舞と踊りのこと

三上 敏視

 

 

民俗学では舞は回転運動、踊りは上下(跳躍)運動ということになっているそうで、舞と踊りを合わせて「舞踊」になるということだ。

神楽では番組を呼ぶときに「注連切り舞」「順の舞」「山の神舞」「八幡舞」など、祓い、浄め、神迎え、神送りなどの神事舞や、立ち現われた神々(氏神、祖先神、自然神など)の舞などで「舞」と呼び、「踊り」と呼ぶことはない。

これは神楽の起源のひとつである「巫女の神憑り」が回転運動の舞によって起こったと考えられているからだろう。

あとから神楽に加えられた神話や物語などの能的な番組は「岩戸開き」とか「大蛇退治」「鐘巻」「蕨折」などと名付けられている。

 

しかし神楽の舞は回転運動だけでなく上下運動もある。想像するに神憑るまでは高速で回転して、神憑った時はかなり跳躍を含んだ「暴れる」状態になったのではないだろうか。

「奥三河の花祭り」での「一(市)の舞」は巫女舞が起源だと考えられているけれど、後半にジャンプを繰り返す。神憑った状態が様式化された舞と考えてもいいのではないだろうか。

このように実際は「舞」と「踊り」が混在しているのだが、呼び方を「舞」として統一しているのにはなぜだろうか。

 

以下は最近この事について自分なりに考えていること、考えるきっかけになったことなどを書いてみたいと思う。

 

よく喩え話で使われるのは「盆踊りのことを盆舞とは言わないでしょう。神楽舞も神楽踊りとは言わないんです。」というものだが、「神楽は舞であり踊りとは言わない」というのは実際のところ、現場でも崩れ始めている。

舞のことを「踊る」と言うと、きっぱりと「神楽を踊りと呼ばないで下さい」と言われるところがまだまだ多いようだが、場所によっては舞う人が自ら神楽のことを話す時に「踊る」というところもまた少なくない。

おおざっぱに分けると東日本から北日本にかけて「踊る」と言う人が出てきて、西日本に行くと「舞う」がほとんどだという印象だ。

これを神楽の形態と重ねると、神社の祭礼で神楽殿で奉納する部分を担う芸能として、また門付けをしたり神楽宿で村人を楽しませる芸能として神楽が存在する傾向の強いのが東北日本で、集落を挙げて執り行われる年に一度の祭の最初から最後までを、芸能を伴って夜通し行われる傾向が強いのが西日本ということになるだろう。

地理的にこの中間にあるのが「奥三河の花祭り」のある三遠南信エリアだが、この分け方をするとこのエリアは西日本的ということになるだろうか。

 

東北日本の神楽は「芸能」としての性格が西日本より強い。舞人も見る人を意識して舞うし、また見る側も舞の良し悪しに興味があり、優れた舞人は有名になり、その人の舞を目当てに神楽に行くという人も出てくるのである。そうすると舞人には「見られているという自意識」も生まれる。

本来は神楽を舞うことによって「自我」が消え、トランスによって神に近づいたり、また神でも人でもない「何者か」になったりして、それを見る人たちも共有して受け取り、神楽の場全体が「非日常的な祭空間」になり、「見る立場」と「見られる立場」の対極的に見える違いは「祭空間」を作り出すことによって融合して「神人」「陰陽」「自然と人」などが渾然一体となるのである。

 

舞も踊りも英語ではダンスになってしまうが、ここでぼくは「舞は無我ダンス」「踊りは自我ダンス」という言い方ができるのではないかと思う。

そして神楽の場合、舞は「舞わされるもの」と言ってもいいかもしれない。そこには舞人の自己表現は必要ない。呪術的要素の強い神楽舞は道教、陰陽道、密教など、またそれらを取り入れた修験道の呪術的技法の上で編集されてきたものをずっと伝えてきたものである。能舞には近世の歌舞伎などの影響は見られるが、神事舞、神舞は「教わったとおり舞うもの」が伝わってきたものなのである。舞人は身体を貸しているだけで、身体技法の意味はわからなくても知恵が積み重なって作られてきた舞を再現すればまたその意味、効果も立ち上がってくると考えればいいと思う。逆に踊りは自分の表現として踊る芸能と言えるのではないだろうか。

 

それでは東北日本の神楽は「見せる芸能に堕ちて」しまったのだろうか。

それもまた違うだろう。東北は特に強い信仰心が基層文化としてあるから神楽が部分的に芸能化しても人々と神楽の関係は根源では西日本と同じだろう。芸能化は「変化」というより「追加」と考えたほうがいいのだろうと思う。なにより、神楽をする人たちの信仰心が強い。早池峰の大償神楽の佐々木隆さんは舞の名手として「追っかけ」が出るほど有名な長老だが、神楽を続けてきた理由を尋ねられると「強い信仰心があるから」と答え、同じような答えをした人を何人もぼくは知っている。また八戸の法霊神楽の人たちは韓国公演の時、「神楽をする時は四足は食べてはいけないのです」ということで、焼き肉を食べることなく、肉は鶏肉までと決めていた。本場の焼肉も我慢したのだ。

だから「神楽さん」たちに強い信仰心と宗教芸能者としての自負があるから人々は安心して芸能として神楽を楽しめるのだと思う。

 

なんでこんなことを考え始めたのかというと、最近神楽に接近して来るダンサー、舞踊家が増えてきて、中にはちゃんと現地に通い、習い覚える人もいるけれど、表面的な体の動きを見ただけで神楽がどういうものかを知ろうとせず、それなのに自分勝手に「創作神楽」を作ろうとする流れもあるからである。

現代の舞踊は芸術的であろうがなかろうが「自己表現」であり、アーティストのほとんどは「自我の塊」である。そしてその自己表現に価値が有るわけで、「自我ダンス」であり神楽とは対極のものである。

最近よくシンポジウムやトークの場所で「アーティストが自己表現するのは当たり前のことなのでそこに自分が理解した神楽の要素を取り入れるのは構わないけど、それを◯◯神楽と呼ぶのはやめてほしい。神楽風◯◯ならまだ許せるけど」と言っている。伝承が難しくなっている神楽の現状をどうすればよいかというテーマから「現代の神楽」みたいなキーワードが出てくるわけだけど、神楽にたいして誤解を生むような形でのアーティストからのアプローチは出来るものなら避けてもらいたいところだ。

 

ダンサーの田中泯さんは神楽や民俗芸能に造詣が深く、山梨の民俗芸能はほとんど見ていると言っていた。ワークショップ「ダンス白州」には岩手の石鳩岡神楽を二回招待して海外からの参加者を含め、多くのダンサーに神楽を見せたし、舞台での再現が難しい奥三河の花祭を招く時はなんと新たに舞庭と神座の建物を造って御園の花祭りを招いたくらいで、その関係作りは中途半端なものではない。そしておそらく多くのものを吸収しているのだと思うけど、泯さんのダンスからは表面上は神楽の要素は見られない。最近は「場踊り」と名付けたパフォーマンスが多く、もちろん神楽の「か」の字も出てこない。しかし、泯さんのダンスのどこが素晴らしいかというと、「自我」と「無我」の間を探りながら行き来をしているように見えて、僕はそこに「舞」を感じるのである。

こんど泯さんに会う機会があったら泯さんにとっての「舞と踊り」を訊いてみたい。

 

 

 

三上 敏視/みかみ としみ

音楽家、神楽・伝承音楽研究家。1953年 愛知県半田市生まれ、武蔵野育ち。93年に別冊宝島EX「アイヌの本」を企画編集。95年より奉納即興演奏グループである細野晴臣&環太平洋モンゴロイドユニットに参加。

日本のルーツミュージックとネイティブカルチャーを探していて里神楽に出会い、その多彩さと深さに衝撃を受け、これを広く知ってもらいたいと01年9月に別 冊太陽『お神楽』としてまとめる。その後も辺境の神楽を中心にフィールドワークを続け、09年10月に単行本『神楽と出会う本』(アルテスパブリッシン グ)を出版、初の神楽ガイドブックとして各方面から注目を集める。神楽の国内外公演のコーディネイトも多い。映像を使って神楽を紹介する「神楽ビデオ ジョッキー」の活動も全国各地で行っている。現在は神楽太鼓の繊細で呪術的な響きを大切にしたモダンルーツ音楽を中心に多様な音楽を制作、ライブ活動も奉 納演奏からソロ、ユニット活動まで多岐にわたる。また気功音楽家として『気舞』『香功』などの作品もあり、気功・ヨガ愛好者にBGMとしてひろく使われて いる。多摩美術大学美術学部非常勤講師、同大芸術人類学研究所(鶴岡真弓所長)特別研究員。