気功エッセイ 

第3回 1990年代半ば「気の世界」は波乱万丈!

鳥飼 美和子

 

 

 

~2013年「火を焚きなさいアートフェスティバル」からふりかえる~

 

つい先日2013年10月の末に東京自由大学は活動開始から15年を記念して「火を焚きなさいアートフェスティバル」を催した。東京自由大学の顧問をお願していた詩人の故・山尾三省氏を偲び、その生き方、その思想と言葉を語りつぐ、毎年恒例の「三省祭り」の時期である。東京自由大学の小さな会場での、ささやかなアートフェスティバル。三省さんの詩「火を焚きなさい」にちなみ、その名を冠した。

 

・・・火を焚きなさい

人間の原初の火を焚きなさい 

やがてお前達が大きくなって 虚栄の市へと出かけて行き 

必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり 

自分の価値を見失ってしまった時 きっとお前達は 思い出すだろう 

すっぽりと夜につつまれて オレンジ色の神秘の炎を見つめた日々のことを・・・

 

                 (山尾三省「火を焚きなさい」より)

 

山尾三省さんは人生の後半を屋久島に定住し、土を耕し、思索し、言葉を紡ぎ、まさに自然の中で生きた。それは厳しく、かつ時にさびしく、しかし、魂の豊かさや純度は、まさに、虚栄の市で生きる私たちを啓発してやまない。

アートを一つの柱として発足した東京自由大学だが、技法としての芸術を伝える場とはスタンスを異にしている。それは例えば、宮澤賢治が「農民芸術概論」のなかで詠っている事に通じるだろうか。

 

・・・おお朋だちよ  いっしょに正しい力をあわせ  われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか・・・

・・・詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画・・・・

・・・なべての悩みをたきぎと燃やし  なべての心を心とせよ  風とゆききし  雲からエネルギーをとれ・・・                                 

(宮澤賢治「農民芸術概論」より)

 

 

一つひとつの活動が、一つひとつの言葉が、立ち居振る舞いが、第四次元の芸術となるような、そんな在り方は可能だろうか、それは山尾三省さんが屋久島で、土にまみれ、空を見上げ、五衛門風呂の火を見つめつつ生きた事に通じる。東京・神田、虚栄の市の真ん中に「オレンジ色の神秘の炎」を焚いてみよう。それぞれの日常の中で創造する魂の火を、ひとりひとりの松明のように持ち寄ろう、という試みである。

会員や関係の方々にはプロとして創作をされておられる方々がいる。さらに自らを探究する道として、また、打ち込む趣味としての創作活動の一端を提供していただき、作品をプロ・アマの別なく展示させてもらった。

 

3日間、毎夜パフォーマンスの時間を持った。その第二夜、日中の講座「震災解読事典」の講師として来ていただいていた作家の田口ランディさんに、朗読「アングリマーラ」をお願いした。

「アングリマーラ」とは、悟りを求めていた一人の修行者が、師に欺かれ「千人を殺し、その指を首飾りとせよ。そうすれば成就する」と命じられる。悩んだ末にそれを実行した修行者は「アングリマーラ=指の首飾り」とよばれるようになった。千人目にブッダと出会い、それによってかれは殺人をやめ、ブッダの弟子となったという伝説の人物である。その伝説をランディさんは自分の言葉で綴り、朗読活動を展開されている。

この物語に内蔵されているいくつもの重要な問題は、地下鉄サリン事件などで日本中を震撼させたオウム真理教の問題と通底している。1990年代に、気の探究、そして心身の変容とその先に霊的な体験や悟りを目指していた者たちにとって、この事件は根底を揺さぶられる衝撃的な事件であった。

1960~70年代、自然と平和を愛し自由に生きるというヒッピームーブメントと共に、意識の変容、精神世界の探究も徐々に一般化されて行った。ヒッピームーブメントは終息していったが、精神世界の探究は、ニューアカデミズムとも隣接しながら大衆化し、1990年前半にピークを迎えていたといえるのではないだろうか。

1994年初版の『聖なる予言』は、マニアだけが読む本としてではなく、一般書籍としてベストセラーとなった。 そんな世情のなかで頭角を現していったオウム真理教。

彼等はヨガや瞑想を通して心身を変容させ、自分を改革しようとしていた、悟りを目指していた、はずであった。

それが無差別殺人を実行する集団に変貌してしまった。次々と露呈されて行ったオウム真理教という集団の犯罪に驚愕するとともに、私はどうしようもないいらだちにと憂鬱に襲われたものだった。

 

ヨガや気功などの宗教に根源を持つ文化は批判の的となった。ヨガのクラスは一気にガラガラになったという。いわくマインドコントロール、いわく非科学的、非常識と。

メディアで「自分達こそ真理である、世界を救うものである」といって殺人を犯すこの集団は狂っている、これは一般の常識人たる日本人とは違う人間の集団なのだと評しているのを聴くと、どうしてこんな風に簡単に評する事が出来るのか、いらだちを感じた。

時は1995年。戦後50年目の年である、たった50年前、日本は世界を敵にして、勝つはずのない非常識な戦争をしていたのではなかったか。神風が吹くと言っていたのではなかったか。世界中からきっと今のオウム真理教を見るように、みられていたのではなかったか、と。オウム真理教にも、日本のメディアにも、どちらにもいら立ちを覚え、かつ、どうしようもない憂鬱にもおそわれた。

私が出会って、新たな世界が開かれたと思った心身の変容の技法。魅力的な密教の世界、深い禅の世界。融通無碍な老荘的な世界。それらが危険なものを内包しているのを私たちは知っているはずではなかったか。長い歴史の中で、私たちの世代は神秘学と科学との出会いを、叡智を持って探究できる世代ではなかったのか・・・。

なぜ、知的レベルが高いはずの人々が、グルと称する人物の矛盾に満ちた言葉や行いを信じたのか。

なぜ、個人の普通の良心に即せば、絶対に誤っているとわかるはずの事を、踏み越えて行ったのか。

 

これは、「アングリマーラ」と共通する問題である。2500年たってもこの問題はいまだに解決されていないのだ。

宗教的、霊的な心身のプロセスで起こりがち自我のインフレーションに個人のコンプレックスや権力欲、集団の圧力、さらに時代的な問題まで重層的にからまった事件にどのように対応すべきか、思い迷いながらも、日々の気功クラスを続けていた。そのころ参加してくれていた教師をしていた方から興味深い話を聞いた。

 

子供たちが仏教のことをいろいろ質問してくる、というのだ。それまでまったく仏教になど興味がなかったのに、毎日毎日メディアで取り上げられる知らない仏教用語等について、知りたがっているというのだ。恐ろしい事件であったが、仏教とは何であるか正しく伝える機会とすることもできるのではないかというのである。どんな機会においても子供の好奇心に最善の種を蒔くということが教育なのだなと、感心したものだ。

であれば、大人もこの機会に学ぶことを始めねばならない、人を導く、悟りにも魔境にも導きえる「宗教」というものについて・・・。そこで1996年一年をかけて鎌田東二さんや仲間たちと取り組んだのが「宗教を考える学校」であった。また、そのころの出会いとして、私にとって大きなものだったのはティクナットハン師のヴィパッサナ=マインドフルネスであった。関西気功協会の友達であり、1995年のティクナットハン師の招聘の中心人物であった中野民夫さん(同志社大学大学院教授・著書『ファッシリテーション革命 参加型場作りの技法』他)たちとティクナットハン師の著作やヴィパッサナ瞑想の学習会をしていた。また、カナダに行く直前の井上ウィマラさんの瞑想にも参加して、私にとっての気功は、ヴィパッサナだな、と思ったのだった。気功をしながら今この時の心身に気づき続けること、微細な変化を全体として見守り続けること。それは、魅惑的な密教的エクスタシーとは異なる。しかし、ある境界を超えると微細でかつ圧倒的な至福がやってくるものである。この繊細な道はオウム真理教とはちがう、はずだ?!

ヴィパッサナが気功だというのは、考えてみれば当然なことかもしれない。仏教の瞑想において重要なのは「止観」である。これは集中と気づき=サマタとヴィパッサナである。そしてもっとこれについて細かくみてゆくなら、気功そのものは集中であり、それを見守り気づきつづけるという多層構想になる。言葉を変えて言うなら「体の中を体の中から感じる」ことでもある。

 

現在、この「気」や微細な身体感覚と仏教の瞑想に着いて、前出の田口ランディさんや、東京自由大学の現代霊性学講座第1弾の『仏教は世界を救うか』のパネリストであった藤田一照さん、マインドフルネスの瞑想をワンダルマ瞑想として普及されている山下良道さんなどが言及しておられる。しかし、これについて気功の世界の人間としたら、ずっと前からやっていますけど・・・と言いたくなる。ずっとやり続けているはずの事であるが、気功という技法と文脈の中で何をめざしているのか、それが如何に有効なものであるか、今一度検証の必要があるとも思う。私が体の中を体の中から感じる、ということに意識的なのは、表現と内的変化が一体であった前衛舞踏の世界で、様々な体験をしてから、気功に入っていったという個人的な要因も関係している。これについての省察は、「1990年代波乱の気功世界」とは別項を設けなければならない。

 

さて次回は、オウム真理教の事件をきっかけに、気と身体と意識について「宗教」という形で現れるものを一年かけて点検した「宗教を考える学校」について紹介したい。

 

 

 

鳥飼 美和子/とりかい みわこ
気功家・長野県諏訪市出身。立教大学文学部卒。NHK教育テレビ「気功専科Ⅱ」インストラクター、関西気功協会理事を経て、現在NPO法人東京自由大学理事、峨眉功法普及会・関東世話人。日常の健康のための気功クラスの他に、精神神経科のデイケアクラスなどでも気功を指導する。
幼いころ庭石の上で踊っていたのが“気功”のはじめかもしれない。長じて前衛舞踏の活動を経て気功の世界へ。気功は文科系体育、気功はアート、気功は哲学、気功は内なる神仏との出会い、あるいは魔鬼との葛藤?? 身息心の曼荼羅への参入技法にして、天人合一への道程。
著書『きれいになる気功~激動の時代をしなやかに生きる』ちくま文庫(2013年)、『気功エクササイズ』成美堂出版(2005年・絶版)、『気功心法』瑞昇文化事業股份有限公司(2005年・台湾)