一点の緑

田 園

 

 

大学の2号館、4階と5階の間の踊り場だった。片隅に、一点の緑。近づいて見ると、イナゴだった。体が斜めって踏ん張っているような格好で、死に果てていた。
この建物の入り口は2階にある。植え込みから飛び込んできて、コンクリートの迷路に入ってしまったのだろう。一段、また一段、階段を跳び上がり、エンドレスな希望と絶望の繰り返しだった。最後の最後、今にも跳び上がろうとする姿勢で、この水も木もないコンクリートの魔窟の奥深く、一点の緑になってしまった。

これは夏の終わり頃だった。そして秋が来て、イナゴの死体は紅葉と時を同じく色が変わり、枯れていった。とても悲しかった。踊り場を通るたびに、掃除のおばさんに見落とされたイナゴを目にして虚しく感じた。小さな命が終り、消えてゆく。誰も気づかない、気づいたとしても、見過ごされる。

広大かつ巨大なコンクリートの森をつくった人間。そしてそこに依存して生きてゆく人間。自分が快適な生活を送るために、本当の森に棲んでいた小さな命に甚大な迷惑をかけてしまった。新しい森に最も適応して残存した野生動物は、カラスやネズミ、ゴキブリだ。そしてそれらは人間から「有害動物」と呼ばれ、毒餌、防除ネット、鳥よけ、殺虫剤、除菌剤などを駆使して、一生懸命に追い出され、殺される。いったいわれわれは、どこまで孤独を望んでいるのだろうか。意識の深い所では、望んでいないにも関わらず。

踊り場まで階段を這い上がったイナゴの苦しみを、我々は自分の感覚として感じることはできない。しかし、それはそれでよかったのではないだろうか。我々は他者を苦痛から救うことができないのだから、その苦痛を知らないほうが楽なのではないか。
 

仏教では、きちんと修行して、ある程度の悟りに達すると、「神通」という超能力が得られるそうだ。お釈迦さまの弟子に、神通に達した一人の「阿羅漢」がいた。彼は水を飲む時、神通により水の中に大量の生物が見えると言った。(仏教は不殺生のため、水を飲む前に必ず布で濾過しなければならないという戒律がある。それでも大量の微生物が残るそうだ。)そこで彼は、大量の命を殺すことになるので水を飲まなくなり、そのまま死んでしまった。お釈迦さまはその最期を見届けて、「水を飲む時天眼で見るな」という戒律を作ったという。水を飲まなければならない自分の命は、大量の他の命に支えられている。自分が生きるために、他の命を犠牲にしなければならない。それなのに、自分は死ぬわけにもいかない。なぜなら、自分が死んでも、その微生物たちを根本的に救うことはできないからだ。
だから自分は、生きていくしかない。自分の命が他の命に支えられてきたということを常に意識して、感謝し懺悔しながら生きていかなければならないのだ。その恩返しとして、自分は精進し、他の命を救えるような力を手に入れ、一つ一つの命を救っていこうと誓願したのだ。

イナゴが死んでいた。イナゴのような小さな命が、大量に死んでいく。それを根本的に解決することは、現時点ではできない。しかし、その一つ一つの命を決して軽視してはならない。彼らの犠牲あっての我々なのだから。衆生を救うための修行をしなくても、せめてお詫びの気持ちを持ちながら、生きていきたい。すくなくとも、階段の踊り場にゴキブリホイホイを置くようなことはせずに。

 

 

 

田 園/でん えん
北京出身。畑に囲まれた田舎の寄宿制中学校、北京師範大学第二付属高校、北京映画学院大学卒。そして来日。中央大学大学院で修士号を取り、博士課程に在籍中。研究分野は宗教社会学だが、その業績はほぼなし。漫画家デビュー歴あり。黒い歴史満載。猛禽保護センター、出稼ぎ労働者の子供のための学校などでボランティアをしていた。中国赤十字社で救命技能認定証をとったが、期限切れている。今は念仏+論語+民間療法+市民農園に情熱を燃やしている。