境界をめぐる冒険
Ⅳ 東欧の西海岸
辻 信行

 

 

 

飛行機は徐々に高度を下げてゆく。
イヤホンのクラシック・チャンネルから流れるのは、アッテリベリの交響曲第三番「西海岸の風景」。これから東欧の内陸に降り立つというのに、西海岸とはどうしたことだろう。滑走路に滑り込みながら、曲は第三楽章「サマーナイト」の壮大なフィナーレを迎えようとしていた。

 

チェコとの出会いは、ひどく平凡なものだったかもしれない。それは、スメタナの連作交響詩「わが祖国」より第二曲「ヴルタヴァ」を耳にしたときだった。全身の毛が逆立つような衝撃を覚えたぼくは、この曲とスメタナ、そしてスメタナを生んだチェコに強く惹かれるようになった。

 

チェコは、ほの暗い孤独感に酔いしれるアドレッセンス期の少年に、強い憧れを抱かせるに最も適していた。20世紀最大の悲劇と称されるチェコの近代史は、幾度にもわたる占領(※1)と抵抗の歴史そのものである。特に、ソ連の戦車に言葉で応じたプラハの春の顛末。ぼくは当時のプラハの人々に激しく同調し、彼らと怒りを共にしたと錯覚することで、そこに心の居場所を見出していた。

 

たとえばぼくは、プラハの春に接して加藤周一が書いた次の文章を、暗誦するまで読み続けた。

 

   言葉は、どれほど鋭くても、またどれほど多くの人々の声となっても、一台

 の戦車さ破壊することができない。戦車は、すべての声を沈黙させることが

 できるし、プラハの全体を破壊することさえもできる。しかし、プラハ街頭に

 おける戦車の存在そのものをみずから正当化することだけはできないだろう。

 自分自身を正当化するためには、どうしても言葉を必要とする。すなわち相手

 を沈黙させるのではなく、反駁しなければならない。言葉に対するに言葉をも

 ってしなければならない。1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対

 していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった。

                        ―加藤周一「言葉と戦車」

 

言葉による戦車への抵抗はかなわず、ソ連による占領の幕が開ける。それはプラハのアンダーグラウンド時代の始まりでもあった。秘密ラジオは人々に呼びかけた。「国民の皆さん、もはやチェコスロバキアには武力で対抗する力がありません。ですから、武器は持たないでください。いつも落ち着いていてください」。

秘密ラジオはスメタナの「わが祖国」も流し続けた。オーストリア=ハンガリー帝国下に作曲されたこの曲は、時代を超えて、再び民族主義を高揚し、人々の紐帯となったのである。

 

ぼくがプラハを訪れたのは、アドレッセンス期を脱して何年も過ぎた夏の日、2008年のことだった。ちょうどプラハの春から40年が経過したこの年、国立博物館前のヴァーツラフ広場には、当時の写真パネルが何枚も展示されていた。

 

それを見る人々の顔には、どことなく冷めた表情が浮かんでいた。それもそうだろう。ここはもう、すっかり変わってしまったのだから。

 

 

 

2007年の秋、ズデ二ェク・マーツァル率いるチェコフィルが来日した。すみだトリフォニーホールで演奏されたのは、「わが祖国」。マーツァルは事前に次のように語っていた。「すっかりグローバル化してしまったこのオーケストラに、私は再びチェコの響きを取り戻したいのです。ラジオでチェコフィルを聴いた人たちが、『ああ、これはチェコフィルだ』とすぐに分かってもらえるようにね」。

 

演奏会が終わってホールを後にする人々は、「懐かしい音色だね」「これぞチェコフィルって感じだね」と口々に言う。しかしぼくは、どうも腑に落ちなかった。その日のオーケストラは、確かに黄金時代のチェコフィルが持っていた独特のひなびた音色を感じさせはしたが、それはどこかぎこちない「再現」に過ぎず、演奏自体も力み過ぎて一本調子だったのだ。

 

世界中から優秀なプレーヤーが集まることによって、一度洗い流されてしまったローカルの音色は、もう二度と取り戻せないのかもしれない。そうなった以上、愚直にローカルを取り戻そうとする努力は、どこか空しい響きを持って迫ってくる。

 

チェコフィルのコンサートで感じた違和感に、プラハの旧市街地を歩いている時も襲われた。その街並みが、あまりに美しく整備されすぎて、古さを感じさせない「再現」であったからだ。まさにそこは、ディズニーランド。「人間の顔をした社会主義」の片鱗すら感じさせない、資本主義の世界そのものだった。

 

意外にも、プラハで最も脳裏に刻まれたのは、ユダヤ人墓地である。限られた居住区の中で墓地を拡大することができなかったため、ここには中世最大のユダヤ人ゲットーに住んだ人々が、鬱蒼と茂る樹木の下で、押し合い、重なりあって眠っている。墓前には花の代わりに小石を捧げるのがユダヤの習慣だから、レヴやマイゼルといった著名人の墓前には、標本のように小石が並べられている。

 

それにしても、この墓地全体の乱雑さは何ということだろう。ゴミ捨て場と言ってもよさそうな光景だ。黒服を着たユダヤ人の司祭が祈りを捧げる脇を通って、ぼくの心は終始、ざわついていた。しかし皮肉にも、所詮人間は土に還ってゆく存在なのであり、埋葬地が整備されていようとなかろうと、そんなことは関係ない、という考えが頭をよぎった。「綺麗な墓」を良しとする発想は、極めて近代的なのではないか。しかし、それでも、プラハのユダヤ人墓地に関しては、「綺麗な墓」を作りたくても作れなったという歴史的背景に、いつまでも引っかかりを感じている。

 

 

ヴルタヴァ川のほとりで、丘の向こうに沈む夕日を眺めながら、ぼくはひどく寂しく、同時に満たされた気持ちになっていた。ここは東欧の西海岸なのだ。東と西の境界がせめぎ合うただ中で、人々は言葉を、音楽を、人生を、戦車より強大な存在に押し流されながら、紡ぎ続けてきたのだ。

 

 

<つづく>

 

 


(※1)オーストリア=ハンガリー帝国、ナチスドイツ、ソ連による3度の占領を指す。 
  

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき

東京自由大学理事。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程在学中。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえつつ、様々な「境界」を研究している。