歴史のなかの神道(3)

島薗 進

 

 

 

「皇道」の概念の諸側面

では、「皇道」と施設や組織としての「神道」の関係はどうかというと、後者は神社界の間で生じた祭神論争(一八八一年、基本的な祭祀体系に出雲系の神を入れるかどうかで紛糾した)を通して、「祭」「教」の両方面に分離していく。もっぱら「皇道」を支える「祭祀」機能を主とする側面を担う神祇施設や神職集団が「神社神道」となり、来世観や救済観をもち、人々日常生活の関心にそった思想や実践を重視する「宗教」集団が「教派神道」(宗派神道、宗教神道ともよばれた)ということになる(宗教性を重視する出雲系はこちらに流れた)。このような分化が進むことによって、来世観や救済観に関わる側面を「宗教」とよび、「祭祀」と区別するという用語法が広がっていく。しかし、この場合の「宗教」はこの語の使用法の中では、きわめて狭い限定的な意味をもつものだ。そしてそのような意味での「宗教」である教派神道も、諸「宗教」の一部として「皇道」に貢献すべきものと位置づけられていく。豊田が「総括的皇道主義」とよぶ所以である。

「皇道」が国家統合の中心に位置づけられているということでは、「単一的神道主義」の時期も「総括的皇道主義」の時期も変わらない。その意味で神道の国教的な地位は保持され続けた。そして「神社神道」もその皇道にそった、地域の神祇信仰の形態として組織化されていった。皇室祭祀と天皇崇敬が中核となって構成され、神社をも組み込んでいくこの「皇道」は、明治維新以後の日本社会で広められた国教的な神道を指す用語として用いられていった。国家神道というときにこの要素を除外してしまえば、その意義内容は思想・実践形態としての神道の実態を離れた、たいへん特殊な側面のみを指すことになる。

では、それと並行して実現していったと捉えられてきた「信教の自由」と「政教分離」はどのように理解すべきだろうか。大教院体制の下では宗教者は教導職となり、「大教」や「三条の教則」という枠の内で活動することが求められたが、一八七五(明治八)年二月に真宗四派が大教院を脱退し、五月には大教院は解散する。教導職の廃止は一八八四(明治一七)年だが、すでに一八七二(明治五)年一一月には信教の自由を保障する旨の口達が出されている。その背後には島地黙雷ら真宗の立場からの信教自由の主張や、西周、森有礼、加藤弘之らが紹介した西洋の宗教の自由の考え方の模倣があったとされる(安丸良夫『神々の明治維新』岩波書店、一九七九年、安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系 国家と宗教』岩波書店、一九八八年)。

だが、大教院解散によっていちおう成立したはずの「政教分離」は大きな限界のあるものだった。安丸良夫はこれを「日本型政教分離」とよび、「そのさい、三条の教則の遵奉が独自の布教活動を共約する原則とされており、むしろこうした国家のイデオロギー的要請にたいして、各宗派がみずから有効性を証明してみせる自由競争が、ここから始まったのであった」(『神々の明治維新』二〇八-二〇九ページ)と述べている。「総括的皇道主義」が諸宗教に付与する自由には大きな限界があった。

 

宗教は尊王を支える

大教院と教部省の廃止に先立って真宗四派の離脱があったが、この過程で信教の自由を主張し、「日本型政教分離」に大いに貢献したのが島地黙雷だが、その島地は「皇道」にあたるものをどのように捉えていたか。1872年12月に外遊中の島地が提出した「三条教則批判建白書」について、藤井健志は次のように述べている。

……島地によると教部省のやり方は。人々に宗教を強制して、心の中まで介入するものである。それは島地の見るところ、教部省が「国体ノ変従センコト」を恐れているたためである。しかし彼は三条教則の「皇上ヲ奉戴シ」の部分を「尊王」と言い換え、「尊王ハ国体也、教ニ非ル也」という。そして島地によるとこの尊王を宗教を通して教化すると新たな問題が起こってくる。「其心ニ服セサル、奚ソ之ヲ信従スルコトアラン」というわけで、人は心から納得しないと信仰しようとしないからである。従って尊王を宗教として、信仰を通して守らせようとすると、かえって仏教信仰になじんだ人々がそれに反発し、尊王そのものまで軽視する可能性が生じる、こうした事態を避けるためには、宗教を通してではなく、政治のレベルで尊王を堅持させた方がよい。そして宗教は宗教で「諭シ、其心ヲ制シ基本ヲ(とど)という形で政治を補佐する。政治と宗教がこのように、それぞれの性格の相違に応じて異なる役割を分担すべきであるとしたのが一般に島地の政教分離論とされるものの内容である。従ってそれは政教分離の主張というより、この建白書の中で島地が言っているように「政教相依」の主張と言った方がふさわしい。(「真俗二諦論における神道観の変化」、井上順孝・阪本是丸編『日本型政教関係の誕生』第一書房、1987年)。

信教の自由といっても、宗教は「尊王」を支えるはずのものでもある。宗教的信仰は「真諦」であり、政治体制の秩序原理である「俗諦」とは別のものだが、それらは相互依存関係にあるというものだ。これは島地の理論の上でのことだが、実際、真宗が主張した「信教の自由」が、天皇崇敬システムと同調する性格のものであったことが明らかになる。

まずは薩摩藩の事情について、小川原正道『近代日本の戦争と宗教』(講談社、2010年、第3章)によって見ていく。薩摩藩では1597年(慶長2年)から1876年(明治9年)に至るまで、真宗の信仰が禁止されていた。1868年には廃仏毀釈が進み、鹿児島県内の寺院は全廃された。真宗以外の仏教寺院もなくなった。ところが、1876年になると、県から「各宗旨の儀自今人民各自の信仰に任せ候条此段附布達候事」との達が発せられる。

さっそく西本願寺は教団幹部(執事)の大洲鉄然を派遣する。その大洲は12月に執筆した「出張趣意書」で「二諦ソノ一を欠カハ我宗教ノ真意ニ非ルナリ」と述べ、これまで「二諦ノ教旨」を説かず、国法ヲ犯シ倫理ヲ紊リ神明ヲ軽侮シ他教ヲ誹謗シ」たのは誤りだったとする。

二諦ノ教旨ヲ明カニシ各々ソノ職務ヲ勉励シ浮華ニ迷ハス邪路ニ陥ラス神ヲ敬シ国ヲ愛シ倫理ヲ守リ法令ニ遵ヒ、愚ハ以テ賢ニ進ミ貧ハ以テ富ニ趣キ惰ナル者ハ勤メ弱ナル者ハ強ク国威法光並ヘテ海外ニ輝カスニ至ラハ現当ノ洪福コノ上アルヘカラスコレ我法主大教正予ヲ派遣セシムルノ大趣意ナリ

来世での救いと現世での福利の双方に関わるというのが、「現当ノ洪福」ということだろうが、後者は敬神・報国を念頭に置いたものなのであった。

 

(付記)連載第3回の今回も第2回同様、島薗進「明治初期の国家神道――神社と制度史中心の歴史的叙述を見直す」(島薗進他編『シリーズ日本人と宗教――近世から近代へ』(高埜利彦・林淳・若尾政希と共編)「第1巻 将軍と天皇」春秋社、2014年9月)の一部を用いている。

 

 

 

島薗 進しまぞの すすむ

 

1948年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。宗教学者。NPO法人東京自由大学学長(2016-)。 東京大学名誉教授・上智大学大学院実践宗教学研究科科長・グリーフケア研究所所長。主な著書に、『現代救済宗教論』(青弓社)、『スピリチュアリティの興 隆』、『国家神道と日本人』、『日本仏教の社会倫理』(岩波書店)、『日本人の死生観を読む』(朝日新聞出版)、『つくられた放射線「安全」論』(河出書 房新社)『精神世界のゆくえ』(東京堂出版、秋山書店)、『いのちを“つくって”もいいですか』(NHK出版)ほか多数。