遊牧と巡礼歌

プロローグ

伊藤啓太

 

 

 

人間がその人生のある時期において

自己の思想を更新させるような意味をもつ、

土地とか風景とかいうものにめぐり合わせたことは羨望に価する。

――小野十三郎『詩論』

 

 

渋谷駅から宮益坂を上ってしばらく行くと、表参道駅より少し手前、青山通りの両側に大学が現れる。右手には青山学院大学が門を構え、正門にはメソジスト派の元祖、ジョン・ウェスレーの銅像が右手を前に大きく伸ばして立っている。そして通りを挟んだ向かい側には国連大学が鎮座している。

 

青山通りを挟んで対峙する二大学はとても対照的だ。青山学院大学は、アメリカの教会が派遣した宣教師によって創設された3つの学校が源流で、いかにもクリスチャンの学校、という雰囲気だ。

 

一方、国連大学はコルビュジエを彷彿させる無駄な装飾を廃した明灰色の建物で、12階建のビルは上に行くほど狭くなり、三角形に積まれた巨大な積木のようだ。壁や門などは一切なく、特定の文化のシンボリズムを排除した建築は、誰を拒絶することなく、すべての加盟国を代弁する国連らしいデザインとなっている。

 

建物に一歩踏み入れると、そこは治外法権で、日本の法は及ばないといい、警察の代わりに民間に委託されたスーツ姿の警備員が玄関口を守備している。無駄な装飾を排除する理念は内部にも貫徹されていて、灰色の石タイルとガラスから成る空間は、人々が漠然と抱く国連の絢爛なイメージと相反して、極めて質素で無機質だ。フロントデスクが円形なのを除けば、曲線も見当たらない。

 

大学だが、ビルにはユニセフや国連開発計画(UNDP)などの国連機関の駐日事務所も入っていて、出入りする人々の多くは国連職員だ。

 

「おはようございます」

午前9時半。秋空のように澄んだ水色の国連旗が廊下に掲げられた上階フロアーの一角に挨拶が飛び交う。わたしを含めた4人の学生インターンの前には日本の全国紙と英字紙がどさっと置かれ、世の中にはニュースが飛び交い続けていることを知らせてくれる。月曜日には週末分と合わさり3倍の分量になって、新聞の山はオフィスにやってくる。わたしたち学生インターンは、目を虫眼鏡にして「国連」の文字を探し、コピー機で一枚ずつ丁寧にコピーをとることになっている。「女性の社会進出」や「難民問題」、日本にとって重要な国際時事もターゲットだ。わたしがインターンをしていた20162月から4月は、「慰安婦問題」や「北朝鮮」も紙面を賑わせ、コピー機の周りは新聞インクで黒ずんだ。

 

デスクで文書を作成していたある日、「回覧物に目を通して置いてね」と言う同僚の声に、わたしは回覧物の置かれたテーブルに席を移した。

職員が購読している情報誌や、関わりのある団体から送られる機関誌、その他の書類などが積み上げられている中に、反差別国際運動(IMADR)の季報『IMADR通信』を見つけた。

特集『マイノリティの声』には、在日コリアン・沖縄・日系ブラジル3世の方などと共に、アイヌの方が文章を寄せていた。写真の中の男性は静かな威厳を湛え、アイヌ民族の歴史や言語、文化を学ぶ教育の必要性を強調する。

 

ふと、二風谷で見た老アイヌの言葉が、わたしの耳奥で走馬燈のように鳴り響いた。

 

『我々は、言葉を奪われ、名前を奪われ、先祖の土地を奪われ…』

 

日本の国土の四分の一にあたる広大な北方の大地が大日本帝國の国有地に編入され、同化政策によって延々と受け継いできた文化の基盤を失ったアイヌの叫びは、琉球・台湾・朝鮮の民と共鳴して、わたしの頭の中に反響し、こめかみがツーンと痛む。

 

わたしは身近にアイヌ文化がある環境で育ったわけでも、親しい友人がいるわけでもない。だけどアイヌに特別な思いを抱くようになったのは、自分の先祖に由来する。

 

北海道の最北端、稚内から宗谷海峡を挟んで更に北に位置する島、樺太。現在はロシア領でサハリンと呼ばれるこの島は、約七割が山岳地帯で平地は北部に集中している。そのため南樺太を占領した日本人が入植したのは限られた平地部だった。亜庭(あにわ)沿岸のほぼ中央部に開かれ大泊(おおどまり)町は、1908(明治41)まで樺太の行政官庁が置かれていた主要都市で、わたしの高祖父、つまり祖父の祖父・山口(ぶん)(きち)()は、日本が南樺太を占領した翌年に移住した。

 

山口文吉氏は、もとは山形県の士族だったといい、1906(明治39)北海道厚岸町より樺太大泊栄町に移住し、海岸で海藻を拾ったり魚を採ったりする傍ら、酒造業を兼営した。酒造りが大きくなった1918年頃漁業を廃し本業に専念し、「山吉 山口酒造店」は全国の銘酒大会で入賞するなどして大いに繁盛したという。その酒の名を、姓の山口と樺太からとって銘酒「樺山」といった。

 

二人の娘を授かり、はるばる東京の女子学校に通わせた。長女キエ(1913年生まれ)は、法政大学を卒業した石黒宗三(そうさん)を婿養子に迎え結婚し、22歳でわたしの祖父である三男・智久(1935年生まれ)を出産した。宗三もまた山形の士族の出だったという。

 

祖父の通った樺太公立船見尋常小学校(船見国民学校)は、1911(明治44)に私立尋常小学校として栄町海岸通の旧ロシア人家屋に開校した。市区改正などによる経営困難で一時は大泊小の分教場となったが、1915(大正4)には栄町の人口急増を受け旧樺太庁舎を移転し翌年庁立となった。昭和12年には本校校舎も2階建てに改築されたという。小高い丘の上にあって、大泊港に出入りする船を眺めることができたといい、「船見」の名はそこから来ている。祖父は小学校4年生までそこに通った。

 

大きな酒造業を営む山口家には、酒目当ての軍人がよく出入りをした。だからもうすぐ日本は敗戦しソ連が南下してくるだろうということをこっそりと教えてもらっていたのだった。曽祖父母は、すぐに引き揚げの手筈を整え、後始末をする宗三を残して、キエと8人の子供は家財をまとめて先に大泊港を発った。1945814日のことだった。

 

一家は、稚泊連絡船(稚内-大泊)に乗って北海道に渡り、東京の親戚を目指した。宗三も敗戦の十日後、東京で家族と合流した。幼い祖父は、玉音放送を稚内港で聞いている。当時10歳だった祖父は、涙を流す周りの大人たちを不思議そうに眺めていた。

 

「樺太には人を刺す蚊がいなくてね、東京のほうに南下する汽車で、生まれて初めて蚊に刺されてね。びっくりして掻きむしったら血が出て、炎症を起こして足が大きく腫れちゃってね。」祖父は、わたしに色々な話を聞かせてくれる。

 

「アイヌの人は?何か覚えてる?」

 

わたしの質問に、祖父の口の動きは鈍る。日本人街で過ごした人々にとって、アイヌと接点のある人はとても例外的だった。敗戦前の大泊の人口は約2万人だが、そのうちアイヌ人は200人前後に過ぎなかったと記録されている。それでも祖父は、アイヌと思われる女性が大泊の浜辺で海藻を拾う姿を覚えているという。

 

アイヌモシリ(アイヌの大地)を日本人に開拓され、無法な取扱いに苦しめられた先住民たちは、どこでどういう生活をしたのだろうか。日本の戸籍に編入されていた樺太アイヌたちは、敗戦後日本人とともに北海道に引き揚げたというが、わたしは詳しいことをしらない。

 

東京で、去年9月に行われた「アイヌ文化フェスティバル」には、アイヌの人びとやアイヌに関心を持っている人がたくさん訪れていた。「みなさんも一緒に踊りましょう!」という掛け声に「ぼくもー!」といって、わたしの後ろの子どもたちは、ステージに駆けて行き、アイヌの踊りを無我夢中で楽しんでいたのが、わたしは忘れられない。

 

七〇余年前、幼き祖父が大泊の海岸で遠目に見た、海藻を拾うアイヌの女性はどうなったのだろうか。短いメロディーを反復し輪唱するアイヌの歌を聞きながら、そんなことを思った。

 

 

<つづく>

 

 

伊藤啓太/いとうけいた

東京自由大学セカンドステージメンバー。神奈川県生まれ。小学校を台湾、高校をニュージーランドで卒業し、大学では文化人類学と言語学を勉強した後、韓国・ソウル国立大学に留学。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士前期課程在学中。Facebookコミュニティ『World Music and Art』を創立。http://fb.com/w.trart.jp