「歩けども 歩けども」 Vol.4

浜田 浩之

 

 

昨年2013年8月から、ボランティアをしていた視覚障害者の施設で働きはじめた。施設は自宅から近く、歩いて通勤する。自宅ではデザインの仕事を続けている。8月は富士山に登り、9月は忙しくなる前に、やりたいことをやっておこうと、熊野修験葛城の修行と、実家のある奄美の豊年祭に参加した。10月は勤務の合間に岩手県花巻市の大迫(おおはさま)に通い、早池峰神楽を取材した。

 

 

2013年8月25・26日 六つ星山の会山行 富士山

視覚障害者と一緒に山に登る、「六つ星山の会」の富士登山。山行直前まで風邪をひいていたが、なんとか体調を整えた。集合場所の新松田駅からバスで「須走口五合目」に向かう。参加者は約30名で、三分の一が視覚障害者である。11時頃、須走口五合目(2000m)に到着。高度順応のため、約1時間昼食休憩して、12時頃から登り始める。

一人の視覚障害者を二人の晴眼者がサポートする。晴眼者が視覚障害者の前後につき、視覚障害者は、前の人のリュックに付けられたサポートひもを持って歩く。前の人は道の状況や障害物などを言葉で説明し、後の人は視覚障害者が転倒したりしないように見守る。サポートした視覚障害者の男性Iさんは、登山のベテランで、障害をほとんど感じさせずに歩く。須走口は、富士吉田口と比べると混雑が少ないルート。小雨の日曜日ということもあって、登山者は少ない。周囲の鬱蒼とした樹海を見ながら緩い坂路を登っていく。

六合目(2400m)、本六合目(2700m)と休憩しながら登っていく。富士山は物価も高い。山小屋では、インスタントコーヒーが1杯300円、ミネラルウォーターが(500ml)400円もする。樹林帯を抜けると植物は少なくなっていく。斜面も急になり、ゴツゴツした岩場に変わった。雨は次第に本降りになった。16時頃、宿泊する七合目の山小屋・大陽館(3090m)に到着。宿泊は、高地順応も兼ねている。ハンバーグと豚汁の夕食の後は、一畳ぐらいのスペースの寝床に入る。混雑時は同じスペースに3人位で寝るらしい。明日の出発準備を済ませて早々に就寝するが、他の人の寝言などであまり眠れなかった。

 

二日目は、3時過ぎに山小屋を出発。4時頃、本七合目(3200m)でご来光を待っていたが、あまりの寒さで、もう一つ先まで登ることになった。5時前から、八合目(3350m)付近で、再びご来光を待つ。天候は回復して山中湖がはっきり見える。雲海の向こうの地平線が、オレンジ色に染まる。寒さに耐えて待つことしばらく、5時10分頃、雲海から太陽が現れて歓声が上がった。Iさんに写真を頼まれ、彼のパッド型端末でご来光を撮影する。後ろを振り返ると、赤茶色の山肌が、燃えるような赤に染まっていた。

本八合目(3400m)~八合五勺と、なかなか九合目に到達しないが山頂は近い。植物は殆ど見えなくなり、月面のような荒涼とした光景になった。下山していく人の列を見ながら登っていく。太陽が出て暖かくなっているが、まだ相当に寒い。6時45分頃に九合目を通過する。

7時30分にようやく富士山山頂に立つ。奥宮の久須志神社をバックに記念撮影をした後、私はグループを離れて久須志神社に参拝した。山頂は、大混雑ではないが人は多い。体を動かさずにいると寒く、風邪がぶりかえしたのか、高山病か、頭がズキズキと痛くなってきた。インスタントコーヒーを飲んだり、トイレを探したりして20分位して戻ると、もう下山の準備をして私を待っている。お鉢めぐりもしたかったが、今度富士山に登るのは何年後だろうか。

山頂の岩壁にできた氷柱などを見ながら下山道の「ブルドーザー道」に入る。直線のジグザグ道が延々と続く。登ってくる人達と挨拶をしながらすれ違う。富士講の人、軽装で走りながら登る人、犬を連れている人、外国人、親子連れでベソをかきながら登っている女の子、自分達も含め、様々な人が富士山の山頂を目指す。

8時40分頃、本八合目(3400m)を通過。富士山ホテル付近の道端に、遭難者の供養と思われる千羽鶴の入ったガラス瓶が置かれている。本八合目から八合目間で、山小屋の物資を運搬するブルドーザーが登ってきたため、通過まで道をあける。七合目(3090m)を過ぎた地点で短い休憩。休憩後はペースを上げて、他の下山者を次々と追い越して行く。道は火山岩の砂利で、急な下りでは足が沈みこむ。普段は砂埃が舞い上がって、マスクが必要になるほどらしいが、この日は、前日の雨で、その必要はなかった。私は頭痛と疲労がピークに達していて、前を行く人との距離が広がる。団体行動なので休みたくても休めない。

序々に植物が増え、樹木が見られるようになってきた。11時頃、砂払い五合目(2300m)に到着して、売店前で休憩。ゴールの須走口五合目は近い。帰りのバスの出発時刻が迫っているため、さらにペースを上げることになった。視覚障害者とは思えないペースで、前のグループは先に行ってしまった。すれ違う若い女性グループが、視覚障害者が登山をしていることを知ると「うそっ!」と驚きの声を上げる。樹海の中の道をしばらく歩いて、登りの時の道に合流し、11時40分頃、須走口五合目(2000m)に到着。結局、バスの出発時刻より20分早く着き、お土産を買う余裕もあった。

五合目須走口に集まる土産物店には、食品や衣類、アクセサリーなど様々な富士山グッズが売られている。その中で、金剛杖につけるミニ国旗の日章旗には違和感を覚えた。数は少ないが日章旗を付けて登っている人も見た。日本一の富士山だから、何となく勇ましいイメージだから、という軽いノリなのかもしれないが、富士山を訪れる多くの外国人、とりわけアジアの人たちにとっては、昔も今も侵略の象徴でしかない。

帰りのバスで1時間、13時に御殿場駅に到着して解散。電車に乗った頃には、頭痛は解消していた。富士登山は、やはり楽ではなかったが、視覚障害者との山行は、苦しさは半分に、面白さや喜びは倍になったのかなと思う。

 

 

9月21・22日 熊野修験葛城 第6回 金剛山、大和葛城山方面

和歌山・大阪・奈良の県境にある葛城の山々を歩く、熊野修験葛城に三度目の参加をする。今回歩く二上山は、一度歩いたことがある。東京自由大学の鎌田先生の本と、五木寛之の『風の王国』に触発されて、2010年の年末に大阪--奈良--和歌山・新宮を旅行した。山の辺の道や熊野古道を歩き、天皇陵や神社、史跡を見て回った。その中で、当麻寺から二上山--葛城山にかけて歩いた。金剛山まで行きたかったが、寒さと疲労で断念していて、今回の修行で通る金剛山には興味があった。

大阪・天王寺駅のカプセルホテルで前泊し、南海線で集合場所の河内長野駅へ。8時過ぎに熊野修験葛城の一行に合流する。ほとんどが顔なじみだが、今回は初参加の男子中学生もいる。バスで金剛山登山口に向かう。バスを降りたところで、2列になり向かい合って始まりの挨拶。先達が法螺貝を吹き鳴らしながら歩き始める。山に入る前に、役行者像の祠がある個人宅に寄る。周囲は、黒い瓦屋根の古い民家が集まり、ゆっくりした時間の流れを感じさせる。民家の一つの庭に木彫りの役行者像を祀った祠があった。勤行の後、一行は熱心に像に見入っていて、家のおばあさんからは像の由来などのお話を伺う。金剛山や役行者を篤く信仰していることが感じられた。

 山に入って間もなく、妙見の滝に着く。落差15mの水量の多い見事な滝だ。滝のそばの祠で勤行し、近くの水場で喉を潤す。妙見の滝から、妙見谷の沢沿いを登っていく。足場は悪く、道も分かりにくい。先達が先に道を探しに行ったり、迂回したり、ロープを渡したりしながら慎重に歩いていく。「六根清浄」「懺悔懺悔」と声を上げながら、キツい沢を登る。ようやく尾根に出ると、間もなく登山道に合流して金剛山山頂(1125m)に着いた。

金剛山は、古くから信仰の山で、山頂付近には葛木神社や転法輪寺などの史跡が多い。ロープウェイもある観光地で、東京の高尾山と似ている。金剛山に登拝する会があって、大きなボードに1000回以上登拝した人の名前が掲示されている。なかには1万回以上登拝している人もいる。昼食を食べてから、一列になって葛木神社の境内に入り、参拝と勤行をした。

金剛山をあとにして、第21経塚(如来神力品第二十一)で勤行。左手に葛城山を眺めながら、第22経塚を目指す。途中、お寺の跡地を通った時、墓石らしい石碑がいくつも倒れていた。皆で倒れている石碑を起こす。男子中学生のO君は腕力があって重い石でも持ち上げる。先達たちは「ええ供養したわ」と喜んでいた。杉林の中にある第22経塚(属累品第二十二)で勤行後、車道に出て市街地に下りる。このあとの一言主(ひとことぬし)神社は、時間の都合で寄ることができなかった。宿に行く前に、近くに珍しい六地蔵があるというので見に行く。田んぼや畑のある、のどかな住宅地に六つのお地蔵さんが彫られた丸い巨石が鎮座していた。宿は葛城山麓にある「ツバキ葛城荘」。夕食の後、大きな温泉施設「かもきみの湯」に行き汗を流した。

 

二日目は、4時頃に起床して出発準備、朝食。出発前には、いつも宿の主人のために玄関で勤行をする。夜明け前に車に分乗して出発。第23経塚(薬王菩薩本事品第二十三)から二上山に向かう。天気は快晴で、車から二上山の雄岳と、その向こうの雌岳がはっきり見える。二上山登山口にある葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎのしどりにいますあめのはづちのみことじんじゃ)に参拝後、登山道を登り始め、約1時間で雄岳山頂(517m)に到着して、第26経塚(陀羅尼品第二十六)で勤行した。

二上山はラクダのコブのように雄岳と雌岳の二つの山頂からなっている。その間の馬の背と呼ばれる尾根を歩いて雌岳で休憩した。先達の一人が近くにいたおばあさんと話している。そのおばあさんは、孫娘と一緒に来ていて、二上山には昔から登っているという。別れる時に、皆でおばあさんの健康と長寿を祈って勤行をした。

雌岳から岩屋を経て竹内峠行者堂で勤行。アップダウンの繰り返しで疲れているが、先達の話では、まだまだ先は長いとのこと。男子中学生のO君は体力十分で、疲れも見せずに歩いている。大阪と奈良の県境の道をしばらく歩き、昼頃、不動明王の石仏のある平石峠第24経塚(妙音菩薩品第二十四)で勤行。勤行の後、弁当を食べていると、大きい荷物を背負った一人の青年が来て休憩した。彼はダイトレ(ダイヤモンド・トレール:金剛葛城山系の稜線を縦走する全長約45kmの自然歩道)を歩いていて、昨日はテント泊をしたということだった。

平石峠から岩橋山山頂(658.8m)へ。岩橋山付近には、巨岩や奇岩が多い。「久米の岩橋」は、巨岩に橋のような模様が彫られている。先達の話では、役行者が、この地の神、一言主に命じてつくらせたが、完成できなかったという伝説があるらしい。「久米の岩橋」から「胎内くぐり」に向かう。胎内くぐりは、巨岩が重なっている隙間をくぐり抜けて、生まれ変わるように心機一転を願うもの。胎内くぐりを始める前に、先達が、滝行の時のように安全を祈願して、岩に向かって気合いのこもった印を結ぶ。静かな山中に「エイッ、エイッ」という気合いの声が響いた。その後、先達の案内や助けを借りながら岩によじ上ったり、岩の間を通り抜けたりする。悪戦苦闘しながらも全員が胎内くぐりを終えた。先達は、さらに男子中学生のO君に「のぞき」をさせた。先達たちがO君の両足を押さえて巨岩のてっぺんの端に頭を出させ、「親の言うことを聞くかーっ!」「ちゃんと勉強するかーっ!」と誓わせる。「胎内くぐり」と「のぞき」、どちらも何となく可笑しく、愉快な時間だった。

今回の修行最後の第25経塚のある高貴寺を目指し、山を下りていく。途中、柿の木をよく見かけるが、この辺りは富有柿や柿の葉ずしが特産らしい。高貴寺は、山の麓にある、時の止まったような古刹だった。広い境内には経塚や古い石碑が点在している。第25経塚(観世音菩薩普門品第二十五)で勤行のあと、お寺を管理しているお坊さんからお茶をだしていただく。お寺に似合わず、若くテンションの高いお坊さんで、即席の句会が始まった。私たちに紙と鉛筆を配り、俳句を書かせた後、順番に読み上げていく。出発の時は門まで見送り、深く頭を下げ続けていた。

高貴寺を後にして巨石の点在する道を歩き、磐船神社で参拝と勤行をする。最後のポイント、科長神社に向かう途中、平石付近で、昨年通った道が通れなくなっていた。畑と民家の間を行ったり来たりして道を探す。農家のおじさんに道を尋ねたりしながら夕焼けの中を歩く。見晴らしの良い場所で、PL教団のタワー(180m)や、高層ビル群など大阪の平野部が見渡せる。古墳のような小野妹子の墓の前を通る。小野妹子は、その名前と、聖徳太子の肖像画に一緒に描かれている、二人の女の子のようなお供のイメージが結びついて、ずっと女性と思い込んでいたが、男性であることを今ごろ知った。その時代は男性の名前も「子」が付いていたらしい。そういえば聖徳太子にも「子」が付いている。

日没で急に暗くなるなか、科長神社に到着。最後の勤行を行って、鳥居の前で二列になって向かい合い、先達の締めの挨拶の後、解散した。先達の西尾さんの車で、富田林西口駅まで送っていただいた。電車の中で、一緒に帰る人たちから大峯奥駈けの話を聞く。大峯奥駈けは、奈良・大峰山脈を縦走する吉野修験の修行で、熊野修験葛城が「山」と「里」をつなぐ修行とすると、吉野修験は山岳修験である。東京自由大学の2013年の講座「山伏と修験道」で、厳しい修行の様子をビデオで見たことがある。一般でも参加できるらしく、奥駈け経験のある先達と同行のおじさんに「あなたの歩き方ならいけるやろ」と言われた。

先達の花井先生と同行者数人で、天王寺駅近くにある、安くて美味しそうな定食屋に入り、乾杯して夕食を食べた。二日間を山中で過ごしていたため、皆よく飲みよく食べる。東京の小平から毎回参加している、元気なおばさんのKさんは、私が敬遠した新今宮の簡易宿泊所のホテルに前泊したと、こともなげに話していて、私は自分の小心さを恥じた。男子中学生のO君は、中学卒業後は働きながら勉強して、義肢制作の技術者になる目標を持っていた。皆と別れた帰路は、自分の歩き方を認めてもらえたことが嬉しかった。

 

 

9月28~30日 奄美大島・加計呂麻(かけろま)島 豊年祭

東京・横浜で生まれ育った奄美二世の私は、これまで奄美に何度も行っているものの、祭らしい祭を見たことはほとんど無い。9月に入ると奄美の各部落では豊年祭が行なわれる。実家のある加計呂麻島・瀬相(せそう)でも豊年祭があることを聞き、一度見ておこうと思い立った。

豊年祭前日の早朝、羽田から鹿児島経由で奄美に向かう。天気は快晴で、鹿児島空港を出発したプロペラ機からは、噴煙を上げる桜島、きれいな円錐形の開聞岳、屋久島が見える。奄美大島北部にある空港からバスを乗り継いで南部の古仁屋(こにや)に向かう。ここ数年のマツクイムシと豪雨の被害は深刻で、バスからは茶色に変色して立ち枯れている松の木、土砂崩れで崩落している斜面が目につく。約2時間で、南部の古仁屋に到着。古仁屋からさらにフェリーで目と鼻の先にある加計呂麻島に渡り、15時頃に瀬相に着いた。

 

豊年祭当日、昼前から準備が始まった。大木と土俵のある広場で若手男性は会場の設営をして、女性や子どもは集会所で食べ物や余興の出し物の準備をしている。広場に砂を敷いて、テントを張ってイスや机を並べる。土俵の中央に砂を盛って軍配うちわを立てる。マイクやスピーカーをセットして、最後に日の丸を掲揚して準備が整った。男性たちは、ビールで乾杯して祭の開始を待っている。豊年祭は、一年で最も盛大な行事で、島内の他の部落の人たちも観客や余興の発表のために集まる。敬老席にお年寄り、招待席には関係者や祭のために帰省した出身者たちが座る。

14時から祭が始まる。区長や来賓の挨拶の後、色鮮やかな衣装の小学校の先生、有志の女性、小学生、中高校生などのグループが、フラダンス、エイサー、日本舞踊、ヒップホップ風ダンスなどの余興を次々と披露していく。合間に島唄の演奏も入る。中盤には女性たちがお盆に載せた「力めし」というおにぎりを観客に配る場面や、新生児とまわしを締めた父親が一緒に土俵入りをする、お披露目の儀式があった。終盤は、観客も一緒に太鼓のリズムに合わせて輪になって踊り、最後にテンポの速い「六調」で盛り上がって、17時頃に終了した。観光客が見物に来るような民俗芸能は無かったが、部落の人たちによる部落のための素朴で楽しい祭だった。

後片付けの後、公民館で打ち上げが始まり、私も地元の男性たちに混じって飲む。女性たちは、集会所の方で祭の続きをしているらしい。打ち上げの最中も太鼓の音が聞こえていたが、何をしていたのかは分からない。男性たちもそのことはあえて話題にしないようだった。前週の十五夜も、女性だけの祭があったらしい。沖縄の祭祀と同じく、祭を支えているのは女性たちで、男には伺い知れない部分があることを実感した。

 

翌日の横浜に帰る朝、きれいな砂浜とガジュマルの巨木がある於斉(おさい)まで足を伸ばした。私は旅先で砂浜に出会うと裸足で歩いてみたくなる。透明で波の穏やかな砂浜で、貝を拾ったりしながら往復した。海水に浸かりながら歩くと、疲れがとれて水虫にも効くようだ。実家を出発して、フェリーで古仁屋に渡る。古仁屋からは、叔父のタクシーで、東シナ海側の海岸沿いの景勝地を見物しながら空港に向かった。

 

 

10月21・28日 早池峰神楽取材 岩手・花巻、大迫(おおはさま)

東北の地域情報誌『まちねっと』に「早池峰神楽」を紹介するページを掲載することになり、岩手県花巻市の大迫へ取材に行く。『まちねっと』は、2014年1・2月号で創刊40周年300号を迎えるという。華やかな早池峰神楽は、新年号、記念号に相応しいと思った。早池峰神楽は、早池峰山の麓の二つの部落、岳(たけ)と大償(おおつぐない)で伝承されている神楽の総称である。早池峰山を修行場として集まった山伏たちが創始したと伝わっている。早池峰山には一度登ったことがあり、早池峰神楽がユネスコ無形文化遺産になったことも知っていたが、実際どんな神楽なのかは、ほとんど理解していなかった。そんな時、東京・神田の岩波ホールで、ドキュメンタリー映画『早池峰の賦』が上映されていた。映像を観て、早池峰神楽の迫力と色鮮やかで奇抜な衣装、多彩な演目に圧倒された。そして神楽が生活の一部として息づいている岳と大償部落の日常生活に強く感動した。監督の羽田澄子監督が、映画の背景やエピソードを書いた同名の本を読んで、さらに早池峰神楽に惹かれた。映画が公開された1982年から30年以上経って、早池峰神楽はどうなっているのだろうか。

10月21日早朝、横浜から高速バスで花巻駅に到着。寒くも暑くもなく、晴れてきて周囲の山々が良く見える。花巻駅からJRで石鳥谷(いしどりや)駅へ。石鳥谷駅からバスで大迫へ向かう。バスの窓からは、収穫の終わった水田の風景が見える。アワらしい作物がまだ収穫されずに残っている。バスは稗貫川沿いを走り大迫に着く。大迫総合支所で早池峰神楽の情報を集める。観光担当の人にも話を聞く。支所には大償神楽の踊り手、Yさんも勤務しており、話を聞くことができた。現在の早池峰神楽と大償神楽について、まず後継者の問題がある。仕事が限られていて地元の人も、外部から受け入れた人も残ることが難しいこと。衣装は他の地域で作っているが、作り手も減少してきていること。震災で大償神社に被害がでたのを契機に建て直していて、11月17日に落成すること。岳神楽との関係について、昔からライバル意識が強く、同じ早池峰神楽でも表裏一体、別物で、岳神楽とは別々に活動していること。日本各地で公演していて、海外公演も多いことなどを話してくれた。Yさんは、11月23・24日に鎌倉の建長寺で行なわれる公演に行くという。その他、大迫の「パワースポット」として、「久出内(ひさでない)の白山杉」を教えてくれた。

大迫総合支所を出てから大償まで1時間位歩く。「神楽の里」の建物を過ぎると釈迢空(折口信夫)が早池峰神楽を観た感動を記した歌碑が建っている。

「山の神も夜半の神楽にこぞるらし

   舞い屋の外の闇のあやしさ  迢空」

歌碑の近くに大償神社の鳥居が建ち、石段を登った高台に、建設中の大償神社の真新しい社殿が建っていた。早池峰神楽の人たちは、意外に古いものに固執せず、古い神楽面なども大迫周辺にある弟子神楽に譲ってしまうという。新しい社殿にもそんな神楽衆の気質が表れているように感じた。

大償からバスで岳に向かう。岳は2年前に来たときと変わらない。観光客もなくひっそりとしている。民宿の一つ、日向坊に神楽の衣装が干してあった。誰もいない早池峰神社に参拝して、神楽を観る人でごったがえしている例大祭の日を想像した。帰りのバスの時間まで、河原の坊への道を歩いた。岳に戻って早池峰神社の脇を流れる沢の冷たい水に足を浸けてみた。

回送バスに乗って大迫に戻る。大迫バスターミナル近くの酒店で、土産に特産のワインとブドウジュースを買って奄美の実家に送った。お店は、老夫婦が営んでいて、盛岡から嫁に来たという奥さんから昔の大迫の話を聞いた。大迫は、釜石--遠野--盛岡を結ぶ宿場町として栄えていて、炭焼き、南部たばこも品質が良かった。着物の生地の取引で京都との交流もあった。旅館や料亭が多く、ここも昔は料亭。旦那衆は二号さんを持つのが当たり前。おじが成功者で、岳の神楽衆を連れて、東京の砂防会館で公演をしたり、神楽を知らない妻のために、早池峰神社の舞台を貸し切って神楽を見せたこともあったという。雛祭りの時は、豪華な雛飾りが出て、それは盛大だった。

今の大迫は、昔の活気はない。特に花巻市と合併してからは、いいことは何もない。ワインでなんとかもっているが、農家も高齢化して、ワイン用ブドウの生産も落ちている。『早池峰の賦』の羽田監督は今も大迫をよく訪れているらしい。ご主人も、白山杉の話をした。最後に奥さんは、また大迫に来てください、東北に関心を持ってくれてうれしい、と言った。

17時半頃、花巻駅に戻り、高速バスの出発まで、駅近くのイタリアン・カフェで、資料の整理やメモを書いて過ごした。この日は月曜で、早池峰神楽に関する施設は休館だったが、収穫は多かった。パンフレットなど神楽の資料をもらい、踊り手や地元の人の話を聞くことができた。

 

横浜に戻り記事の制作を始めたが、一度の取材だけでは何か心もとない。久出内の白山杉や七折の滝など早池峰山周辺の「パワースポット」も見ておきたかった。締切が迫っていたが、一週間後、もう一度大迫に行った。大迫の図書館には、早池峰神楽のコーナーがあり、新旧の文献や写真集、DVDが揃っている。三上敏視さんの『神楽と出会う本』などを参考にする。岩手をはじめ東北各地には様々な神楽があって、早池峰神楽は山伏神楽の系統であること、神楽の他にも剣舞、虎舞、鹿踊りなど様々な民俗芸能が、今も伝承されていることが分かってきた。

図書館を出て、白山杉と七折の滝を見るため岳方面に行きたいが、バスの本数が少ない。途中でバスを拾うことにして、やむをえず歩く。大償では野菜の無人販売をしていて、30cm以上ある薩摩芋と、瓢箪のような形の南瓜が100円で売られている。思わず買ってしまい、リュックはさらに重くなった。大償を過ぎた辺りで軽トラックが止まり、地元のおじさんが乗せてくれた。おじさんは、どこから来たのか、早池峰山に登るのかと聞く。早池峰山は紅葉が始まっていて見事だ。これからの季節は、早池峰山に登る人も無く、訪れる人も少ないとのこと。早池峰神楽や白山杉、七折の滝について尋ねると、神楽の舞納めと舞初めの日は、かなりの見物客が集まり、北海道から沖縄まで、何度も来る人もいるらしい。大迫の人は、早池峰神楽のことを皆、嬉しそうに話してくれる。おじさんは、早池峰ダム付近の白山杉の近くまで送ってくれて、七折の滝では熊に気をつけて、今年は3頭目撃されている、と言った。

白山杉は、車を下りて20分位歩いた山の斜面にあった。屋久杉のような巨木で、木の根元に小さな神社が建ち、清水が涌いている。神社に参拝して清水を飲んで、木の周りを歩いた。周囲に生えている杉もかなり大きい。白山杉と対になるかのように、すぐ近くに「山祇桂(やまずみかつら)」の巨木が立っている。こちらも木のそばに神社が建っている。一本の巨木というより、幹がいくつも集まっている。根元から地を這うような太い幹や大小の幹が生えていて、強い生命力を感じさせた。

もと来た道を戻り、岳に向かって坂道を歩く。1時間程かかって岳に到着。帰りのバス時刻を確かめると、七折の滝に行く時間はなく、大迫に引き返すことにした。バスの時間まで早池峰神社に行く。境内の外れに、昔の僧のお墓と思われる、五輪塔や石碑が立つ一画があった。石碑には「法印者~」などと刻まれている。大迫に戻り、大迫図書館で白山杉の情報を集める。図書館の人が白山杉の伝説などの文献を探してくれた。図書館を出る頃にはすっかり暗くなっていた。

石鳥谷駅行きのバスの時間まで、バスターミナル隣りにある商店のご主人から地元の話を聞いた。若いご主人は、地域の活動に熱心で、子どもを対象にした教室を開催したり、大迫のひなまつりの実行委員もつとめている。大迫のひなまつりは代表的な祭で、ご主人の家は300体の人形を出すという。地元の写真クラブが撮影した、七折の滝など大迫の名所の写真を見せてくれる。白山杉のことを話すと、杉の周りが荒れて歩きにくくなかったかと聞く。そういえば雑草が多かったと言うと、市町村合併で、白山杉が花巻市の管理になってから、手入れが行き届かなくなっていると、ここでも合併の不満を聞く。この辺の人は、皆同じ考えだという。ご主人は、もとは医療関係の仕事に就いていて、東京に住んでいたこともある。両親が亡くなって大迫に戻り、この店を継いだが、戻ってきた時は珍しがられた。大迫も限界集落の問題を抱えている。昔は南部たばこの栽培が盛んで儲かっていたが、今は生産している農家は1、2軒。たばこ需要の減少と、JT専売のため、南部たばこのオリジナル商品をつくることもできない。現在の大迫を支えているのはブドウだが、高齢化で生産者は6千人を切っている。すべての問題の根本は高齢化だと話していた。

19時頃、花巻駅に着き、駅前の定食屋で納豆定食と、花巻オリジナルという稗の焼酎を飲んだ。離れた席で地元の人達が、土地のことや、稲刈り作業のことなどを話している。店内の『岩手日報』を読むと、大償で買った瓢箪に似た南瓜の話題が載っている。「南部一郎」という岩手の希少品種で、甘みが強いらしい。23時発の高速バスで東京に帰った。

 

早池峰神楽の記事の制作を終えた後、11月23日に鎌倉・建長寺で早池峰大償神楽の公演が行なわれた。初めて生で観る神楽は、評判通り、期待通りの迫力で、満員の会場を沸かせていた。

 

 

・六つ星山の会 http://www.mutsuboshi.net/

・machinet まちねっと http://www.machinet.jp/ 

 

 

 

浜田 浩之/はまだ ひろゆき

東京自由大学ユースメンバー。京都造形芸術大学通信教育部情報デザインコース卒業。フリーのグラフィック・デザイナーとして活動の傍ら、視覚障害者支援などのボランティア活動を行う。