「根の国」と記憶の世界

木村 はるみ

 

 

 

「根の国」の住人と出会うと遠い記憶が甦る。

最近、幼少期の記憶が何かの折に鮮明にやってくる。その多くが現実か非現実かわからないのであるが、確かに体験した記憶として辺りの風景も含めて目の前に現れる。生家は古い江戸後期の街道沿いの家で確かに不思議なモノたちがたくさんいた。母に抱かれながら見た数々の異界の道化たちは私をあやしにやってきてくれた妖怪たちであったのだろう。母が私の変化に気づくとさっと身を隠したが、そーとまた私のそばにやってきた。指人形の特大お化けや顔のついた大きな財布のお化け。まるで百鬼夜行の世界であった。夕方一人で二階に寝ていると階下から異国の音楽と歌を伴って階段を上ってきた奇妙な一団があり、恐怖で飛び起きたことがある。今思えば、江戸時代の旅芸人の一団であったのではないか、わたしは怖くて怖くてどうしようかと思っていた記憶がある。あれは夢だったのかそれとも幻だったのか。家の構図は改築前のもので一番上の姉に話すと確かに一致していた。

古い家には人間以外にもいろいろなものが住んでいた。幼稚園に入るか入らないか頃に、大人に内緒で幼なじみの男の子と2人でタニシや沢蟹とりに山まで行ったことがある。(どう考えても女の子の遊びではないな。そして危なかったなあ、3歳児の大冒険旅行であった。)その時の山道、赤土の上を流れる清水を飲んだのを憶えている。

 

311の東日本大震災への鎮魂の意味を込めて、トレーラー舞台の上で「神道ソング」を歌う構想は年明けてすぐに聴いていた。鎌田先生は東山で霊感を得、115日には「天神」を口上とともにMLで配信していた。世阿弥研究会で初演を聴いたが厳かで素晴らしいものであった。まだ能楽師の河村さんとは打合せ以前である。TVでは、テロリストによる残忍な仕打ちが報道されている頃であった。

さて、その頃わたしは体調を崩し山梨の小さな木造1戸建の住宅で伏していた。毎晩毎晩大変な悪夢が続いていた。どちらかというと生霊に苦しめられていたようでもあるが、10日間くらい床に伏せながら、ぐったりしていた。忘れもしない1月30日の朝、まったく脈絡もなく、黄色い月の真ん中に赤い鳥が飛んでいる目出度い夢を見た。「ああ、助かった」と思った瞬間でもあった。でも、ぜんぜん身に憶えのないヴィジョンであった。確かにそのころから熱も引いて私は仕事にも出かけ年度末の大変な作業を同僚に謝罪しながらこなすことができた。知人には、「夢に赤い鳥がでてきたのよ~」なんて話していた。「赤竹みたいに縁起がいいんじゃないの~」なんていうノリであった。

が、全然、それば別モノでした。3・11の鎮魂舞台はトレーラー舞台という台湾の田舎で流行っている派手な移動舞台で、やなぎみわさんというアーティストが台湾から購入し、横浜トリエンナーレで披露し大反響を生んだネオンちかちかのド派手な移動舞台で、日本ではまだこれ一台しかなかった。11日の北野天満宮での披露の前に二条城でポールダンスとともに前座を行い大好評であった。10日に「悲とアニマ」展の参加アーティストによるシンポジウムがあり、やなぎさんはトップバッターで発表することになった。本当は最後であったのだが、二条城に置いたトレーラーのガソリンが寒さのため凍結しそれを直そうとしたら機材が故障したとのことであった。急遽、台湾から技師を読んで明日の舞台までに直したいのだということであった。緊迫したムードの中でパワーポイントによるプレゼンテーションがあった。(その後の陶芸家の近藤さんや写真家の勝又さんのプレゼンも素晴らしく感動的であったが、ここでは省略・・・・)で、そのやなぎみわさんのプレゼンテーションのPPTの一枚に何と1月30日の病明けに見た場面が出て来たのである。目を疑ったくらい鮮明に同じで、わたしはメモを取るのを止めた。(この人に合わなくっちゃと思った)発表が終わると駆け足で会場を出て行く彼女を呼び止めた。キュレイターの秋丸さんからは話はダメ、ということでそこをどうしてもとお願いし、階段を降りる途中くらいならいいよと許可を得た。

「PPTの1枚で気になるところがあるのですが」

「どこ?」「あの黄色い画面の真ん中に赤い色のあったところ」

「どんな内容?」

「中上健次の『日輪の翼』の話でした。1月に夢に見た場面と同じなんです。」

ウザったい感じだった彼女の表情が変わり「・・・・・あなた名前は?」

「木村です」

「下の名前は?」

「はるみです。」

「それ、わたしの息子の名前、あんたそれ予知夢よ」と言って彼女は慌ただしくバックの中から冊子を出した

「ここに書いてあるから読んで、『宇津保物語』のことも書いてあるから!・・後で鎌田さんに渡して」

駆け足で階下に消えて行ったのでした。

会場にもどってその冊子の彼女の部分を読んだ。そこには、PPTの一枚になった息子さんの撮影した写真が載っていた。わたしが1月末に夢で見た場面でもあったが、月だと思っていたのは中上健次の古本の上に開いて置かれた円い芙蓉の透き通る白い花弁で花芯が真っ赤なギザギザ、これが月と赤い鳥の正体でした。広い会場の一番後ろで見ていたのでPPTの画面の全体しか見えず月と赤い鳥そのままに見えたのでした。

『うつぼ物語』は、2012年に京都に行ってすぐに、琴に興味があるなら読んでみたらと鎌田先生に言われた本であるが、何故かその時に研究室にずらっと並ぶ日本文学大系の中にはあるはずのその本がなかった。「あっ、ないや」と言ってそのままになっていて、自分でもそのままにしておいた事柄であった。今、必要な事のようである。早速に二つの「うつぼ物語」を入手した。

会場では頭はぼーーとしていたが、手渡された冊子をしっかりと読んだ。シンポジウムが終了してから鎌田先生に恐る恐る冊子を渡すと幼児に尋ねるようにやさしく「だれからなの?」と尋ねて受け取ってくれた。

そして次の日は鎮魂舞台の本番、その感動はみんなが思い切りMLでも述べている。

凄かったのでした。



その後、私は遅ればせながら中上健次に目覚めた。

「言靈の天地」は持っていたので一晩でよんだ。(かつて私は読んでいたのだろうか、、、?)

根の国を知る人の呪力の詰まった言葉の数々。

このやり取りの中で、解けなかったいくつかの疑問が解消した。

普通の人には閉ざされ知られない「根の国」への入り口を知る2人の鬼神は、

高らかに語り合っていた。


余談

先日4月2日は、「古事記」の講義を聴くために京都に出かけようと朝に山手線に乗っていた。見ると同じ車両にWさんが乗っていた。声をかけて彼の下車までの間、つり革につかまりながら話した。若かりし頃、新聞少年をして働いていたのだという。その新聞店には中上さんの友達も働いていて、「十九歳の地図」のモデルになった。(私は読んだことがない)中上健次が芥川賞を取る以前で25歳か26歳ころらしい。中上さんは羽田で働いていたころに、自分は周りから文字の読めない人と見られているようだと友人に話していた。偶然とは言え、身近に中上健次を感じたひと時で、名もない人の知られない時間に居合わせたような妙な感じがした。

 

新幹線ではぐっすり眠った。春の京都は外国人観光客が多く賑わっていた。鎌田先生は整髪しさっぱりした感じで会場に入ってきた。内容は予想をはるかに超えて面白く深くあっという間に終わってしまった。でも何度か後で復習しながら考えなければ真意はわからないことばかり。先生は講義が終わると足早に比叡山に行ってしまった。講義内容を完全に消化できたとは言えないが、ノートを見ながら再考すると自分の課題にも繋がった。

古事記の世界は面白い。「超訳古事記」は素晴らしい。古事記の講義に宮沢賢治やノヴァーリス、空海が出てくるとは思わなかった。驚きであり、鎌田先生の鮮やかでダイナミックな解説に感動した。原文朗読は美しかった。古事記は音読するものらしい。

 

帰りにいつものお店で、ひとりでやきそばを食べた。美味しかった!

 

 
木村 はるみ/きむら はるみ
1957年日本生。やぎ座。東京自由大学会員。筑波大学大学院博士課程体育科学研究科満期退学。現在、国立大学法人山梨大学大学院教育学研究科身体文化コース准教授。舞踊・舞踊教育学・体育哲学。1991ロンドン大学付設ラバンセンター在外研究員、Notation法を学ぶ。1996東京大学大学院総合文化研究科内地研究員、2012年度京都大学こころの未来研究センター内地研究員。2013・14年 度同連携研究員。受入教員の鎌田東二教授を通して東京自由大学のことを知る。驚く。設立趣旨に感動し入会。もっと早く知りたかったですが、今からでも遅く はないですよね。神道ソングと法螺貝が大好き。日本の宗教と芸能の関係を研究中。現在、舞踊作品創作にも取組中。ご興味のある方ご連絡ください。