神社に参拝する。社殿は地震で半壊したが、応急的に復旧されている。神社の近くで昼食。食べている間にも、何人か登ってきて参拝する。スーツ姿で登ってきた人もいた。殆どの人が、頂上からもと来た道を戻っていく。山頂付近で、七色のきれいなコガネムシを見る。金や黄金ともつながって縁起が良さそうだ。コガネムシは、フンコロガシらしく、猿のものと思われる糞を転がし始めた。

山頂から千畳敷方面に下っていく。まもなく巨大な岩「天柱石」が姿を現した。高さは約20m。かなり離れないと写真におさまらないほど大きい。この周辺には、天柱石の他にも巨石を多く見かける。天柱石の先は、急に道が悪くなった。道が、ところどころで崩落や倒木で消えている。ふと足元に蛇がいて、踏みつけそうになった。マムシかと思って飛び退く。動きが鈍い。後で、冬眠から出てきたシマヘビで、脱皮したばかりらしいことを知った。

標高が下がって、海が近くなってくる。沢沿いを歩いていると、鹿の白骨死体にぶつかりギョッとした。千畳敷の手前から、倒木が増え、海岸に近づきにくくなる。倒木を跨いで海岸に出ると、低いところにある木は、どれもなぎ倒されたり、枯れたりして、2年前の津波の痕跡が生々しく残っていた。海岸の先の行けるところまで行く。切り立った岩場に打ち寄せる荒波、見渡す限りの水平線に、美しさと同時に、自然の圧倒的な力を肌で感じた。あまり長くいてはいけない場所のような気がして、帰り道にも不安があり、足早に引き返す。

帰りの登りは、来た道を歩いているつもりが、いつの間にか見失ってしまった。尾根を目指して進み、尾根からは、登りの時に見た風景で、方向に見当をつけて、頂上と思われる地点を汗だくになって目指す。途中、木の枝に眼鏡を引っ掛けて落としたり、靴ヒモが解けたり、イバラの刺を手に刺したりして、時間と気力を消耗する。暗くなるまでに下山できないかも知れないと焦る。見覚えのある登山道の手すりを見つけた時には、ホッとした。頂上から先は、余裕を持ち直し、写真を撮ったり、沢の水に足を浸けたり、周囲の風景を楽しみながら16時半頃、下山した。

風呂に入って汗を流す。風呂は、大浴場が使用できないため、小さな禊用の浴室を、男女時間を交代して使用している。18時から直会。参籠者は15名位と、昨日と比べて少ない。直会前に宮司さんの挨拶、「何もないところと思うかも知れないが、創建1300年の時間を感じながら、ゆっくり過して欲しい」。お神酒を注ぎに回ってきた宮司さんに、本祭が終わって一段落したかどうかを伺うと、5日の神輿渡御までは、まだ忙しいとのこと。部屋に戻って、メモを書いてから寝る。

 


54日(土) 金華山〜女川〜石巻

5時前に起きて、周辺を散歩する。日の出が見られるかもしれないと期待したが、朝日は、島の裏側から登っていて見えない。表参道は、台風で発生した土石流で大きな被害を受けて、仮復旧の状態。参道の両側には、杉などの巨木が並んでいる。境内の広場には、鹿の群れがいる。満開の桜の木の枝に猿の群れがとまっている。

6時から、一番大護摩祈祷に参列。参列者の人数に余裕があるため、神社の用意する白い上掛けを着て参列する。祭儀は昨日と同じだが、巫女の舞は、前日よりも広い場所で奉納され、じっくりと見ることができた。

940分に、女川行きの定期船に乗る。女川は、2年前に来た時は、まだ瓦礫があちこちに生々しく残り、異臭もあった。地盤沈下で満潮時には道路が冠水していた。今回は、瓦礫撤去や道路、漁港の復旧が進み、仮設商店街が出来ている。何度も報道されて有名になった、横倒しのコンクリートの建物は、震災遺構として保存が検討されている。住宅は建てられずに、更地が広がる光景は変わっていない。連休を迎えて、車の往来が多い。

女川から、仮設商店街などに立ち寄りながら歩く。鮎川浜から石巻の牡鹿半島の西海岸は、金華山道という参詣道だったということで、石巻まで歩いてみようかと思ったが、見るものも少なく、車の交通量の多さや騒音に疲れ、沼田駅から石巻線に乗る。15時半頃、石巻駅着。駅周辺を見て回り、喫茶店で資料の整理やメモ、夕食を食べたりして過ごし、夜行バスで東京へ帰った。

 

 

526日(日) 山梨・笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)登山

視覚障害者(以下、視障者)と山に登る「六つ星山の会」の山行に参加する。聞いたことのない山で地味な印象。新緑の青臭い香りが好きなので、その中を歩くことに期待する。

横浜線で八王子に行き、中央線に乗り換えて山梨方面に向かう。車窓の風景が、市街地から新緑の山間地帯に変わる。わずかな面積の平地に、田植えを終えた水田が段になっている。大月から松本行きのローカル線に乗り、7時過ぎに笹子駅に到着。無人の改札を出ると、六つ星の人はまだ誰も来ていない。別の登山者が数人、どこかに向けて出発して行った。駅の周囲は、山に囲まれている。駅のポスターやチラシによると、周辺の山は、富士山の眺めの良さで知られているらしい。駅前には、笹子隧道の石碑が建っている。周辺地図の看板を見ると、登山コースがいくつもある。知らない山ばかりだが、ベテラン登山者には、魅力のあるところらしい。駅前を通る国道20号線沿いには、笹子名物という笹子餅や、まんじゅうの店の他、個人商店が数軒ある。

8時頃、全員集合してリーダーから挨拶と参加者の自己紹介。健脚向きの山行とのことで、参加者は多くないだろうと思っていたが、約35名で、4つの班に分かれる。私は3班で、視障者のAさんを晴眼者3名でサポートする。

20号線沿いを歩き始める。天気も良く、一行はおしゃべりで賑やかになり、周囲の水田や畑を見ながら歩く。ゆるい登り坂で、山に少しずつ近づく。どこを歩いているのか、どういうルートを歩くのかもあまり把握しないまま、大船に乗ったつもりで先頭について行く。

30分歩き、新田から登山道に入った。尾根に出るまで、杉林の急登をジグザグに登っていく。Aさんは、六つ星に長年参加しているおばさんで、サポートしていることを殆ど感じさせずに、小柄な身体で軽快に登っていく。前サポートの人は、段差があるとか、滑りやすいとか、道の状況を伝えながら歩く。後サポートの人は、視障者がバランスを崩したり、滑落することのないように見守る。班の中で、前後の位置を交代しながら登る。

ところどころにヤマツツジの赤い花が咲いている。鮮やかな新緑の雑木林も見られるようになった。新緑の香りは、時期を過ぎたためかあまりしない。杉林よりも、雑木林の中を歩く方が変化に富んでいて面白い。日差しは強いが、新緑の葉が遮っていて、吹き抜ける風と鳥の声が心地良い。

1188m点」という場所で、5分間休憩。参加者の中には、高度計を持っている人が何人かいて、瞬時に高度が分かる。自分も方位磁石くらいは持っておくべきか。汗をかなりかいているが、水は1ℓしか用意してこなかった。途中に水場があるのか分からないので少しずつ飲む。水筒の内側にカビが付いていて、水がカビ臭い。

尾根道に出てからもキツい登りが続いた。何度か休憩しながら、11時頃、笹子雁ヶ腹摺山(1357m)に到着。この付近の下を笹子トンネルが通っている。周囲は木々に囲まれていて、眺望は開けていない。短い休憩の後、班ごとに記念写真を撮って慌ただしく出発する。途中、眺望の開けた場所から、次に目指す米沢山が見える。かなり遠く、一度下ってから、再び同じくらいの高さを登っていかなければならないようで、参加者から嘆息も聞こえる。先はまだ長いようだ。アップダウンを繰り返しながら米沢山に近づき、キツい登りに入った。急登の岩場に渡されている鎖をつかんで登ったり、やせ尾根を通過したりして、皆の口数も少なくなり、真剣になっている。しばらく聞こえていた車の音は聞こえなくなり、それに代わって、カッコーやウグイス、その他の鳥の声が響く。また、ハルゼミというセミも鳴いている。ヒグラシに似た涼しげな声だ。

12時頃、ようやく米沢山(1357m)に登頂し、昼食を食べる。参加者が持ってきた手づくりの漬け物や果物、お菓子をお裾分けしてくれる。遠くの山はかすんでいて、富士山は見えない。

12時半頃、米沢山を出発。再びアップダウンを繰り返して、次のピークのお坊山を目指す。今回の山行は、標高が高くないため、それほどキツいとは思っていなかったが、累積標高差が1150mあり、これまでに参加した六つ星の山行の中では、最もハードに感じた。約1時間で、今日の山行の最高峰のお坊山(1421m)に登頂。リーダーによると、「この先、1箇所アップダウンを過ぎれば、あとは下りのラクな道になる」とのこと。今日の難所は全て通過したようだ。先が見えてきたせいか、おしゃべりがさかんになった。Aさんは歌の好きな人で、歩きながら口ずさむ時もある。下るだけとはいっても、周囲の風景では、まだかなり高い場所にいる。40分ほど下って大鹿峠で休憩。それからさらに1時間下り、赤い大きな屋根の氷川神社を通過する。間もなく住宅が見えてきて、鹿の侵入防止用のフェンスを開けて15時頃、下山した。

下山口の前にあるバス停に全員集合して、リーダーの挨拶の後、いったん解散。登山口にある水場で、冷たくて美味しい水を飲み、顔を洗って、水筒につめた。甲斐大和駅行きのバスを待つよりも、歩いた方が早いため、再び歩き始める。途中から20号線になり、車やトラックの往来が多くなった。約30分歩いて甲斐大和駅に到着。ほとんどの参加者が駅前の食事処に入り、ビールなどで乾杯する。この下山後の乾杯を楽しみに参加している人が多い。地元産の透き通った刺身のようなコンニャクや、山ウド、コシアブラなど山菜の天ぷらに舌鼓を打つ。登山は、あまりお金がかからないのも魅力だが、こういう形で地元にお金を落としていくのは、結構大切かもしれない。

1時間くらい食事処で過してから、帰りの電車の時刻になったので、数人の参加者と先に帰る。酔いと疲れで、車内ではすぐに眠ってしまった。

 

 

61日(土) 神奈川県大和市・泉の森公園

登録している視障者の支援団体から、ボランティアの依頼があった。外出支援の誘導で、内容は、依頼者の自宅から、徒歩と電車で公園に行き、散策して、また自宅まで送るというもの。

視障者支援の活動は、広い範囲にわたっているが、大きく分けて情報支援と移動支援がある。情報支援には、書籍などを点字にする点訳や、朗読して音声化する音声訳などがある。移動支援には、買い物など日常生活の外出時の誘導、スポーツやレクリエーションのサポートなどがある。

私は、これまで視障者支援の講座をいくつも受け、ボランティアも何度か経験してきたが、視障者と一対一で接するのは、今回の依頼が初めてである。指定された時間の10分前にTさんの自宅に行く。Tさんは準備を整えて待っていたらしく、すぐに出発した。視覚障害は「全盲」から「見えにくい」まで「見え方」は一様ではない。Tさんは、全盲だが光は分かるとのことだった。

駅周辺は、道は狭く入り組んでいて、車や自転車、通行人が多い。視覚障害者が一人で歩くのは危険そうだ。ドラッグストアで飲み物を購入する。Tさんの要望と聞いて店内を案内して、商品を説明する。買い物の後、相鉄線に乗り、大和駅で下車。早めの昼食をとる。Tさん行きつけのうどんチェーン店に入る。店内のメニューを一通り説明して注文した。昼食後、大和駅構内の観光協会に寄り、目的地の「泉の森公園」のパンフレットを探し、歩いて公園に向かう。

Tさんは今日のコースはよく歩いているらしい。泉の森公園に隣接する「ふれあいの森公園」に入り、遊歩道を歩く。Tさんは季節の花に関心があり、今日はアジサイを目当てにしている。アジサイの他に花菖蒲、ツツジ、ハーブ園など花の咲いている場所を中心に案内する。私が花の前で色や形などを説明すると、Tさんは花に触ってどのくらい咲いているのか確かめている。土曜日のため、園内はウォーキングや犬の散歩の他、家族連れや若者のグループなども多い。広場ではバーベキューをしている。アジサイが多く植えられている、引地側沿いの遊歩道を歩きながら、泉の森公園に入る。公園は、広い敷地に池もあり、四季を通じて楽しめるようになっている。公園の中心部にある自然観察センターに寄って、パンフレットやチラシをもらい、花の咲いている場所を歩いて回る。

次に公園の一角にある古民家園を見学する。民家の中に展示されているかまどや農機具、家具などをTさんに触ってもらう。庭に植えられている色々な種類の木や花、野菜などを見て回る。梅の木には青い実がなっていた。鶏小屋もあって鶏を飼育している。

Tさんは匂いや音に敏感だった。缶飲料は「缶の匂いが気になる」とペットボトルのお茶を買い、お茶アジサイの花の前を通ると、「匂いがするけど、この近くで咲いていますか」と聞く。鶏小屋から少し離れた場所でも「鶏の声がしますね」と言っていた。

15時過ぎに散策を終え、最寄りの相模大塚駅まで歩き、相鉄線に乗る。駅前で買い物をしてから、自宅までTさんを送って活動を終了した。活動終了報告の電話を入れ、帰る途中、普段よりも匂いや音に敏感になった気がした。

 

 

68日(土) 神奈川・丹沢湖 カヌー&キャンプ

視障者の支援団体主催のレクリエーションに参加する。7時に担当者の車に同乗して丹沢湖に向かい、カヌーの運搬など準備を手伝った後、丹沢湖畔のロッジに集合した。参加者は25名位。そのうち視障者は78名。盲導犬同伴の人もいる。殆どの人は何回か参加したことのある経験者。私は、カヌーは初めてである。視障者をサポートする余裕があるだろうか。

丹沢湖は、私が普段飲んでいる水道水の水源の一つである。梅雨に入っても雨が少ないため、水位は低く、水は淀んでいて藻が多い。湖畔に降りると湖底の泥が露出していて、ヘドロのように臭い。この日は、「アドベンチャー・ラン」という山間部を走るマラソン・イベントが開催されていて、人や車が多い。

湖畔で、準備体操やカヌーの操作方法のレクチャーを受けたあと、参加者は次々とカヌーに乗り込み、湖に入っていく。余っていた二人乗りのカヌーに、私と同じ初心者の参加者と乗った。最初は真っ直ぐ進まなかったものの、漕いでいるうちになんとなく要領が分かってきた。後ろの席の人は、前の席の人に合わせてパドルを左右に漕ぎ、方向も後ろの人が調節する。左に曲がる時は、右のパドルを漕ぎ、右に曲がる時は、左を漕ぐ。

一人乗りのカヌーに乗り換えてみると、円を描くばかりでほとんど前に進まない。パドルのちょっとした動きや風向きで、フラフラと左右に揺れる。地上を歩くように、思ったところに行けないのがもどかしい。このカヌーは、中級者向きらしく、しばらく乗ってから、船底に直線の溝の入った初心者向きのカヌーに乗り換えた。今度は、なんとか前に進むようになり、周囲を見回す余裕も出てきた。参加者たちは、思い思いにカヌーを操って動き回っている。視障者のカヌーを、カヌーのベテランの晴眼者が、遠くへ行かないように見守っていた。視障者は、湖に流れ込んでいる水や、車道を走る車など、音を頼りに自分の位置を確認しながらカヌーを漕いでいるようだった。湖面は、静かで、波もなく鏡のようだ。どこも湖底から発生するガスの泡が上っている。14時から2時間カヌーを堪能して、1日目のカヌーは終了した。

ロッジに戻り、17時頃から、参加者全員で夕食の準備にかかる。野菜の皮をむき、洗って、切る。薪の火で米を炊き、食材を茹でる。手分けをして短時間のうちに準備は整った。19時頃から、ビールで乾杯の後、炭火のバーベキューが始まった。野菜や肉を次々に焼いていく。ワインや日本酒も回って、盛り上がる。普段の食事は、一人で作って、一人で食べていることがほとんどだが、今日のように、大勢で作って、空気のキレイなところで、賑やかに食べる食事は美味しい。

20時頃、いったん夕食を終えてから、酒とつまみを囲んで二次会が始まった。カヌーを漕いだ疲れと、日本酒「丹沢山」の酔いが回って、早めにロッジに入って眠った。二次会は遅くまで続いていたようだった。

 


69日(日)

5時前に鳥の声で目を覚ます。自販機で缶コーヒーを買い、ロッジ周辺を散歩する。山と山の間から、白い雪の被った富士山が、朝日を受けて輝いて見える。鹿が数匹、車道から山の中に入っていくのを見た。昨日のマラソン・イベントは終了していて、今日の湖畔は、人も少なく静かだ。

パンやサラダのボリュームある朝食の後、9時から11時まで、カヌーの時間。少しは上達したと思って、もう一度、中級者向けのカヌーに乗ってみるが、やはり前に進まない。ベテランのSさんが、二人乗りのカヌーの後ろに乗らないかと声を掛けてきた。昨日乗った二人乗りよりも大きいカヌーだ。最初は思うように進まなかったが、Sさんのアドバイスに従って漕ぎ続けるうちに、コツが分かり始め、Sさんとの呼吸が合ってきた。そのまま、他の参加者たちの後を追って、長い距離を夢中で漕ぎ続ける。参加者たちに追いつくと、その後ろに付いて、乗船地点に戻ったところで、終了の時間になった。

カヌーを陸に上げ、水洗いして泥を落とし、保管場所に運搬してから昼食。昼食後、後片付けをして帰りの支度をする。後片付けはまだ残っていたが、帰りの視障者の誘導のため、14時頃、先に帰る。新松田駅からOさんを最寄り駅まで誘導した。Oさんをはじめ、視覚障害の人たちは、カヌーとロッジでの食事を楽しんでいたようだ。私も、良い経験になった。今回のレクリエーションがなければ、カヌーをやる機会は無かったと思う。

 

 

615日(土) 熊野修験葛城二十八宿経塚巡行 第4回/大阪・河内長野市

「熊野修験葛城二十八宿経塚巡行」は、和歌山と大阪に連なる葛城の山々に、法華経二十八品になぞらえてつくられた行場を巡行する修行。今回参加する第4回は滝行を含み、2日間で第11から第15の経塚を回る。

 前日に集合場所の河内長野に入り、河内長野駅前の「おばな旅館」に宿泊する。岩波文庫の『法華経(中)』を買って、今回まわる経塚の部分を読むものの、意味内容はあまり理解できなかった。

9時前に「滝畑」行きのバス乗り場に集合する。3月の第1回の時と同じ参加者が多い。バスに乗り約30分、山あいにある「滝尻」で下車。バス停には、担当の花井さんをはじめ先達の方たちが車で来て待っていた。

整列して挨拶の後、1列になって歩き始める。先達と参加者を含めて約15名。皆、行者姿か、菅笠を被り、遍路服を着ている。私は今回も白系のTシャツとスボン、地下足袋で代用する。車道から登山道に入って間もなく、道から外れた場所にある「権現の滝」で最初の勤行。10m位の高さと、水深1m余りの滝壺のある立派な滝。滝のそばに作られた祠の前で、法螺貝や錫杖の音とともに、般若心経や真言を唱える。

登山道に戻り、清流をさかのぼるように登っていく。今回まわる地域は、滝が多いところらしい。「布引の滝」が現れる。その名の通り、岩の斜面を白く細長い布のような滝が流れている。滝の横の急斜面を巻くようにして登っていく。登山道沿いは、草花の種類が豊富で、山野草に詳しいおばさんが、ホタルブクロやヤマアジサイなど、名前を教えてくれる。最初の経塚は、第15経塚。通常の勤行に加え、該当する「従涌出品」の一節を唱える。

13時頃、重要文化財の宝塔のある岩涌寺で勤行の後、昼食。昼食を食べ終えた頃から雨がポツポツ降ってくる。歩いているうちに次第に本降りになった。足がつったり、体調の良くなかった人がリタイヤして、並走している車に乗っていくことになった。

今日まわるコースは、まだ先が長いが、ポンチョを着て歩いていても、頭からつま先までズブ濡れになった。眼鏡も雨粒やくもりのため、よく見えない。肌寒く、不快、不便な状態で、先達を頼りに長時間黙々と歩き続け、早く宿に着くことばかり考える。今回の山歩きが、登山や観光ではなく、修行であることを再認識する。夕方になるにつれて視界も効かなくなってきた。杉林の中や、日陰の道ではいっそう暗くなる。迷路のような道を引き返したりしているうちに、道に迷っているのではないか、山中で動けなくなって、夜を明かすことになるのではと不安になり、懐中電灯を持ってこなかったことを悔やむ。先達たちは、それでも余裕があるように見えたので、いくらか安心感はあった。

19時頃、やっと蔵王峠に出て、車で先回りしていた花井さんたちが出迎えてくれた時にはホッとした。夕闇の迫る蔵王権現で、今日の最後の勤行。蔵王権現は、京都の伏見稲荷のように、赤い鳥居がいくつも立ち並んでいる。山の中にポツンと立派な神社がある感じだった。

二つの車に分乗して、今日の宿に向かう。途中、コンビニに寄り、明日の朝食と昼食の買い出しをしてから、かつらぎ町の旅館「一栄」に到着。濡れた服を着替えて夕食。その後、慌ただしく汗と泥で汚れた服を洗ったり、風呂に入ったりした後、食堂に集まり、花井悟明先生が、明日の滝行の作法の勉強会を行う。供え物から始まり、滝の前で唱える言葉や、手で作る印の結び方、切り方まで教わるが、複雑で覚えられそうになかった。また、花井先生は、作法の重要性、作法は行者によって様々であること、滝行を一人で行うのは危険であることも強調した。

勉強会の後、風呂に入って、歯を磨き、23時過ぎに就寝。メモを書いたり、配布された資料を読んでいる時間もなかった。

 

 

616日(日) 大阪・かつらぎ町

4時に起床して、洗面・朝食・着替えをすませ、5時に車に分乗して出発。今日の参加者は約10名。始めに滝行を行う「文蔵の滝」に向かう。文蔵の滝は、切り立った渓谷の奥にある、20m位の高さの見事な滝。前日の雨の影響もなく、予定通りに行うことになった。

1枚になり、先達に「エイッ」気合いをかけてもらい、順番に滝壺に入る。滝の音で声が聞き取りにくいが、先達に合わせて勤行する。滝の霊気と肌寒さ、水の冷たさで震える。腰が引けてしまい、滝壺に深く入らずに、滝にも当たらずに引き上げてしまったので、後になって後悔した。

再び車で移動して、堀越観音で勤行。「観世音菩薩普門品第二十五偈」を唱える。勤行の後、住職からお茶と、境内の大銀杏の葉のエキスが入っているというアメをいただく。

巡行を開始し、第十三経塚〜燈明岳(827m)〜第十二経塚〜七越峠〜第十一経塚のある経塚山(825m)と、順調に予定の経塚を回った。経塚山から先は、まだ少し終点まで距離を残しているものの、歩きやすい尾根道で、勤行する地点も少なく、距離をかせいでいく。他の登山者にはあまり会わない。マウンテンバイクで走る人がいる。天候は、昨日とはうって変わって快晴で、暑くも寒くもない。時おりヒキガエルが現れたり、珍しい草花が目を楽しませる。ヤマユリも咲いている。イチゴに似た赤や黄色の小さな実を食べてみたりした。

七大龍王社〜三国山(885m)〜桧原峠〜三十丁目地蔵〜十五丁目地蔵〜槇尾山(600m)と進み、この日のハイライトになったのは蔵岩だった。槇尾山山頂に荷物を置いて、急な坂を15分くらい下っていくと、視界が開けて、岩肌が露出した断崖絶壁の上に出た。左に関西空港などの大阪湾、右に金剛山などの山塊が見える絶景だ。行者はよくこの岩の上に座って瞑想を行うらしい。岩の上で、大阪湾に向かって勤行をする。読経の声は、青空に吸い込まれていった。

蔵岩はロッククライミングも盛んらしく、フックの金具が岩にいくつも打込まれている。木の一つに、赤黄緑など色とりどりの小さな旗がアーチのように掛かっている。旗には外国の小さな文字がびっしりと書かれている。参加者の人の話では、チベットの山によく奉納されている旗らしい。

蔵岩から槇尾山に戻り、急な坂を下りて高度を下げていく。建物の屋根が見えてきて、17時頃に施福寺に下山。施福寺は、古く大きな木造のお寺だった。境内のベンチに座っていた親子が、山伏の一行を珍しそうに見ている。お堂で最後の勤行を行う。最後のためか、皆の声が大きく感じられる。お寺には、修行仲間の男性が待っていて、槇尾山にいた時から法螺貝を吹きあって連絡をとっていた。この方から冷たいお茶とスイカの差入れをご馳走になった。

長い参道の石段を下って山門を出たところで、2列で向かい合って終了の挨拶をして解散した。参加者は、車に分乗して最寄り駅へと別れて行く。私は東岸和田駅まで送っていただいたあと、大阪駅に向かった。

新宿行きの夜行バスの出発時間まで、駅の地下街の「サンマルク」で、配布された資料を読む。法華経の第十一から十五の解説の他、「熊野修験葛城」の一人、西尾健さんの書いた論文があった。タイトルは「地質年代・言語史から見た日本の姿及び日本の基層文化より見た日本人の生き方」。論文最後のいくつかの提言が印象に残った。

「せっかく生きているのですから、自己能力の全てを全うする生き方にシフトしてはどうでしょうか!」

「難しい理論は抜きにして、たまには山を歩こう!」

「我々は定住化を始めてまだ1万年程度しか生きていない。我々のDNAに記録された膨大な遊動民時代の生き方を、歩くことで思い出そう!」

「風を感じ、雨を感じ、暑さを感じ、飢えを感じよう!」

 

 

金華山黄金山神社 http://kinkasan.jp/

machinet まちねっと http://www.machinet.jp/ 

六つ星山の会 http://www.mutsuboshi.net/

 

 

 

浜田 浩之/はまだ ひろゆき

東京自由大学ユースメンバー。京都造形芸術大学通信教育部情報デザインコース卒業。フリーのグラフィック・デザイナーとして活動の傍ら、視覚障害者支援などのボランティア活動を行う。