境界をめぐる冒険

Ⅷ 喜界島トリニティ① 隆起するプラトー

辻 信行

 

 

 

はじめて喜界島に降り立った日は、涙にぬれた青空に、ポツリポツリと千切れ雲が浮かんでいた。

 

この島は哀しい。

 

砂浜が白ければ白いほど、海が蒼ければ蒼いほど、ぼくはそう思った。そしてその暗くも憂鬱でもない哀しみの根源をつきとめるのはそう簡単なことではない、と何処からかささやく声が聴こえた。

 

ぼくの背負うリュックサックには、二冊の本が入っていた。福寛美『喜界島・鬼の海域』、安達征一郎『小さな島の小さな物語』。

 

一冊目は、民俗学者の福寛美による喜界島の文化論だ。古来この島が「鬼界島」「鬼海島」などのマイナス・イメージと、「貴海島」「喜界島」というプラスイメージの両方で表記されてきた両義的な世界であることを皮切りに、考古事象・物語世界のキカイジマ・境界の世界・キカイジマと琉球・鬼の世界、などについて概説し、二つの顔を持ったこの島に豊富な題材から迫っている。日本列島から地理的にも観念的にも「境界」とみなされてきた喜界島で、人々は一体何処に「境界」を見出すのか。そんな素朴な疑問を抱くきっかけとなった本だ。

 

二冊目は、作家の安達征一郎による喜界島を舞台にした短編小説集。安達は1926年、奄美大島出身の両親のもと東京に生まれたが、7歳で家族と喜界島に移住し、15歳までこの地で過ごした。その間の喜界島での思い出に基づく話が『小さな島の小さな物語』だ。日常を形作る非日常の物語10篇は、濃厚に島の空気をまといながら、ここではない何処かへと読み手を誘ってゆく。とくに海難事故で息絶え絶えに喜界島へ漂着した青年を、年頃の少女が人肌で温めて救う「喜界島のさくら」は、鮮やかな情景と多様な音楽の流れる秀作だ。

 

ここで喜界島の概要に触れておくことにしよう。

喜界島は、鹿児島市の南方沖約350kmに位置し、面積59.31㎢、周囲約45kmの低平な離島である。喜界島の西方約25kmには奄美大島があり、喜界島は奄美諸島の中でも北方に位置する。

喜界島の位置 [i]
喜界島の位置 [i]

人口は、201451日現在7,450人で、年々減少している。喜界島の気候は亜熱帯性だ。島内にはアダンやガジュマルが繁茂し、みかんやバナナは宅地内でも栽培されている。過去10年間の平均気温は22.4℃で、最暖月である7月の平均気温は29.0℃、最寒月の1月の平均気温は15.8℃である。月別平均気温では、25℃以上の月(610月)が5カ月もある。降水量も過去10年間の平均は162.9mmと多いが、年度による差が激しく、洪水よりも干ばつの心配が大きい。降水量は梅雨期(56月)に年間の28%、台風期(79月)が同25%で、年間降水量の半分以上がこの時期にもたらされる。降った雨は地下へと浸透し、地下ダムにたまり、組み上げられて水道水として使用されることになる。ぼくがはじめて訪れた7月下旬の喜界島には、ゴマの花が咲き乱れていた。そしてその白い小さな花の上を、フワリフワリと大らかに、オオゴマダラが舞っていた。

 

喜界島の標高最高地点は標高211mで、ここは「ポイント211」と名付けられて整地され、360°が見晴らせるようになっている。島の大半はプラトー(台地)であり、それを縁取るように海岸沿いの低地が存在する。37ある島の集落の大半は、この海岸沿いの低地に位置している。プラトーを形作る隆起珊瑚礁は、現在でも年間2mmずつ隆起し続けている。米コーネル大学のアーサー・ブルーム教授は喜界島の隆起について、次のように述べている。

 

喜界島は、パプアニューギニア同様急速に隆起している、世界でも注目すべき島だ。

12万年前から年間2mm隆起したとすると、200m程の高さになり、ちょうど百之台ぐらいの高さになる。百之台は、1213万年前のサンゴ珊段丘で、それ以上古いのはない。上嘉鉄などの集落地帯は、6千年前の地形だ。6千年前の海面は、いまは1213mになって隆起し続けている。世界中でも隆起の激しい島として知られ、世界中でも大事な島だ。

                   ―『南海日日新聞』1990318日付

 

奄美諸島の属す南西諸島には、波照間島や与那国島など、喜界島同様に隆起珊瑚からなる島もある。しかし、喜界島の隆起速度は他の島より急速で、この点に特徴がある。

 

 

「隆起」という言葉のもつ男性的なイメージには似合わない、のっぺりした女性的なプラトー。あるときガジュマルの林の中を歩いていて、ぼくの肩に黒い粒が落ちてきた。それを掌に乗せてみると、どうやら虫の糞のようだ。しかし次の瞬間、その糞はもぞもぞと動きはじめた。ぼくの血は騒いだ。まさかこの島で会えるとは思ってもみなかった。昆虫少年になるきっかけを与えてくれた図鑑の中で、ひときわ目を引いた、「ムシクソハムシ」。

ムシクソハムシ [ii]
ムシクソハムシ [ii]

ムシクソハムシ/学名:Chlamisus spilotus

<ハムシ科>

分布:本州~九州

環境:林の周辺

体調:3mm

出現期:4月~10

越冬期:成虫

 

<まるでチョウやガの幼虫の糞のように見える甲虫。よく見ないと、昆虫とは気が付かない。触れると足を縮めて葉から落ちてしまう>

                     ― 海野和男『ポケット図鑑 昆虫』

 

それは、隆起するプラトーからこぼれ落ちた土のしずくのようであり、この島そのものが流した涙のようでもあった。そして同時にそれは一個の生命体である。生きるためには糞にでも擬態する、意志を持たない種の進化によって生じた、生態智そのものなのであった。しかしそのムシクソハムシは、ぼくが感慨にひたっている間に指の股をすりぬけ、気付いたときにはもう何処かへ消え去っていた。

 

ぼくの喜界島でのフィールドワークはこうしてはじまった。

 

これから3回にわたり、境界をめぐるフィールドワークでつかんだ喜界島を形成するトリニティ(三位一体)に迫ってみることにしたい。このトリニティは、客観的なものでは決してない。あくまでぼくの主観によるものであり、夢よりも深く覚醒してみつめた喜界島での記録に基づくものである。

<つづく>

 

[1]地図出典:http://ameblo.jp/gong-net/entry-10336668809.html

[1]写真出典:http://couleur64.blog.fc2.com/blog-date-201305.html?tag=繧キ繧ッ繧ス繝上Β繧キ

 
 
 
辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。