境界をめぐる冒険

Ⅺ 生も死も待つ部屋

辻 信行

 

 

 

Part A

11:30

この部屋に来てから、もう1時間が経とうとしている。真っ白な壁紙と、曇った窓ガラス。部屋の中は3つの小部屋に仕切られ、小部屋の前には共有スペースがあり、テレビや本棚が置かれている。共有スペースの壁には1台の白い電話がかかっていて、時折呼び出し音がけたたましく鳴る。近くにいる人が、おそるおそる受話器を取る。すると若い女性が小さな声でささやく。

「佐藤さんはいらっしゃいますか?」

「佐藤さ~ん、呼ばれてますよ」

1人の男性がやってきて受話器をとる。

「もしもし、佐藤です。はい、分かりました。これから参ります」

彼は蒼白い顔のままコートとマフラーをつかみ取ると、連れの女性と部屋の外へ出てゆく。

 

数日前

ぼくが喜界島から戻って病院にかけつけると、父は集中治療室で大量の点滴と酸素マスクにつながれていた。病名は狭心症。すでに心筋梗塞がはじまっている。すぐ血管の中に細い管を通して行うカテーテル手術が試みられたが、無駄だった。心臓の冠状動脈のつまりが激しく、カテーテルでは間に合わない。開胸してバイパス手術をするしか道は残されていない。ぼくは修士論文「この世とあの世の境界をめぐる世界観」の執筆中。まさか執筆中に父が「この世とあの世の境界」を彷徨うことになるとは思ってもみなかった。

 

12:00

バイパス手術は人工心肺を使い、10時間かかるという。その間、ぼくと母はずっとこの「手術患者待合室」で過ごすことになる。真っ白な部屋に陽光がいっぱいに差し込む頃、1人の初老の男性が入ってきた。背中を丸めてゆっくりと椅子に腰かける。すると看護師の女性がやってきた。

「これ、奥さまが倒れた時に身に付けていた洋服です。救急隊の方が処置するのに邪魔なので、ハサミで切り裂いてしまったんですが、お返ししますね」

透明のゴミ袋に入った洋服一式をしげしげと見つめ、男性はため息をつく。間もなく、娘と思われる30歳前後の女性二人が到着した。

「お母さんは?」

「まだな、手術できないんだ」

「なんで?」

「本当はいますぐ脳出血を止めたいけど、脳圧が高すぎるから、しばらく待ってるんだ」

「そうなんだ…」

 

13:00

言葉少なに父と娘の3人は過ごしている。しかし、お父さんは苛立ち始めていた。タバコを吸いに部屋を出てゆく回数が増える。そうしてついに怒りをあらわにした。

「俺は帰るからな!母さんの体は強いんだ。いままで入院の一つもせずにやってきた。今度だって、1週間ぐらい寝てりゃ、治るだろ!」

「ダメだよお父さん!ここで待ってなきゃ」と次女が言う。

「お父さん、現実を受け止めなよ。お母さんはね、ずっと働きづめて、自分のやりたいことも、行きたい所も、着たいものも我慢して、ずっとお父さんを支えてきたんだよ。お母さんはね、一週間寝たって、退院できないよ。退院できたって、重い障がいが残るかもしれないってさっきお医者さんが言ってたじゃん。それに、生きて退院できるかだって分からないんだよ!」と長女が言う。

「知らん!」

そう言うと、お父さんは出て行ってしまった。まるで自分に腹を立てるように。

「信じらんない!」

と娘二人の溜め息がこだまする。

 

16:15

電話が鳴る。長女があわてて受話器を取る。

「はい、はい…。分かりました。いま父と一緒に向かいます」

長女は次女の耳元で何かを伝える。次女は聞きながら、涙をこぼして震える。ちょうどその時、お父さんが戻ってきた。長女が言う。

「さっきはゴメンね。いま電話があったよ。もうね、これ以上は手の施しようがないんだって。最期のお別れに来てくださいって…」

それを聞き終わらないうちに、お父さんは顔をゆがませると、しゃがみ込んで嗚咽した。なぐさめるように長女は抱き寄せ、3人で待合室の外へ出てゆく。

 

18:00

老若男女、さまざまな人々がこの部屋にやってくる。ある人は受話器をとってうなだれ、またある人は嬉々として退出してゆく。生も死も待つ部屋。ここは、この世とあの世の境界をさ迷う人々の行方を、ただひたすらに待つ部屋なのだ。

 

21:30

父の手術が終了予定時間を一時間半超過したところで、ぼくと母は別室に呼ばれた。

「手術は無事に終わりました。予定より長くかかってしまったのは、手術中の出血が激しかったからです。いま飛び散った血を拭いていますので、終わったらお父様をひとめ見て行かれたらどうです?もちろん意識はありませんが」

 父の身体は、すっぽりと水色のシートでおおわれ、不気味なほどに白々とした顔だけを出していた。本当に生きているのだろうか。顔から下にあるのは身体ではなく、シリコンの物体ではないのか。

 

22:00

ぼくと母が病院の外に出ると、年の瀬とは思えないほど、街はひっそりと静まりかえり、季節不相応の生暖かい風が頬を撫でた。ぼくの胸を一抹の不安がかすめる。こんな夜は、一刻も早く家へ帰ってベッドの中に潜り込んでしまいたい。そうでもしないと、何に巻き込まれるか分からない。

 

02:10

シャワーを浴びて横になり、うつらうつらしていていると、わが家の電話が音を立てた。「やはり」とぼくは思う。跳び起きて受話器を取る。

「もしもし、息子さんですか。担当医の者ですが、お父様の容態が急変しました。心臓からの出血が止まりません。私たちはこれからもう一度オペを試みます。さきほどと同じ、人工心肺を使った開胸手術です。ご家族の方も病院に来てください」

 

母と一緒に家を出る。人も車も通らない街を小走りにかけながら、ぼくの胸中はみるみると黒い影に覆われていった。少し大きな通りまで出て、なんとかタクシーを拾う。車窓から空を見上げると、白々とした満月が、誰もいなくなった街に、朦朧な光を届けていた。

 

ぼくの父はもうすぐ死ぬだろう。昨日、車いすに乗せられ手を振りながら手術室に入る父を見て、「きっと大丈夫」と思ったけれど、どうやらその勘は外れそうだ。タクシーの車内ラジオで、お笑い芸人がアハアハ笑うのを聞きながら、ぼくは若くして父をなくした友人たちのことを思い出していた。

 

K君は中学3年の12月のある朝、母親の悲鳴で飛び起きた。何事かと駆けつけると、母の懸命な呼びかけにも関わらず、父がぐったりとうなだれていた。救急車を呼んだが後のまつり。そのときK君の父はすでに心臓発作で息をひきとっていた。通夜と葬式を終えて学校にやってきたK君もまた、ぐったりとうなだれて日々を過ごした。「魂の抜け殻」とは、彼のために用意された言葉だと思った。しかしK君はその後一ヶ月、一念発起して受験勉強にいそしみ、第一志望の高校に合格した。

 

その一方、M君の父は長患いだった。だからM君が中学一年生で父の死を迎えても、心の準備はできているように見えた。いつも眼鏡をかけて神経質そうなM君は、通夜も葬式も、普段の彼からは想像もできないほど気丈に振る舞った。しかしそれから二年が経った中学の卒業式、たくさんの父母が見守るなか、M君は卒業証書をもらってから最後のホームルームを終え校門の外に出るまで、とめどなく涙をあふれさせた。

「大丈夫?」とぼくは訊いた。

「ちきしょう!」と彼は言った。

「俺のおやじは卑怯だ!卑怯なんだよ!」

そう叫ぶM君の心の傷の深さを、ぼくは思い知った。かける言葉も見つからない自分が情けなかった。

 

思春期の真っただ中に父親を失った彼らと比べ、ぼくは随分と恵まれていたと思う。しみじみと感慨に浸っている間に、タクシーは病院の深夜用入り口に到着した。

 

05:30

再びの「生も死も待つ部屋」である。もうほとんど「死を待つ部屋」と言っても良さそうだ。しかし、曇ったガラス窓に見える小川の河川敷が、だいだい色の朝日に照らされてくると、父の命もつながったのではないか、という気がしてきた。その時、プルルッ、プルルルルッ、と呼び出し音が鳴る。

「もしもし、手術は成功しました。安心して、治療説明室へ来てください」

 

Part B

それでもこの日から一週間、父は生と死の境界を彷徨い続け、更にもう一度再手術を受け、10日後に意識を取り戻した。それから父が語り出した臨死体験は興味深いものだった。目の前に次々とモノクロの仏像があらわれる。「色がついて欲しい」と父は思う。するとほのかに金色になってくる。しかしすぐにモノクロに戻る。もう一度色がつくように願う。すると再びほのかな金色になる。その繰り返しだ。次第に父は、「しっかりと色がついたら、自分は再び生きてゆくことができる」と思うようになる。そうしてついに、見たこともないほど煌びやかな金色の仏像が次々と現れ、その数たるや数百数千に及んだとき、父の目は開いた。それほど信心深くもない父が、なぜこのようなビジョンを見て意識を取り戻したのだろう。また他にも、この世界の万物が極彩色にして半透明の点からできていて、その点がグニョグニョと常に動き続けているというイメージも現れたという。これはなかなか言葉にして説明するのは難しく、もし映像化できたなら、確実に傑作アニメーションになるに違いないと父は力説した。

 

手術後に父が過ごした特別集中治療室は、可動式の仕切りがあるだけなので、隣近所のベッドで何が起きているかすぐに分かる。父が意識を取り戻してから、多い日は、一晩に4人が亡くなったという。心肺停止になると、医師がやってきて心臓マッサージと電気ショックが試みられる。医師一人と看護師一人が蘇生処置を行う。看護師の中には気が早い人もいて、10分ぐらい経ち心電図の波形に変化がないと、「先生、もういいですよ。もうあきらめて大丈夫ですよ」と言う。死亡が認定されると「ご遺族」が呼ばれ、看護師からお悔やみの言葉があり、すぐに葬儀社が紹介されるという。それが終わると、すぐさま遺体は霊安室に移動させられる。

 

その流れがあまりに早く、不快感をあらわにする「男たち」もいた。純白のスーツでやって来た彼らは「おい、お前ら、誰が死んだと思ってんだ!ちゃっちゃっと片付けんじゃねえ。葬儀屋だってこっちで用意すんだから、いちいち口出しすんな」

 

病院で亡くなったのは、まだ幸いとみなさなければならないかもしれない。12月31日の夜、父の入院する病院に救急車がやってきた。しかし病院側は患者の搬入を拒んだ。救急入り口のガラス扉をノックされても無視していたが、それが長時間続くので、看護師たちは相談し、「今夜は救急対応していません」と書いた張り紙を内側からドアに張り付けた。それでも救急隊員はあきらめない。きっと救急対応している病院からも断られ、たらい回しにされたのだろう。ついに救急隊員は、入り口の扉をガンガン蹴り始めた。しかし当直医もいない病院側としては受け入れられず、救急車はむなしくサイレンを鳴らして去って行ったという。

 

それに比べると、病院で治療を受け、入院できている患者は幸運に見える。しかし、そこには別の次元の問題が山積している。人類学者のロバート・F.マーフィーは、その著書『ボディ・サイレント』において、次のように指摘する。

 

自分がまず何者であるかより先に患者であると思うこと。このことを病院は入院患者に要求する。それが患者の従順を保証する条件だ。それさえあれば病院側は患者を冷静に、一定の距離をおいて、扱うことができる。つまり患者を一個の個人としてではなく一個の症例としてみなすことができる。患者の方ではこうした公平さ、慇懃無礼さが気に入らぬかもしれない。しかしその患者自身、実は共謀者なのだ。彼の通常の社会的役割や義務はすでに停止されてしまっているのだから仕方がない。

           ―ロバート・F.マーフィー『ボディ・サイレント』

 

生も死も待つ部屋でぼくが読んでいた『ボディ・サイレント』は、世界中をフィールドワークしてきた人類学者のマーフィーが、死に至る脊髄腫瘍に冒され、自分自身の身体を、あるいは自分や家族を取り巻く小さな社会をフィールドワークした記録である。自らの内側へと降りてゆく人生最後のフィールドワークは、「足元へのはるかな旅」であると同時に、「異郷へのはるかな旅」であったと綴られている。マーフィーは言う。

 

人類学者である私にとってこの病が、長びいたとはいえ人類学的“現地調査旅行”の一種に他ならない、ということだった。思えばこの病のおかげで、アマゾン奥地で私が経験したのにも劣らず奇妙で不可思議な世界に私は滞在することになったわけだ。旅で見聞きしたことを書き記し報告するのは人類学者たるものの務めだろう――それが地球の裏側へのはるかな旅であれ、あるいは、足元にぽっかりと開いた暗い穴の中への、これまたはるかな旅であれ、だ。この本は私の報告書である。

                               ―同上

 

またマーフィーは、医師を部族の長老に、死を待つ患者を新成人にたとえ、病院のなかで患者に対して行われるあらゆることが、通過儀礼を意味すると説く。通過儀礼の先にあるのは「死」。それまでとは全く異なった「大人の世界」である。つまり境界は、「ここではない何処か」にも、「ここの中の何処か」にも存在するということだろう。ぼくらは誰もが、「生」と「死」の境界を自らの内側に抱え込み、人生の最期で越えることになるのである。

 

それにしても、今日の病院ほど「生か、死か、それが問題だ」というに相応しい場所はない。ここでは生と死が明確に区分され、一旦「死」と判断されれば、容赦なく霊安室へと移動され、再び日の目を見ることはない。しかし、ぼくが病院にくる直前までいた喜界島は、ほんの数十年前までそうではなかった。生死を混淆させる時期が長く、死への移行期間を大切にした。土葬にせよ風葬にせよ、死は段階的に認識され、2~3年後に洗骨されて改葬されるまで、移行期は続いたのだ。民俗学者の酒井卯作さんは言う。「奄美諸島の昔の人は人が死んだら腐ることを知っています。目と唇から腐っていく。だから、自殺する人はいません。死んだらどうなるか分かっているからです」

 

生と死の境界を明確に線引きし、死を日常から遠ざけることが、「生」の尊さ、あり難さを希薄化し、結果的に「生」を軽んじるようになってしまった。だから現代人がふたたび「生」の瑞々しい実感を取り戻すためには、「死」の深々とした世界に眼差しを向けなければならない。では、それには一体どうすれば良いのだろうか。この問題について考えてきた先達たちは、ありがたいことに大勢いる。その中の一人との出会いが、ぼくにとっては運命的だった。

 

 

<つづく>



 辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。