神楽と縄文4

三上敏視

 

 

今回は「乱入する神」をキーワードに神楽と縄文を考えてみたい。

里の神楽はげんざい基本的に集落の氏神と八百万の神々を迎えて行われる祭そのものであり、また祭に奉納される芸能である。

 

祭そのものの神楽は祭場を作り、そこを神(仏)が訪れるにふさわしい場所とするために「浄めの舞」「大地を鎮め安定させる舞」「祭場を誉める歌」などを繰り返してから「神迎え」の舞や歌、祝詞などが続き、氏神が現れたり、現れたこととし、後半からは神人共食の宴、祝祭になり、託宣を得たり祈祷などをして神を送る呪術的な内容だ。

 

神楽は宮中の内侍所御神楽という名称のものが恒例化したのが11世紀という記録があり長い歴史を持つが、そこに至る神楽的な芸能を伴った祭祀は太古からあったと想像され、魂を体内に鎮め、またそれを増やし活性化させる「鎮魂」「魂振り」の「神遊び」も神楽だったと考えられている。

縄文から続くプリミティブな祭祀を出発点とすると、それから時代が進むとともにあるものが消えたり変化したり、新しい祭祀文化が幾重にも重なってきたと考えられるので一言で氏神と言っても単純なものではないだろう。

 

歴史の流れでは縄文時代、弥生時代、古墳時代と変化してきたわけだが、各地にあったそれぞれの神話を持つ先住土着の部族が大和王権によって支配されるようになり、古事記、日本書紀で多くの神々がファンタジックにキャスティングされることになる。

927年にまとめられた「延喜式」には国家が認めた官社として式内社が2861社あり、鎮座する神の数は3132座あり、このあたりで、単に「神」と呼んでいたり「○○様」と呼ばれていた神々が「~ミコト」と名前が付けられたのかもしれない。

またそこに入らない式外社もまたあり古い神が祀られていたと考えられる。

記紀神話に出てくる神を氏神とする祭神の神社もあれば、土着の祖先神などを祀る神社もあるわけだが、いずれにしてもそれは最終的にその地に渡来して先住民を制圧、あるいは融合した神がほとんどではないだろうか。神社の裏に小さな祠があり、そこにはもともとこの地にいた古い神が祀られているという話はよく聞く。

古くからある神社でも明治維新で祭神がメジャーな神々に変えられた神社も多いので、またややこしいのだが。

 

前置きが長くなったが、実際に氏神がその神面を着けて降臨する神楽もあれば、具体的には現れない神楽もある。現れてくるのは九州の神楽に多く、宮崎県西米良村所神楽では村所八幡神社の祭神になっている南朝の後醍醐天皇の皇子、兼良親王が降臨するが他にも「宿神」などが現れる。

宮崎県の神楽では面を着けた舞として氏神が登場し、その前の浄めの舞や式三番と言われる舞などが神楽三十三番の前半の「神神楽」とも呼ばれる神事的な内容で、後半の「民神楽」と呼ばれることもある番組は祝祭的であったり、娯楽的であったり、性的であったり、民間信仰的であったり狂言だったりと様々だ。

そしてそこには「荒神」「鬼神」などと呼ばれる「荒ぶる神」が登場してくる。

 

夜を徹して行われる夜神楽では夜中過ぎから明方にかけての、見ているものも寝てしまうような時間帯に出てきて、神楽は大いに盛り上がる。呼んでいない神が乱入して来たようなものなのだが、この荒神たちがまた人気があるのである。

やはり宮崎県の諸塚村の戸下神楽や南川神楽では「三宝荒神」がそれだ。荒神が一度に三人出てくるのが珍しいのだが、地元では「三荒神」と親しまれ、すっかり酔っ払った観客たちから「一荒神」「二荒神」「三荒神」と呼ばれ盛んに冷やかされたり応援されたりする。

一荒神は山の支配者、山の神として、「自分の許可なしに祭をすることはなにごとか、榊一本切り取ることは許さん」と怒り、神主と問答になる。二荒神は同じように土地の地主神として社や鳥居を許可なしに作ることは許さんと怒る。三荒神は火の神として自然の摂理に従って暮らすように諭す。荒神は氏神より前に土地にいた神ということになるだろう。

そして諸塚では氏子と荒神は酒を酌み交わし、氏子は歌を歌ってから引き出物を渡し和解する。この荒神と神主との問答の結果は神楽によってそれぞれだが、問答の内容はほぼ同じようなものだ。

 

そしてこれらの問答は、実際には修験者によって編集されているので仏教的な内容が織り込まれていて、特に諸塚では神仏習合が色濃く残っている。神楽は修験者の布教の側面もあるのだが、今ではこの問答は見るものは誰も理解していないのではないだろうか。

しかしもっとシンプルに解釈すると、自分たちが暮らしている土地、恵みを与えてくれる山にはもともと住んでいた存在があり、彼らとの軋轢が長く続いた記憶があって、最終的に制圧したり和解したりしても常に心の底でその存在を意識していたのではないだろうか。実際に祭をしていたら山から彼らが降りてきたということがあったかもしれない。面白そうだと覗きに来たかもしれない。あったしとてもそれはまだ神楽の形になる前の祭なのだろうが。

また自分たちは新しい文明をそこに持ち込んだが、その土地の風土ならではの暮らす知恵を教わったという気持ちもあったのかもしれない。

そして、何か悪いこと、地震や噴火、洪水、落雷などの天災や飢饉、疫病などが起きると先住民の「祟り」と考えるのはその後の日本人の「怨霊観」を見ると不思議ではない。

最終的に荒神たちは「宝」といえる土産を置いたり、土地を鎮めたり祝福したり、平穏を約束したりして去るので「山の神」「自然神」の性格が強いが、文句を言って登場してくるのはいかにも人間的なのでそれが縄文の末裔だった可能性があるのである。

 

宮崎だけでなく、全国でいろいろなかたちで「乱入する」神は見られ、奥三河の花祭の「榊鬼」も山から来た精霊とされているが、ここでももどき(禰宜)との問答がある。根付きの榊を持って現れる地区もあり、榊を引き合うのはまさに荒神だし、すでに紹介したように焼畑との関係が考えられている、まさかりで火をはねる所作をする。

 

早池峰神楽や黒森神楽など、東北の神楽でも「山の神」が登場して権現様に次ぐ重要な神とされている。ここでは米を撒いたりして「田の神」の性格も見られるが、黒森神楽では太鼓を叩く胴取りとの「対決」の様相が何度か見られる。このあたりに先住民の神の痕跡があるかもしれない。もっともはっきりとした対決は恵みとしての米を撒いたあとだが。

荒神の面も、これは近世のものがほとんどだが荒ぶる神を太い眉、大きな目、豊かで濃い髭などで現していて、ステロタイプかも知れないが縄文人をイメージさせる。

実際に縄文の土面の「鼻曲がり面」の系譜が神楽面にあり、またひょっとこも製鉄の「火男」とすると、山での作業には優れた能力を発揮できたであろう縄文系の人が使役された可能性が高く、支配下には入ったが、決して服従することはなく常に反抗心を持っているところが「うそぶき」の表情として現れていて、この種の面が神楽では「道化面」として登場する。そしてそれは単に見ている人を笑わせるだけでなく、からかったり客席に飛び込んだり、神楽の場を混乱させているのは、やはり先住民、まつろわぬ民の姿があるのではないか、と民俗仮面研究家で、現在宮崎の神楽に最も詳しい高見乾司さんが最新の著書に書いている。

『神楽が伝える古事記の真相~秘められた縄文の記憶~』(廣済堂新書)を是非読んでいただきたい。

 

http://www.kosaido-pub.co.jp/new/post_2434.html

 

 

 

三上 敏視/みかみ としみ

音楽家、神楽・伝承音楽研究家。1953年 愛知県半田市生まれ、武蔵野育ち。93年に別冊宝島EX「アイヌの本」を企画編集。95年より奉納即興演奏グループである細野晴臣&環太平洋モンゴロイドユニットに参加。

日 本のルーツミュージックとネイティブカルチャーを探していて里神楽に出会い、その多彩さと深さに衝撃を受け、これを広く知ってもらいたいと01年9月に別 冊太陽『お神楽』としてまとめる。その後も辺境の神楽を中心にフィールドワークを続け、09年10月に単行本『神楽と出会う本』(アルテスパブリッシン グ)を出版、初の神楽ガイドブックとして各方面から注目を集める。神楽の国内外公演のコーディネイトも多い。映像を使って神楽を紹介する「神楽ビデオ ジョッキー」の活動も全国各地で行っている。現在は神楽太鼓の繊細で呪術的な響きを大切にしたモダンルーツ音楽を中心に多様な音楽を制作、ライブ活動も奉 納演奏からソロ、ユニット活動まで多岐にわたる。また気功音楽家として『気舞』『香功』などの作品もあり、気功・ヨガ愛好者にBGMとしてひろく使われて いる。多摩美術大学美術学部非常勤講師。