歴史に学ぶ

松本 裕和

 

 

 

小学・中学・高校と僕は地元の公立学校に通った。

小学・中学時代は授業を受けるのが楽しく、成績も良いほうだった。

時々、先生も生徒も冗談を言って授業中でも笑いがあった。

 

しかし高校に入り、大学受験用の詰込教育になると、先生も授業中に冗談を言う人はなく、こちらから何か冗談を言える雰囲気もなく、ただひたすら先生の言うことを聞き、黒板をとり、指されたら答えるという受身型の授業になってしまった。そのとたん、授業がまったく面白くなくなり、勉強する気もなくなってしまった。成績はグングン下がり、学期ごとに追試を受け、毎回ギリギリで進級していた。

 

そんな僕も高校3年になると、人並みに大学に進学したいと考えるようになった。当時、いろんなことに憤りを感じ、具体的な将来の目標もない僕は人文学部という名前に惹かれた。そこで学んだら、自分がこれからどうやって生きていけばよいのか?何かわかるのではないかと。

しかし僕の成績では合格できるはずもなく、2つの大学を受験したが両方とも不合格だった。

結局どこか合格できそうな大学はないか探して、日本史だけの1教科受験のできる某仏教大学の仏教学科を受験して現役合格することができた。

受験勉強も、ただひたすら日本史の教科書・参考書を読んで覚えるだけの一夜漬けのようなものだった。

 

そうしてなんとか入学できた大学だったが、結局学習に対して受身型だった僕は、その大学でも自分が積極的に学びたくなるような授業には出会わず、大学に行く意味がわからなくなり途中で退学してしまった。

結局僕の大学進学の動機は、周りが皆大学に進学するからといったようなもので、自ら大学で学ぶことには何の目標も持っていなかったのだと思う。

結局大学でも進学の為にはある一定の数の単位を取らなければならず、自分のあまり興味のない授業も選択しなければならなかったりして、その授業が将来何の役に立つのかもわからないのに、ただ強制的にやらされてるように感じたのかも知れない。

自発的にやる学習は楽しいが、強制的にやらされる学習は苦痛なだけだ。

 

そんなこんなで学生時代を終え、社会人になり労働者として働き、学ぶことから遠ざかっていた僕が再び学ぶ楽しさを知ったのは、25歳で乗船したピースボートという地球一周する船旅の船上だった。

100日間で世界各地を何カ国か寄港しながら地球一周するのだが、行程の3分の2は船の中だったと思う。

その船の中では、ほぼ毎日水先案内人という人権・環境・平和活動家の方が各寄港地ごとに入れ替わりで乗り込んできて、自身の活動や訪れる寄港地で問題になっていることなどを講演する時間があった。

僕はその水先案内人の話が面白く、『知るを楽しむ』自分の知らないことを知ることが刺激的でほぼ毎回、その講演に参加していた。

そこで自分から自発的に学ぶ楽しさを知り、それから日本に帰ってきても自分の興味のあることに関しては、講演会に行ったり、本を読んだり、ワークショップに参加したりと積極的に学ぶようになった。当然だと思うが自分の興味のあることを学ぶことは楽しい!

 

しかし、強制的に学ばされていた義務教育や、嫌々勉強していた高校教育も、今になって思えばもっと勉強しておけば良かったと思うし、実際の生活でも学んだことが役立っていると感じることが多い。

もっと英語を勉強していたら、海外旅行に行ってこんなに英語に苦労しないのに。

農業では理科や化学の知識、物作りでは寸法を測ったりする時に数学の知識が役に立つ。

学生時代に勉強のやり方でなく、何の為にそれを勉強するのか?

勉強する意味を先生から教えてもらえていたらと思う。

 

農業でも、農産加工で漬物を作るときに塩分濃度を調整するのだが、中学の数学問題のような、10%の食塩水1ℓと25%の食塩水2ℓを足すと何%の食塩水ができるか?のような計算をすることがあった。

中学の数学などすでに遠い記憶で、頭を悩ませながら計算することがあった。

数学の文章問題も、理科の実験のように実際の物を見ながらや、作りながらやったら面白いと思う。

文章だけで計算式をつくることで想像力が鍛えられるのかも知れないが、実感がないとなかなか頭に入っていかないものだと思う。

 

それぞれの教科について、何の為に学ぶのか?その意味をしっかり把握できたら学習効率も向上するのではないかと思う。

それでは歴史は学校で何の為に学ぶのか?

学校教育法には「義務教育として行われる普通教育」について次のように定められてる。

21条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成18年法律第120号)第5条第2項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 

  1. 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
  2. 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
  3. 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
  4. 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
  5. 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
  6. 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
  7. 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
  8. 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
  9. 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
  10. 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

 

 

僕は単純に、歴史を学ぶのは同じ失敗を繰り返さない為だと思う。

もう二度と悲惨な戦争を起こさないように、何で戦争に至ってしまったのかその経緯を歴史から学習する。

しかし、第一次世界大戦の後に再び第二次世界大戦が起こっているわけだし、1956年に熊本で水俣病の発生が確認されたにもかかわらず、その9年後の1965年に新潟県の阿賀野川流域で第二水俣病という、熊本の水俣病と同じ症状、原因も同じメチル水銀という公害病が発生している。

どうやらエライ人たちは同じ失敗をする傾向があるらしい、歴史は繰り返される!

 

3.11の約1年後に訪れた水俣市にある水俣病資料館では、なぜか福島原発事故のことについての展示があった。両方とも政府の大企業優遇に原因があり、ほぼ国策企業の出す有害廃棄物により周辺住民が被害を受けるが、それに関して政府も企業もちゃんと責任を取らない、原因・病状は違えどその根幹は水俣病と同じだということであったと思う。

 

いま自民党政権の日本政府は福島原発事故の処理も済んでないのに、再び日本各地の原発再稼動への政策をとっている。

歴史は繰り返される!なぜ歴史に学ばないのか?

水俣病と同じように、原発を再稼動したら何年後かにまた大地震が起こり、第二福島原発事故が起きるのではないか?

現に歴史は物語っている。

過去に興った文明は必ず滅んでいる。

何千年も続いているのは、自然を恐れ、自然に寄り添い暮らしてきた先住民と言われている人たちの暮らしだけではないのだろうか?

 

先日行った地元焼津市の民俗資料館の展示にこんな説明文があった。

 

 

奈良・平安時代の生活(約1300800年前)

奈良時代は律令制をもとに天皇を中心とした中央集権政治が行われていました。

人々は一人ひとり戸籍に登録され、重い税が課せられました。

都には天皇や貴族が住み政治・文化の中心として栄えましたが、人々は、都から派遣された役人や地方の役人に統治され、重税によって苦しい生活をしていました。

奈良時代の終わり頃から貴族・寺社・豪族の私有地である荘園が成立します。

京都で栄華を競った貴族の優雅な暮らしは人々の苦しい生活の上に成り立っていました。

 

 

平安時代も平成時代も大差ないのではないか?

 

 

以前にアメリカン・インディアン・ムーブメントのリーダ、デニス・バンクス氏の講演を聞いた時に、デニス・バンクス氏はアメリカンドリームを追いかけないでほしいと話された。アメリカンドリームとは貴族の優雅な暮らしであり、多くの人々の苦しい生活の上に成り立っているのですと。多くの不幸な人々の上に成り立つ幸せというのは、本当の幸せなのでしょうか?僕は一人の不幸な人も出さないで成り立つ幸せを見つけたいと思う。その為の学びは一生続けていきたい、自発的&自由な学びを、楽しみながら!

 

 

 

松本 裕和/まつもと ひろかず

静岡県焼津市出身。三重県在住。現職、愛農学園農業高等学校農場助手。 地元焼津の普通高校卒業後、大阪の仏教系の大学に入学。が勉学に挫折し2年で中退。半年間の闇期(ひきこもり)を経てフリーターから水産加工工場の化学調味料製造部門で2年半勤務。退職後ピースボートの地球1周の船旅へ。その旅で水と平和はタダでないことを実感、日本の平和の現場に興味を持ち航空自衛隊に任期制隊員で入隊。一任期の3年を勤め退職、地元焼津に戻り家業の建築設備工事の保温工事の仕事へ。しかし、その仕事も諸事情により3年でドロップアウト。2回目のピースボート地球一周の船旅へ。その旅で農業と教育の大切さを実感。農的暮らしを目指し模索していたところ、農業と教育の両方を働きながら学べる現場、日本で唯一の私立の農業高校であり、有機農業を教えている愛農学園農業高等学校の農場助手の仕事に巡り合う。現在愛農での3年目の勤めに突入!が目標の自給自足生活に向け思いをはせる今日この頃です。