アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その7   

鎌田東二

 

 

12、NPO法人東京自由大学の2014年新規講座「世直し講座」のマニフェスト~東京自由大学の世直しとは?  

 

2014年度が始まった。NPO法人東京自由大学では、新規講座の「世直し講座」が始まった。

第1回目が2014年4月26日(土)に行なわれ、海野和三郎学長とわたしが第一部で話をした。第二部では、歴代運営委員長(初代:鎌田東二。二代:樫村武子、三代:岡野恵美子、四代:鳥飼美和子)、歴代事務局長(初代:平方成治、二代:篠部幸雄、三代:酒井孝、四代:井上喜行)の内酒井孝さんと井上喜行さん、次世代の若手代表として辻信行君に話をしてもらい、参加者の中から金井重さんがまとめの話をしてくれた。

まことに、NPO法人東京自由大学らしい初回のスタートとなった。

その「世直し講座」の初回資料としてわたしが作成した資料を今回のEFG原稿として提示したい。海野和三郎学長の資料は、京都大学こころの未来研究センターが2014年5月に発行予定の『こころの未来第12号』掲載予定の「科学研究教育徒然草」と太陽光エネルギー活用集光器の説明図であった。その他のわたしの関連資料として、最近の関連新聞記事などを付加した。

 

改めて思うことは、15年間、よく続いてきたということと、しかし、それにはある流れというか、必然というか、神ながらの道があったということである。

わたしは、20歳にして、「人に笑われるリッパなニンゲンになりたい」と志を立て、それに向かって愚直に進んできた。それが、「楽しい世直しをする」という命題と「現代の縁の行者になる」という実践となった。

神田での前のビルでは、4階にNPO法人東京自由大学の事務所兼教室があり、5階の屋根裏部屋を初代横尾龍彦学長とわたしが借りた「ムーンサルト・プロジェクト」の事務所&ギャラリーがあった。

その「ムーンサルト・プロジェクト」は、わたしが1991年4月から2003年3月まで12年間務めた武蔵丘短期大学の退職金のほとんどを使って、有限会社を設立し、その社長をシンガーソングライターの曽我部晃さんに就任してもらい、「楽しい世直し」を展開してもらうことにした。  

その「ムーンサルト・プロジェクト」の「楽しい世直し」の活動は十分展開しきれなかったが、わたしの考えは『神様たちと暮らす本』(PHP研究所、2005年)でほぼ全面展開した。

2003年2月17日付けで、その頃満月の夜に「ムーンサルト・レター」と称して文通していた心理占星術研究家の鏡リュウジ氏との「リュウジとトージのムーンサルトレター」に次のように書いた。

 

<わたしは、東京自由大学前学長(現在・同特別顧問)の瞑想画家の横尾龍彦氏と千代田区神田紺屋町5番地 野水ビル5階に芸術創造スペースを借りました。「神田」紺屋(今夜)町のここを拠点に、わたしじしんの後半生の芸術活動を発信していきたいと夢を抱いています。そしてゆくゆくは、このカンダと、Parisのカルチェ・ラタンやサン・ミッシェルを二つの拠点にして、平和と芸術と霊性の探究の活動をしていきたいと心に期しています。そのスペースの名前は、「横尾スタジオ&Moonsault Project」と言います。その開所式を先月末の1月30日に行ったのです。ちなみに、東京自由大学は同じ野水ビルの4階に引っ越しましたので、上と下のご近所となります。

その東京自由大学の副理事長で、映画監督の大重潤一郎氏のドキュメンタリー作品「小川プロ訪問記」(62分、2001年リメイク製作、原作1981年)が、このたびのベルリン映画祭フォーラム部門の正式招待作品となり、このため、大重監督が2月13日から16日までベルリンに行くことになりました。同映画祭では、この作品は2月13日と15日の2度公開上映され、NETPAG部門(アジア映画部門)の有力受賞作品の対象となっていましたが、残念ながら受賞は逃したようです。

この映画の内容は、大島渚監督が、1981年夏に小川プロの小川伸介監督を訪ねていって、対論したのをまとめたもので、日本映画の歴史的な記録としても価値があります。大重監督は、これまで「黒神」(1971)、「風の島」「光の島」(1995)、「縄文」(2000)、「ビックマウンテンへの道」「魂の原郷ニライカナイへ」(2000)などのドキュメンタリーを撮り続けてきました。  

昨年、沖縄に移住し、昨12月にNPO法人「沖縄映像文化研究所」設立を沖縄県に申請し、今月末には認証される予定です。腰を落ち着けて、沖縄をドキュメントしていくとのことです。同研究所の筆頭理事として民俗学者の比嘉政夫さん、顧問として哲学者の梅原猛さんや宗教学者の山折哲雄さん、評議員として宗教学者の中沢新一さんや町田宗鳳さんが協力・支援してくれています。わたしも理事の一人です。同研究所は、会員を募集しています。また、それとは別に、3月以降に「久高島オデッセイ製作委員会」を立ち上げる予定です。これは、これから12年かけて、久高島の生活と祭祀を撮り続けていく仕事を支援する会です。これも応援していきたいと思っています。(会員申し込み・問合せ先:沖縄県那覇市上間1-28-1 NPO法人沖縄映像文化研究所 理事長大重潤一郎 TEL&FAX098‐836‐5751)  

つい最近、大重さんの古層三部作(「縄文」「ビックマウンテンへの道」「魂の原郷ニライカナイへ」)の仕事を世界に発信するために、二人で協力して「縄文革命(Jomon Revolution)」という37分のヴィデオ作品を作りました。その中に、わたしの神道ソング「弁才天讃歌」と「神」が使われています。(そのシナリオをホームページの「鎌田東二創作集」にUPしますのでご覧ください)。  

「神」という曲は、沖縄で作曲したものですので、縁を感じています。この曲の歌詞は、わたしがまだ「神道ソングライター」になっていなかった頃、伊勢の猿田彦神社の祭り(おひらきまつり、1997年)で沖縄からりんけんバンドを迎えて奉祝行事の記念演奏をしてもらったのですが、その時、新曲として「神」をいう曲を作ってほしいと、わたしが作詞して照屋林賢さんに渡したものです。残念ながら、沖縄の言葉(ウチナー語)で曲を作るりんけんさんに作曲してもらえなかったのですが、1998年12月22日、わたしは沖縄に行って喜納昌吉さんと対談した翌日、友人の那覇市文化協会の事務局長の佐藤善五郎さんを訪ねていく前に、少し時間があったので、朝の8時半ごろ、沖縄市役所前の喫茶店で時間をつぶすためにコーヒーを飲んでいた時に、ふとメロディが涌いてきて、それを「神」の歌詞と結びつけて作ったものです。ですから、この曲は、ギターやピアノを使って作った曲ではなく、どこから湧いてきたのか降ってきたのかわからないけれど、そうやってできた曲なんですよ。宙から降りてきた曲なんです。それが「縄文革命」に使われるというのは、感慨無量のものがあります。8 millions gods & goddesses の神ながらの意思を感じて。  

わが人生には不思議なことが山ほどありますが、天河大弁財天社とも不思議な縁です。1984年4月3日、わたしは太田千寿さんに降りてきていた三島由紀夫からの霊界通信を審神(さにわ)されたという天河社の宮司・柿坂神酒之祐さんに一人で会いに行ったのです。それが最初の天河訪問でした。それから100回以上は天河詣でをしているでしょうが、毎年、2月2日・3日・4日の3日間、わたしたちは「天河護摩壇野焼き講」という講組織を作って参拝しているのです。わたしにとって新年は、この行事から始まります。  

2月2日の夜、天河では「鬼の宿」と呼ばれる特殊神事が行われます。柿坂宮司家は役の行者の従者となった前鬼・後鬼のうち、前鬼の子孫だと言われています。そこで新年にご先祖様の「鬼様の霊」をお迎えする神事がこの「鬼の宿」となるのです。ここでは「鬼」は「神」であり、「祖霊」です。その「鬼様」を迎える二つの布団の枕元に「オニギリ」をお供えし、直会でもみんながオニギリをいただくのは、素朴ではありますが、神聖でもありご愛嬌でもあります。オニギリをほおばる人々の顔も実にほっこりと豊かです。  

その翌日、神社の節分祭では、「福は内、鬼は内」と叫びながら豆撒きが行われます。その夜、わたしたちの護摩壇野焼き講のために、護摩が焚かれます。今年は7回目の護摩壇野焼きの火が点され、翌日、わたしたちの作った陶器作品がその中から焼き上げられて出てきます。その護摩の火の前で、「神」「弁才天讃歌」「なんまいだー節」の3曲を奉納演奏しみんなで歌いました。  

「鬼」を「神」として迎え入れる心は貴重です。それこそ、神や仏の心ではないでしょうか。イラクや他の国々を「悪の枢軸」と決めつけるのは、それを「鬼」として排除しやっつけようとする心で、それがあるかぎり、戦いはなくなることはないでしょう。「悪」とは何でしょう? 「鬼」とは何でしょう?  

昔、アメリカとイギリスは、「鬼畜米英」と呼ばれていました。その差別的な発言をいいとは絶対思いませんが(なぜならわたしは「鬼」を「神」とし「畜」を「師(グル)」としている人間ですから)、アメリカやイギリスの非道が非難された歴史的事実を忘れてはなりません。アメリカはインディアンのホピ族やナバホ族の聖地を奪って、ウラン鉱を採掘し、日本に原爆を落としたのです。それは「悪」ではないのですか? それを「悪い」と言わずして、何を「悪い」と言うのでしょう? アメリカの論理は欺瞞と詐術に満ちています。昔から。ほんとうに「インディアン、ウソつかない。白人、みな、ウソツキ!」です。  

話がまた、米英批判に移ってしまいました。わたしたちは、護摩野焼きを祈りの神事として、縄文時代以来の野焼きの陶法とインド起源の密教の護摩と修験道の護摩をミックスして、現代の「縄文革命」を起こそうとしたのです。わたしたちの生活の足元から。それが7年にわたる天河護摩野焼き講の祈りであり、実験でした。大重さんの「縄文革命」の中には、インディアンの聖地・ビックマウンテンを守るナバホ族の老女性とそれを支援する日本人の活動を描いたドキュメンタリー「ビックマンテンへの道」が紹介されています。ぜひ、一度見てください。  

三島由紀夫は「日本を守る。日本の魂を守る」と叫んで、割腹自決して死んでいきましたが、太田千寿さんへの「霊界通信」に「日本をまほろばにせよ!」とメッセージを送りました。「まほろば」とは「まことにうるわしい土地」のことです。日本のみならず、アフガニスタンもイラクもアメリカもイギリスも、どこもを「まほろば」にすることが求められているのではないでしょうか? それが人間に課せられた課題ではないですか?それができなければ、人類は他の生物のために絶滅すべきだと思います。ほんとに。人類の自己犠牲が必要です。生命の尊厳を守るためには。  

「ヘドウィク・アンド・アングリー・インチ」は、1961年東ベルリン生れのゲイのパンクロッカーの物語ですが、このストーリー・テリングと映像と歌とパフォーマンスに完全にはまってしまいました。CDまで買いました。これについては、レターが長くなりすぎるので、次回にゆっくり話したいと思います。鏡さんはこの映画は見られましたか? もしご覧になっていたらぜひ感想をお聞かせください。わたしの中では、この10年間の映画ベストワンです。  

ところで、昨年末に「地球公共ネットワーク」を有志とともに結成しました。その結成趣意書はホームページの冒頭に掲載してありますが、2月22日・23日と千葉大学でこのネットワークが主催して、イラク非戦会議「地球的平和と公共性――イラク戦に抗して」と題して、会議を開きます。関心のある方がいれば、ぜひご参加ください。プログラムをレターの後に貼り付けておきますのでご参照ください。とても長くなってしまいました。それでは次の満月までごきげんよう。わたしは、3月に2週間ほどアメリカへ行き、いったん帰国して、すぐまたドイツとイギリスに10日間ほど行ってきます。初めてのアメリカ行きとなります。心して行ってきます。 2003年2月17日 鎌田東二拝>  

 

長くなったが、11年前にこんなことを書いていた。11年後の今もまったく変わらんなあ。成長ないなあ~。  

というよりも、「三つ子の魂百までも」ではないが、考えが子供の頃から、まったく成長していないのだね。幸か不幸か、馬鹿の一つ覚えのようにしか生きられなかった。  

それが、NPO法人東京自由大学の「世直し講座」になったのだった。生まれて来てから63年。そう、60年経って、「三つ子の魂」がやっと日の目を見たのだ。嬉しがるべきか、悲しがるべきか? どっちでもいいけど、やるべき務めを果たして死んでいきたい。  

その「三つ子の魂」の一端は、以下の通り。

 

参考資料 NPO法人東京自由大学 「世直し」講座~東京自由大学の世直しとは?   2014年4月26日 鎌田東二

1、「東京自由大学」の始まり~成り立ちから考える

①天河曼陀羅実行委員会(1992年~1997年)

②宗教を考える学校(1996年~1997年、天河曼陀羅実行委員会の最後の活動)

③猿田彦神社おひらきまつり(1997年~2009年)

④天河護摩壇野焼き講(1997年~現在に至る)

⑤神戸からの祈り(1998年8月8日:淡路島と神戸メリケンパーク、平成10年10月10日:鎌倉大仏)→「虹の祭り」「月山炎の祭り」

⑥東京自由大学(1998年5月に最初の創立趣意書を書き、11月25日に創立宣言書作成。1999年2月20日に、「ゼロから始まる芸術と未来社会」と題する設立シンポジウム開催)いよいよスタート。

 

東京自由大学設立趣旨 (1998年11月25日記)

<NPO法人東京自由大学HPより>  

21世紀の最大の課題は、いかにして一人一人の個人が深く豊かな知性と感性と愛をもつ心身を自己形成していくかにある。教育がその機能を果たすべきであるが、さまざまな縛りと問題と限界を抱えている既存の学校教育の中ではその課題達成はきわめて困難である。 そこで私たちは、私たち自身を、みずから自由で豊かで深い知性と感性と愛をもつ心身に自己形成してゆくための機会を創りたいと思う。まったく任意の、自由な探求と創造の喜びに満ちた「自由大学」をその機会と場として提供したいと思う。 私たちは、特定の宗教に立脚するものではないが、しかし、宗教本来の精神と役割は大変重要であると考えている。それは、それぞれの歴史的伝統と探求と経験から汲み上げてきた叡知にもとづいて、人間相互の友愛と幸福と世界平和の希求と現実に寄与するものと考えられるからである。私たちはそれぞれの宗教・宗派を超えた、「超宗教」の立場で宗教的伝統とその使命を大切にしたいと願う。そして、人格の根幹をなす霊性の探求と、どこまでも真なるものを究めずにはいない知性と、繊細さや微妙さを鋭く感知する想像力や感性とのより高次な総合とバランスを実現したいと願う。  そのためにも、何よりも自由な探求と表現の場が必要である。自由な探求と表現にもとづく交流の場が必要である。  そして、その探求と表現と交流を支えていくための友愛が必要である。探求する者同士の友愛の共同体が必要である。私たちが生活を営んでいるこの大都市・東京のただ中に、魂のオアシスとしての友愛の共同体が必要なのである。  かくして私たちは、この時代を生きる自由な魂の純粋な欲求として「東京自由大学」の設立をここに発願するものである。 「東京自由大学」では、「教育とは本質的に自己教育であり、自己教育は存在への畏怖・畏敬から始まる。教師とは、経験を積んだ自己教育者であり、それぞれを深い自己教育に導いてくれる先達である」という認識から出発する。そして、(1) ゼロから始まる、いつもゼロに立ち返る、(2) 創造の根源に立ち向かう、(3) 系統立った方法論に依拠しない、いつも臨機応変の方法論なき方法で立ち向かう、をモットーに、勇気をもって前進していきたい。組織形態、運動体としてはNPO(非営利組織)法下のボランタリー・スクール法人として運営および活動をしていきたいと準備している。また地震など、災害・事件時のボランティア的な互助組織として機能できるように行動したい。自由・友愛・信頼・連帯・互助を旗印に進んでいきたい。 みなさんのご参加を心待ちにしています。              

1998年11月25日  鎌田東二

設立発起人(10名、肩書きは当時のもの)鎌田東二(東京自由大学教頭、武蔵丘短期大学助教授・宗教哲学)、横尾龍彦(東京自由大学学長、画家)、福澤喜子(東京自由大学顧問、香禅気香道、感性塾主宰)、長尾喜和子(東京自由大学顧問、ギャラリーいそがや元代表)、池田雅之(早稲田大学社会科学部教授)、宮内勝典(作家)、大重潤一郎(映画監督)、原田憲一(山形大学理学部教授)、川村紗智子(陶芸家)、平方成治(東京自由大学事務局長、西荻WENZスタジオ代表)

 

2、2014年4月に行なった3つのシンポジウムと1つの講演

① 4月6日:2014年宗教者災害支援連絡会

② 4月11日~12日:ダライ・ラマとの対話(Mind&life Instituteと京都大学こころの未来研究センター共催)

③ 4月19日:新日本研究所「土・水・火・空を問う-世界連邦都市綾部から」シンポジウム

④ 4月23日:韓国慶州・東国大学での講演「アジア共同体の構築に向けた仏教と宗教の役割~日本の宗教文化の視点から」

 

3、「世直し」の辞書的意味『世界大百科事典』第2版(平凡社、2008年)

もともとは,縁起直し,世の中の悪い状態を直すことを意味する語として,また地震,雷などを除ける呪(まじな)いの言葉として,17世紀末ごろから都市民の間で使われた言葉である。

 

4、「世直し」と「世直り」 「世直り」としての「地震=地新」

 

5、「心直し」としての仏教=心のスキャニング技法=ヴィパサナ瞑想

 

6、「世直し」宗教~幕末維新期の新宗教 ①黒住教・天理教の「陽気ぐらし」 ②金光教の「取次」(神とのカウンセリング?)=「心直し」? ③大本教の「世の立て替え建て直し」=世直し運動

 

7、鎌田東二および「東京自由大学」に影響を与えた先行思想と運動

①「マルクスは菩薩である」(1974年?「比較思想学会」大会での玉城康四郎教授の言葉)

②宮沢賢治の「羅須地人協会」の理念(『農民芸術概論綱要』)と活動

③出口王仁三郎の「明光社」の理念(「スサノオの道」)と活動→「身心変容技法研究会」

④ルドルフ・シュタイナーの理念と活動

⑤柳宗悦の「民藝」の理念と運動→「モノ学・感覚価値研究会」

 

8、「現代の縁の行者」として~1985年、天河大辨財天社で自覚

 

9、「世直し」とは?

① 創造性の煥発

② 友愛ネットワーク

③ 万類共和

④ 多元コミュニオン

⑤ 多様・共在・協働

⑥ 奇人変人・山賊海賊・よそ者・若者・馬鹿者(変わり者)の活用・活動

 

“Mapping the Mind” (2014年4月11日~12日)

Kyoto, Japan, 11 April 2014 - A two day dialogue between scientists and contemplative scholars and practitioners focussed on the theme ‘Mapping the Mind’ in Japan’s erstwhile capital, Kyoto, began promptly today. Arthur Zajonc, President of the Mind & Life Institute and Sakiko Yoshikawa, Director of the Kokoro Research Center, Kyoto University were brisk in their introductory remarks. They invited His Holiness the Dalai Lama to open the proceedings, which he did. His Holiness the Dalai Lama greeting the audience at the start of the first day of the two day conference on "Mapping the Mind" in Kyoto, Japan on April 11, 2014. Photo/Jeremy Russell/OHHDL “Spiritual teachers, scientists and brothers and sisters, I always emphasise the need for a sense that we are all members of one human family. From that point of view we are all brothers and sisters. I’m extremely happy that this meeting is taking place here in Japan. Mind & Life meetings have been happening for more than 25 years, but I have been keen that they should also be held in an Asian country where Buddhist ideas are historically part of the culture. In our discussions with scientists about mind, much of the understanding of the mind comes from ancient India. My own understanding is based on the Buddhist science of mind. This is not to say we have ever talked about past and future lives, liberation or emptiness, those are topics that are properly the business of Buddhists. We have confined ourselves to discussions of the mind, brain and so forth, which is why I think we can refer to conversations between Buddhist science and modern science.

 

” 対話の目的:①「人類の知識の範囲を広げること」②「こころが穏やかな状態を研究することによって人類の幸福を促進していくこと」

「仏教は相互依存の概念を掲げる唯一の宗教」「相互依存の概念は、現代科学の基本概念と一致」「仏教は、哲学・科学・宗教の主に三つの側面から考えることができる」「宗教的な側面では原則や修行などを伴うため仏教徒に限られるが、相互依存を扱う仏教哲学、そしてこころや感情を扱う仏教科学は、大きな恩恵をもたらしてくれる」「仏教科学は、こころや感情をさまざまな面から詳細に理解することを第一に専心してきた。こころや感情は、現代科学において比較的まだ新しい分野である。ゆえに、現代科学と仏教科学は重要な知識を互いに補い合うことができるだろう。私(ダライ・ラマ14世)は現代科学と仏教科学、それぞれのアプローチの統合が、身体・感情・社会のウェルビイングを増進するための発見に繋がると確信している」

①哲学としての仏教

②科学としての仏教

③宗教としての仏教

Universal Responsibility(普遍的責任)人類全員の責任

リチャード・デヴィッドソン(ウィスコンシン大学教授)「こころを変えて脳を変える:瞑想の脳科学的研究」 【神経可塑性、遺伝子のon/off、利他性、感情の制御などの諸問題】

東国大学での講演の結論

①宗教文化(心を見つめる。仏教瞑想・慈悲の精神)

②芸術文化のちから

③人的つながり

④感情の共同体(共有できる価値の構築)

⑤理知的認識

⑥理想・願・意志の志向性

京都新聞 四月二十日朝刊
京都新聞 四月二十日朝刊
平和のワザヲギ
平和のワザヲギ

公共的宗教の必要と可能性

① 地球的平和

② 公共哲学

③ 公共的宗教

④ 「平和の感覚・平和のワザオギ・平和の創造」(鎌田東二)  

 

今、地球全体の気候に異変が起こっている。日本列島では、台風、豪雨、地震、吹雪、竜巻などによる被害が急増している。世界的に見れば、地球温暖化現象 が起こっている中、自然と人間と文明との関係構築が問い直されている時代だといえる。  

2011年3月11日(「3・11」)に日本で起こったマグニチュード9という1000年に1度の規模の「東日本大震災」は「福島原発事故」も含め、未 曾有の大災害となり、現在も日本の社会に深刻なダメージを与えており、未来の社会ビジョンが構想できないでいる。

加えて、時々刻々と激しく変化する国際情勢は、21世紀初頭の2001年9月11日(「9・11」)にニューヨーク同時多発テロ事件が起こって以後の世界 は、世界秩序の再編成期に突入しているものの、そこでもいまだ明確な見取り図が描けず、深い混乱の中にあるといえる。

「国際」とは、日本語では、「国」の「際(きわ)」と書くが、国と国との間、際(きわ)、ボーダー(国境・境界)で、今大きな摩擦が起こっている。ハー ヴァード大学教授の政治学者サミュエル・P・ハンチントン(1927~2008年)は、文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)で紛争が起こり激化 すると予測的指摘をしたが、対極的にみると、事態は彼の予測に近い状態になっている。

自然環境問題・人口問題・エネルギー問題など、地球史的・人類史的・世界史的規模で解決や調整を迫られている問題に加えて、政治・経済・文化(教育・地域 共同体・家族など)のさまざまな領域でも大きく深刻な問題を抱えているのが現代社会・現代世界である。  

そうした中で、大韓民国東国大学校で「アジア共同体の構築に向けた宗教の役割」について講演させていただく機会を得たことを心より感謝申し上げたい。  

最近の中華人民共和国や大韓民国との国境の領土問題に起因する「反日運動」の高まりを見ていると、「アジア共同体の構築」というテーマが非現実な理念で あるかに見えてくる。

確かに、この十数年、市場経済の波の中では、「ヨーロッパ共同体(EU)」のような「アジア経済共同体」の下地は整いつつあった。だが、2012年9月以 来、政治的には、国境・領土問題を含め、日本と中国、また日本と韓国との対立が際立ちつつある。

そうした中で、「アジア共同体の構築に向けた宗教の役割」とは何であるか、日本の宗教文化を紹介しつつ考えていきたい。

 

第一章 「アジア共同体の構築」とアジアの宗教文化~仏教と神道を中心に

私は、長年、日本の宗教文化、とりわけ「神道」を仏教や他の宗教と比較しつつ研究してきた。その観点から、「アジア共同体の構築に向けた宗教の役割」につ いて、考えるところを述べていきたい。

結論を先取りしていえば、仏教や儒教や道教や神道など、伝統的な宗教文化を総動員しながら、宗教を通じた共通要素の自覚と相互理解を深め、共通性ととも に、それぞれの国の宗教文化の多様性についての認識を基に、未来に向かって友好的な相互扶助や協働実践をしていくことが、「アジア共同体」を支える精神的 なアジア共同性になっていくと考える。

このような視点から、まず本章では、特に仏教を中心に比較宗教学的な視点から考えてみたい。

伝統的に「東アジアの宗教」として重要なものは、仏教と儒教であった。加えて、近代になって、キリスト教も大きな影響を与えることになる。しかし、中国で も韓国でも日本でも、土着の宗教文化の根底にあるのはシャーマニズム、すなわち「鬼道」であり、中国ではこれが道教に吸収され、日本では神道に吸収され た。道教と神道には、自然崇拝や「道」の思想や先祖崇拝において、共通の要素があるが、大きく異なるところは、神道がほとんど「神像」を持たないところと 国家や共同体社会との強い結びつきがある点である。

「東アジアの宗教文化」の中で、日本に独自な宗教は「神道」であるが、その「神道」は、「世界宗教」と言われる仏教やキリスト教のような「教え型の宗教」 ではない。「神道」には明確な「教義」はなく、「教祖」も「教団」もない。「神道」の具体的な表現である「神社」は教団ではなく、伝統的な共同体や国家の 祭祀場ないし祭祀機関であった。

仏教が「悟りと慈悲の宗教」であり、キリスト教が「愛と赦しの宗教」であるとするなら、神道は「畏怖と祭りの宗教」であると対比できる。

仏教の創始者「ブッダ」とは、「悟りを得た者」、「覚者」の意であり、その悟りを覚心として衆生済度に立ち向かうことが慈悲の発露であった。それに対し て、キリストとはメシア、すなわち救世主を意味し、神の意思と愛が人間に受肉した存在とされ、その神の愛の結晶であるキリスト・イエスの生命の言葉が人類 の罪の赦しを伝える福音となる。  

「宗教」の指標として、①教祖、②教義、③教典、④教団の存在を挙げることがある。それに倣って言えば、仏教は、①ゴータマ・シッダルタ(釈迦・釈尊・ 仏陀)やその弟子たちが、②無我・無常・縁起・空・菩薩などの教義を説き、③『スッタニパータ』や『法句経』や『法華経』や『般若心経』などの経典を編纂 し、④古くは上座部系と大乗仏教系に分かれ、さらに密教が分派し、日本では各宗祖の体験と判断に従って天台宗、真言宗、禅宗、浄土真宗などの教団を組織し 活動してきた。  

儒教は、①孔子や孟子や朱子やその弟子たちが、②仁や礼など、五常(仁義礼智信)および五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)などの道徳的教えと聖人君 子の道の実践を説き、③四書五経(論語・大学・中庸・孟子、詩経・書経・礼経・易経・春秋経)などの経典を編纂し、④諸種の学派や学院が作られ、中国や朝 鮮や日本の国の治政の重要施策としても取り入れられ、大きな政治的・精神的影響力を持った。 キリスト教は、①イエスとその弟子たちが、②愛と赦しと神の国の到来を教義や信条とし、③『新約聖書』を最高の教典として、④ローマン・カトリック教会や プロテスタント教会やギリシャ正教会などの教団活動を行なってきたといえる。

イスラームは、①マホメット(ムハンマド)とその弟子たちが、②六信五柱を教義とし、③『コーラン(クルアーン)』を最高の聖典として、④スンニ派、シー ア派、スーフィズムなどの教団活動を行なっている。

このような捉え方が、多くの現代人の一般的な「宗教」理解であり、イメージであろう。  

そうした観点から見ると、「神道」には、①教祖はいない、②教義はない、③教典はない、④教団はない、「宗教」らしからぬ「宗教」である。

もちろん、日本最古のテキストである『古事記』(西暦712年編纂)や『日本書紀』(西暦720年編纂)や『風土記』(8世紀半ばに編纂)には神話的な記 述はあるし、神社ではさまざまな祭祀が今も行われており、法律的にも神社は宗教法人であるから、「神社(神道)」はれっきとした「宗教」と考えられてい る。

が、それは、教祖が作ったものでもなく、教義が説かれたものでもなく、教典として宗教的活動の拠り所とされているものでもなく、教団としての統一した組織 と活動を持つものではない。とすれば、神道は「宗教」ではないのだろうか。  

宗教には「伝え型の宗教(伝承系宗教)」と「教え型の宗教(説教型宗教)」の二種があるが、神道は「教え型の宗教」ではなく、典型的な「伝え型の宗教」 である。仏教やキリスト教やイスラームなどの世界宗教・創唱宗教は開祖(教祖)を持つが、神道は起源も不明で開祖も持たない、神話や儀礼として部族や民族 の伝承の中に伝えられてきた「伝え型の宗教」であり、「伝承」という共同性に支えられている。  

この「伝承」という共同性を支えている基台は言語であるが、たとえば「ちはやぶるカミ」という言葉はそのような共同伝承性をもっとも深いところから支え る根源語である。  

そのような神道の根源語の一つに「まつり(祭り・祀り)」という語がある。「まつり」には、①待つ、②奉る、③服ろうなどの語源説があるが、総合して言 えば、祭りとは、神霊の到来を待ち、神饌や奉納芸能などを奉り、神々の意思に従い、存在の大いなる調和・釣り合い・バランスを実現しようとする行為であ り、神道的世界観の集結点をなすものである。  

神道的世界観を具体的に表現したものが、「まつり」である。この「まつり」がすべての生活と制度の基本であったから、「祭(まつり)」も「政(まつりご と)」もともに「まつり」と呼んだ。

その際、「祭」を先とし、その実施に基づいて「政」が行われた。それは、祭祀と政治の補完関係、祭政の協力・相補作業の重要性を示すものである。

以上のように、神道に「教典」はない。神道は教えの宗教ではなく、「まつり」の業を踏み行う道として先祖代代伝えられてきた伝承文化だからである。それ ゆえに、神道は「神教」ではなく、「KAMI―WAY」すなわち「神の道」あるいは「神ながらの道」を呼ばれた。日本民族の神話や歴史をある意図を以って 記した『古事記』や『日本書紀』はしたがって神道の「教典」ではなく、「いにしえぶり」を伝える先祖伝来の物語の記録として尊重された。  

ところで、神話と仏教は、本来何の関係もなかった。もともと、仏教の創始者であるゴータマ・シッダルータはインド古来の伝承体系である神話や呪術や民間 信仰を否定し宗教改革を実践した革命的人物であった。彼は伝承の中に生きた人ではなく、「真理=法(ダルマ)」に覚醒した人物、悟りを開いた人物である。 それがブッダ(仏陀)である。かくしてブッダの道は仏教、すなわち悟りを開いた人の説く真理の教え(仏法)であり、悟りを求めて修行するブッダへの道、す なわち仏道である。ブッダは神話的思考を否定して、あるいは超えて、世界の現象をありのままに見つめるところから真の人の道、悟りないし解脱の道を実現し ようとした宗教の革命児である。ここに、伝承文化としての神道と伝承文化への批判と超越としての仏教の原理的違いがある。  

ブッダは霊的世界観や欲望の霊的実現ともいえる現世利益信仰に決定的な切断を入れた。彼は呪いや占いを決然と否定した。仏教の最初期の経典『スッタニ パータ』には、古来の神聖伝承体系である『ヴェーダ』的呪術を否定する教えが述べられている。  

ここではバラモン教的な『ヴェーダ』祭式は明確に否定されている。とりわけ、『アタルヴァ・ヴェーダ』的な世界観や呪術的実践をはっきりと拒否している ことがわかる。神道や日本の民間信仰はヴェーダ的宗教文化と共通するところがある。  

ゴータマ・ブッダは、呪術や卜占の使用がどのような人間と社会と欲望を形成していくかをはっきりと見透した。観念が欲望を孕み、欲望の水路が観念を生み 出し、強化してゆく悪循環の理、すなわち輪廻転生の連鎖の仕組みと実態を見透し、シャーマンや祭司が行なうあらゆる呪術・宗教的身振りを超えて出てゆくこ とを通して、観念と欲望の脱神話化・脱権力化をはかった。 ブッダは、バラモン神学の知と権力と制度を、すなわち「この世とかの世とをともに」超え出ていこうとした。ブッダ的知とは、呪術からも宗教からも、アニ ミズムからもシャーマニズムからも、もっとも遠いところへ跳躍し、超え抜けてゆく知であった。かくして、ブッダはバラモン教的な旧来の呪術-宗教を知悉し た上で、「脱呪術化」の路線に踏み出した。

ブッダはさらに、バラモンに生まれればバラモンであるという旧来の階級主義や血統主義を否定し、人は生まれによってバラモンになるのではなく、その行為に よってバラモンになるのだと主張する。彼は「真のバラモン」あるいは「バラモンの完成」を主張しながら、バラモン教的なバラモン観を否定し超出する道を指 し示した。初期仏教は、シャーマニズム的な呪術的かつ霊的世界観からはっきりと距離を置いている。  

ブッダの教えはきわめて明確でありシンプルである。人は生まれ(血統)ではなく、行ない(行為)だという。そして、「真理」によって自らを制御し、欲望 を捨て、慢心や貪りや執着がない者を「憂いの垢を除き去ったバラモン」とし、煩悩を滅して「最後身」を保持する「如来」とした。  

「三宝」とは「仏法僧」を意味する。「仏」とは悟りを開いた者、「法」とはその悟りの内容であるところの「真理」。では、「僧」とは何か。「僧」とは本 来悟りを求めて出家修行し、仏教の道=真理を求める求道者の集団「僧伽(サンガ)」の意味であった。

神道における「神主」は、あるときには「神の妻」でありそれはシャーマニスティックなエクスタシーや性的豊穣儀礼と密接にかかわるものであったのに対し て、「僧」は性に対して禁欲的な態度をとることを通して、性を超越し、欲望やとらわれ、すなわち煩悩および執着を取り去ろうとした。のちに仏の相好として 三十二の福相があると伝えられるようになるが、その中の一つに、「馬陰蔵相」と呼ばれる相がある。それは、ブッダの男性性器が馬の性器のように隠れていて 見えないという相である。その相が性と欲望の超越を表しているとされる。ブッダはシャーマニズムも呪術も否定した。それはシャーマニズムが人間の欲望や苦 悩を倍化させることがあるのをよく知っていたからである。シャーマニズムによっては人間の苦しみは根本的に解決されることがないということをブッダは悟っ たのである。  

ブッダの悟りは、「無我」とか「無常」とか「縁起」とか「無自性」とか「空」とまとめられる。要するに、人間は一般的に物事を実体としてとらえ、それに 執着するところに欲望の自縄自縛や業が生起して、結局、輪廻の鎖から脱け出せないのだという考えである。したがって、おのれの欲望の根っこに何があるのか を「正見」し、徹底的にその実体のなさに気づくことが根本的に大事になる。こうして、仏教で説く「無我」も「空」も単なる無ではなく、関係性の相対性・相 依性・仮象性をあらわす概念となる。  

このようなブッダの宗教革命は、仏教教団の発展や各宗派の分立や諸種の経典の編纂などをとおして、実に多様な展開をとげ、貪欲にインド古来の民間信仰や バラモン教やヒンドゥー教を取り込んでゆく。そうした過程で成立してきたのが大乗仏教と密教であり、それらが朝鮮半島や中国からわが国に伝えられた。だ が、その仏教はブッダ的仏教というよりも、インドの民間信仰的な要素を含み持ち、さらに中国で漢訳されて中国化した習合仏教であった。特に、西暦9世紀初 頭に中国の唐から空海が招来した密教にはそのような特性が強い。

 

第二章 「神道」とは何か?

日本独自の宗教文化である「神道」について、作業仮説的に次のように規定する。「神道とは、旧石器時代からのさまざまな神観念や精霊観念、霊魂観念を受け 継ぎながら、1万年以上にわたる日本列島の風土の中で練成されてきた、神話と儀礼と神社を伝承の核とした世界観と信仰と儀礼の体系であり生活の流儀であ る」と。 先に述べたように、仏教を「悟りと慈悲の宗教」とし、キリスト教を「愛と赦しの宗教」だとするならば、神道は「畏怖と祭りと美の宗教」だと位置づけること ができる。

その「神道」は、明確な教義はないが、しかし、いろいろな「かたち」に表れている。その「あらはれ(表現)としての神道」を次の7つの観点から位置づけて みたい。

すなわち、

① 「場」の宗教としての神道――森(杜)の詩学、斎庭の幾何学・聖地学、場所の記憶

② 「道」の宗教としての神道――教えではなく、生活実践、いのちと暮らしのかまえ。いのちの道の伝承文化として

③ 「美」の宗教としての神道――もののあはれや気配の感覚地、清浄、すがすがしさ、感覚宗教、芸術・芸能宗教

④ 「祭」(儀礼)の宗教としての神道――祭祀による生命力の更新・鎮魂(たまふり)

⑤ 「技」(わざ)の宗教としての神道――具体表現の技術。ワザヲギの術。エロス

⑥ 「詩」(物語性・神話伝承)の宗教としての神道――世界やいのちを物語的にとらえる

⑦ 「生態智」(エコソフィア)としての神道――いのちのちからと知恵を畏怖・畏敬し伝承し、暮らしの中に生かす

という7つの観点である。つまり、神道は、「場」「道」「美」「祭」「技」「詩」として表れており、その表れの総体の中に「生態智」が息づいていると捉え るのである。

「生態智」とは、「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく、暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた、自然と人工との持続可能な 創造的バランス維持システムの知恵」である。「神道」には、そのような深層的な「生態智」が詰まっている。  

この神道の核心にある感覚は、存在への畏怖・畏敬、また感謝、おそれ、かしこみという言葉で表現される心意である。祝詞の中で定型化された表現である 「かけまくもかしこき、かしこみかしこみ」という言葉で、畏怖・畏敬と慎みを表現している。神に対して畏怖・畏敬と慎みの気持ちをもって接するのだが、神 は守護することも、祟ることもある。祭りを通して守護と幸を願い、祭りを欠かせば祟ることもある。その祭りを行う、後に神社になっていく斎庭は神々をまつ る場であり、時間と空間である。そしていのちとくらしの記憶貯蔵、伝承の蔵となる。  

次に、「神道」という日本列島に花開いた伝承宗教文化を考える際に、その基盤として、そもそも日本列島がどのような成り立ちをしてきたかを確認しておく ことが重要である。  

日本列島は、ユーラシア大陸から運ばれてきた砂や泥の体積と、太平洋などから移動してきた石灰岩やチャートなどの岩石が海溝で潜り込んでできあがった。 つまり、大陸側のプレートと海洋側のプレートの両方から成立している。海洋プレートの方は、堆積した最後や放散虫などからなる岩石で、大陸から太平洋側に 行くにつれて新しい岩盤になっている。そして、最終氷期が終わって、13000年前から12000年前に、大陸から完全に切り離されて、現在のような島嶼 列島になった。  

日本列島の最大の特徴は、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレートが張り出して、集合している「プレート習合列島」で あるところだ。大雑把にいうと、東日本は北米プレート、西日本はユーラシアプレート、伊豆半島や紀伊半島や南四国や南九州の一部はフィリッピン海プレー ト、太平洋諸島は太平洋プレートの上にある。

一つの国やまとまりのある文化を持つ地域で、四枚ものプレートが重なり合っているプレートの十字路のようなプレート密集地帯は、世界中を探しても日本列島 だけである。その意味では、日本列島は大変特殊な地質学的条件を持っている。  

四つのプレートが、十文字のように組み合わさっているのが日本列島である。十文字とは、まず、フォッサ・マグナという南北の縦のライン、次に、中央構造 線という東西の横のラインで、この十文字にクロスしていることが、「習合」という、日本の自然・文化特性を生み出している自然地理的な条件である。

日本列島がこのような「プレート集合(複合)」の成り立ちを持つことに加えて、二種の暖流すなわち黒潮(日本海流)と対馬海流、さらにまた二種の寒流すな わち親潮(千島海流)とリマン海流という四種の「海流複合」を持ち、また西日本や低地日本の照葉樹林帯と東日本や高地日本のブナ・ナラ林帯という二種の森 林複合を持っているという、複雑性と多様性のるつぼであることを強調しておきたい。  

このような地質学的かつ自然地理学的な習合特性に、歴史地理学的な習合特性が加わってくる。すなわち、北方、西方、南方の三方から、半島的要素(朝鮮半 島から)、大陸的要素(中国大陸から)、南島的要素(東南アジアの島嶼から)が入り込んできて、ハイブリッドな文化・文明習合が生まれたのだ。さらには、 近代以降、特に1945年の敗戦後以降は、東方からアメリカ的要素が入ってきた。

このように、日本列島はプレート、気候、海流、動植物相、環境、生態系のすべてにおいて、実に多様、多層、多元的な「やおよろず(八百万)」的な習合構造 としてできあがっている。つまるところ、プレート集合と文化集合の集結点ないし環太平洋祭祀文化が「神道」の基盤であり、日本列島に展開してきた「神道」 は、日本列島の自然と文化の立体交差点なのである。  

こうした地点に、「神道」という土着型宗教と「仏教」という伝来宗教が「習合」して、「神仏習合」という独自の宗教複合の習合文化を生み出していく。この「神仏習合」文化は、現在に至るまで日本文化の通奏低音をなしている。そしてその上に、「神儒習合」思想も生まれた。  

私は、「神仏習合」という文化習合が練り上げられる遥か以前から、日本列島は四つの「プレート習合」の地で、そこに東西南北から四つの海流が流れてきて 合流するという海流の十字路でもあり、そんなプレートや海流の合流点に、いろいろな「カミ」が合流してきて、そこに「神神習合」の文化特性ができていたと 考える。その上に、ようやくにして、六世紀なって仏教が朝鮮半島から伝えられ、さらには中国大陸から伝えられて、在地の神道と交じり合う「神仏習合」がで きてきた。そこで、「神仏習合とは神神習合の一分枝(ブランチ)である」と主張しているわけである。

 

第三章 「カミ(神)」とは何か?――聖フォルダ  

「カミ(神)」という語は、喩えて言えば、パソコンの「フォルダ」のようなものである。さまざまな情報や形態や状況を、とりあえずその中に入れ込むこと で、関連するものをすべて包み込む。「神」とは日本人が抱いてきたある特定の聖なる感情や情報や力や現象を取り込んだ「フォルダ」である。

実際、神威・神格・霊性を表わす言葉には、イカヅチ(雷神)、カグツチ(火神)、ノヅチ(野神)、ククノチ(木神)、ミズチ(水神)、ヤマツミ(山神)、 ワダツミ(海神)、ムスヒ(産霊)、ナオヒ(直霊)、マガツヒ(禍霊)、モノ(物)、ヌシ(主)、タマ(魂)、オニ(鬼)、ミコト(命、尊)など、実に多 くの言葉と観念がある。

つまり、チ系、ミ系、ヒ系、モノ・ヌシ・タマ・オニ・ミコト系などの神威・神格・神性、霊威・霊格・霊性を表わす「ファイル」群があり、そうした自然の森 羅万象の動きの中に「カミ(神)」の生成と顕現を見てとる感知力が、最終的に「カミ(神)」という統合「フォルダ」の中に織り込まれていったのである。

宗教学者はそうした森羅万象に魂や神の宿りと力のはたらきを見る感知力を「アニミズム」とか「マナイズム(プレアニミズム)」とかと呼び、哲学者は「汎神 論」と呼んできた。

例えば、作家の遠藤周作(1923~1996年)は『深い河』(1993年)の中で、フランスの修道院で神父になるための勉強をしている大津という神学生 が、お前の考え方の中には汎神論的な考え方があると厳しく批判され、苦悩する場面を描いている。大津は言う。「神学校のなかでぼくが、一番批判を受けたの は、ぼくの無意識に潜んでいる、彼等から見て汎神論的な感覚でした。日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論 理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります」と。大津はヨーロッパ的キリスト教に厳然と存在し続ける「生命」の「序列」や存 在の位階、あるいはヒエラルキーに納得できないものを感じる。

大津の中に潜んでいる感覚とは、“序列なき生命”に対する讃美や尊崇、言い換えると、“生命の根源的な平等性”への畏怖・畏敬である。大津はヨーロッパ人 の修道僧に向かって反論する。「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるのもではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包 み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」と。この「大きな命」に対する深い畏怖・畏敬と讃仰。大津の中にある根源的な感覚とはこうした“いのち” の宗教観である。

このようないのちの宗教文化は、「一寸の虫にも五分の魂」という格言や、「針供養」などの道具供養や「草木供養塔」などの民間信仰を生み出した。

18世紀の国学者の本居宣長は、主著『古事記伝』の中で、①古典に記されたカミ、②神社に祀られたカミ、③鳥獣・海山など、何事においても優れたところの ある畏こきもの、それらはみな「カミ」だと述べている。平たく言えば、「神」とは、とてつもなく「すごい」「きれい」「こわい」「ありがたい」物事への総 称である。

このような神道的な「カミ」の感覚に対して鋭い感知力を持った西洋人が、明治23年(1890)に来日して、松江中学の英語教師になったラフカディオ・ ハーン(小泉八雲、1850~1904年)であった。

ハーンは、『神々の国の首都』(1894年)と題する英語の本に収めたエッセイ「杵築(きづき)――日本最古の神社」の中で、船に乗って松江を出、遠く大 山の山を望み見ながら宍道湖を渡り出雲大社に向かう途中、光と大気の中に何か「神々しいもの」が宿っていると感じる。そしてそれこそが「神道の感覚」なの かもしれないと述懐している。空気や光や風の中に、精霊やスピリットを感知する繊細な感覚をハーンは持っていた。そのハーンの感知力は、小さい頃、母の故 郷のギリシャのレフカダ島や父の故郷のアイルランドで過ごした子供時代に養われたのかもしれない。自然の微妙な現象の中に「妖精」や「ゴースト」を感じ 取った子どもの頃の経験が「神々の国の首都」に来て、一挙に開花したのかもしれない。

ハーンは、西洋人として初めて出雲大社(杵築大社)の昇殿参拝を許されるが、その感動を次のように記している。「杵築を見る――それはとりもなおさず神道 の生きた中心地を見ることであり、知られざる太古の昔より今この十九世紀に至るまで、いささかも衰えることなく力強く脈打ちつづけた古代信仰の、生命の鼓 動にじかに触れることなのだ。(中略)仏教には万巻に及ぶ教理と、深遠な哲学と、海のように広大な文学がある。神道には哲学はない。体系的な倫理も、抽象 的な教理もない。しかし、そのまさしく「ない」ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。東洋のいかなる信仰もなし得なかったことである」 (『神々の国の首都』小泉八雲著、平川祐弘編、講談社学術文庫)。

ハーンは、「神道の生きた中心地」を見たという確信を持つ。そこには、太古から今日まで衰えることなく息づき、脈動してきた「古代信仰の、生命の鼓動」が あった。それに直に触れてハーンは、「神道」に「哲学」も「体系的な倫理」も「抽象的な教理」もないことの意味と強みを感じ取る。この、「ない」ことほど すごいことはない、それほど強靭なことはない、という逆説をハーンは洞察する。そして、「まさしく『ない』ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗でき た」と見てとる。

これに関連して、美術家の岡本太郎(1911~1996年)は『沖縄文化論――忘れられた日本』(1961年)の中の「『何もない』ことの眩暈」の中で、 沖縄の聖地である「御嶽(うたき)」を見て、そこに何もないことのすごさを発見する。「御嶽――つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も 建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過ごしてしまう粗末な小さい四角の切石が置い てあるだけ。その何もないということ素晴らしさに私は驚嘆した。これは私にとって大きな発見であり、問題であった」「あの潔癖、純粋さ。――神体もなけれ ば偶像も、イコノグラフィーもない。そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。神はこのようになんにもない場所におりて来て、透明な空気の中で人間と向か いあうのだ」。

ラフカディオ・ハーンの洞察を徹底すると岡本太郎の言葉となる。神聖な無の中で、確かに現われ出る神性や霊性がある。このような洞察は、遡ると、西暦12 世紀の平安・鎌倉時代の神道家卜部兼(うらべかね)友(とも)の著作『神道秘説』の「寂然無為円満虚無霊性を以て神道の玄旨と為す」「神道は円満虚無霊性 を守り生死の二法に渉らず」という所説に行き着く。

「円満」とは完全に充実し満ち足りることであるが、「虚無」とは一切が無いこと、存在以前の無である。とすれば、大変矛盾した言い方だが、完全な充実と完 全な欠如が同時存在するところに「霊性」があるということになる。そのようなパラドクシカルな「ない」ことの存在性が、「神道」や「神々」や祭りの場を編 み上げている。そしてそのまさに「ない」ことのエロティシズムが豊饒・多産に反転する“いのち”の孔を、神道思想は「むすひ」(『古事記』では「産巣 日」、『日本書紀』では「産霊」と表記)として表現してきたのである。

 

第四章 「カミ(神)」と「ホトケ(仏)」の原理的違い  

「カミ(神)」とは、日本人が抱いてきた聖なるものにして「霊性のフォルダ」であり、その「神フォルダ」の中に「八百万の神ファイル」がある。

こうして、さまざまな神威、神格、霊威、霊格、霊性を表わす「八百万の神ファイル」を全部ひっくるめて、一つの「フォルダ」として集大成したものが、 「カミ(神)」という名の一大フォルダである。  

そういう神フォルダや八百万神ファイルの文化土壌に、「仏菩薩」の信仰と思想と実践が根づくことになった。それが神と仏の日本文化史であり交渉史であ る。

本来、「仏」とは悟りを開いた人、すなわち覚者を意味する。ところが、日本では死者のことを「ほとけ」と言ったり、死ぬこと自体を「御陀仏」と言ったりす る。ホトケの指示領域が日本では悟った人ばかりか、悟りを得ていない死者をも指すように大幅に拡大されているのだ。このあたりにも日本文化や日本的思考形 態の特質が現れていると言ってよい。  

もともと、「仏」とは、世界と自己のありのままの姿を見抜いた人(「正見」した人)で、その仏教的真理とは、縁起、無自性、空、あるいは諸行無常といっ た、この世界を成り立たせている真の姿を言う。その姿・成り立ちを知ること(真理認識=悟り)によって、自分の中にある煩悩、苦しみ、迷いを解脱していく 叡知的存在(智慧ある人間)が「仏」である。そして煩悩と迷いを脱した真理認識者は解脱者とも覚者とも仏陀とも呼ばれる。ブッダは、煩悩の消滅した苦しみ のない状態(涅槃寂静・絶対平静・安心)に達し、苦と迷いの世界である此岸(俗世間)から彼岸(涅槃)に渡る。この苦からの解脱者であるブッダは、またの 名を「医王」と呼ばれ、「抜苦与楽(ばっくよらく)」を示す。  

端的にいえば、ブッダは知恵ある人間であり、それに対して、カミとは力ある諸存在(自然・動植物・英雄・先祖など)で、まったく異なる概念と歴史的文化 的文脈を持っている。それが「神仏習合」(神仏混淆)するのである。  

ここで、「神」と「仏」の原理的差異を三点に分けて説明してみたい。  

まず第一に、「神は在るモノ/仏は成る者」。神は、例えばイカヅチ(雷)などさまざまな自然現象として在るが、仏は修行して悟りを開くことによって「成 仏」する者=人間である。神は存在としてまた自然現象として「在る」のに対して、仏とはそのままの存在ではなくある修行や体験を通して覚者という意識段階 に到達した「成る」者である。この違いをまず認識しておく必要がある。  

第二に、「神は来るモノ/仏は往く者」。神はどこからか「まれびと」(民俗学者・折口信夫の提示した学術概念)や台風のように来訪する威力ある諸存在で あるのに対して、仏は彼岸に渡り煩悩なき悟りの世界すなわち涅槃寂静の世界に到達した人間である。したがって、神は来るモノである、仏は彼岸に往く者とそ の違いの対照性を示すことができる。  

第三に、「神は立つモノ/仏は座る者」。神は諏訪大社の御柱祭における「御柱」のように立つ威力ある存在であり、立ち現れるモノであるのに対して、仏は 坐り、座禅をして、その深い瞑想状態の中で「正定(しょうじょう)」し、解脱する者である。神は柱を数詞として持ち、仏は座や体を数詞として持つ。それを 表化すれば、次のようになる。

神と仏の原理的差異

① 神は在るモノ/仏は成る者 在神/成仏

② 神は来るモノ/仏は往く者 来神/往仏

③ 神は立つモノ/仏は座る者 立神/座仏  

以上見てきたように、神と仏は180度異なる。そのまったく異なる原理や志向性を持つ二つの神聖概念が、日本列島下の4枚のプレートのように互いに被さ り合い、潜り込み合い、重合を遂げていく。そして、両者はこの日本列島の文化土壌の中で融合・連携し、さまざまな独自のローカルな曼荼羅を生み出していっ た。那智宮曼陀羅とか山王曼荼羅や春日曼荼羅などの宮曼陀羅とよばれるものはその一つの表現(あらはれ)である。  

そこでは、那智の滝や比叡山や三笠山などの「自然物」が「御神体」とも「仏の御座所」ともされている。

 

第五章 スパイラル史観~「歴史は繰り返す」  

「歴史は繰り返す」とよく言われるが、よく似た時代性を繰り返す歴史の循環性を、わたしは、「スパイラル史観」として提起したい。

「スパイラル史観」とは、歴史はけっして直線的に発展ないし変化していくのではなく、螺旋構造的に前代および前々代の課題を隔世遺伝的に延引させ引き継ぎ ながら拡大再生産していくという歴史観である。

その歴史観は、古代と近代、中世と現代に共通の問題系が噴出しているとして、近代と現代を古代と中世の問題系の螺旋形拡大再生産の時代と見て取る史観の提 示であった。古代と近代の共通項とは、巨大国家の確立、すなわち帝国の時代の到来であった。古代帝国と近代国民国家の確立の中で覇権を争い、中央集権的な 国家体制の確立を見、植民地支配を含む「帝国化」の過程が進んだのが古代と近代の特性である。

対して、中世と現代には、二重権力や多重権力に分散し、権力と社会体制の混乱が深刻化する。日本では、源平の合戦や南北朝の乱や応仁の乱が続き、朝廷・天 皇と幕府・征夷大将軍という二重権力体制が進行し、西欧においても十字軍の戦乱により教会と封建諸侯に権力分散していくが、この時代はまた、宗教と霊性・ スピリチュアリティが自覚的に捉えられた時代で、日本では一向一揆などが起こり、現代の「パワースポット」ブームにも該当するような蟻の熊野詣や西国三十 三ヶ所などの聖地霊場巡りが流行した。同時に、この時代に「無縁・無常・無情」が時代的キーワードともなっている。政治経済や文化面だけでなく、自然その ものが繰り返し猛威を振るい、対策を講じがたい疾病が流行する。そんな「乱世」に突入していく。

以上のように、「スパイラル」は、日本の歴史において、古代と近代、中世と現代が対応する。日本古代においては7~8世紀初頭に唐をモデルとしてそれを改 編した日本型の律令体制(古代天皇制)を確立し、近代にあっては西欧をモデルとした立憲君主制(近代天皇制)・富国強兵・殖産興業を推進した。と同時に、「神祇官」の再措定など、古代律令体制への復興も企図され、平田派系国学者などは、たとえば矢野玄道の「橿原の宮に還ると思ひしは あらぬ夢にてありける ものを」の歌に表現されているように、神武天皇肇国の「橿原の宮」への回帰と期待を寄せたが、その「復古神道」的理念は次第に時代遅れなものとされ、「神 祇官」はいち早く廃止されはした。しかしながら、後に軍部主導の軍国主義的国民教化においては、平田篤胤などの国学思想は国粋主義的国体論として利用され もした。

もう一つの「スパイラル」は、中世と現代の対応である。私も「中世」の始まりを慈円(1155~1225年)の『愚管抄』(1220年頃)のように、保元 の乱(1156年)と「平治の乱」(1159年)という「武者(ムサ)の世」の台頭に見るが、同じ頃、中東・西欧においては、聖地エルサレム奪回のための 第二回十字軍(1147~1148年)と第三回十字軍(1189~1192年)が起こっている。第一回十字軍は(1096年~1099年)に起こってお り、日本では「末法の世」(永承7年・1052年)が始まったとされる。法然の師匠にあたる皇円の著した『扶桑略記』の永承七年正月二十六日のくだりに は、「今年始めて末法に入る」と記され、親鸞の出家得度の際の師僧にあたる慈円の著した『愚管抄』には、「末代悪世」の「武士の世」の「末法」の時代に なったことが述べられている。

慈円によれば、「乱世」の極みとは「道理」なき「世」(社会)ということになるが、まさに「末法の世」とは時代毎に作りかえられてきた「道理」がまったく 機能しなくなるような機能不全社会の到来であった。その時代に、律令体制からは外れた令外の官として「征夷代将軍」が任命され、朝廷と幕府という二重権力 体制が生まれることになる。こうして、日本中世には律令体制が大きく崩れ、「征夷大将軍」という令外の官が権力の中心となって二重権力構造が生まれるに至 るが、戦後の現代日本もまた米国という別種の「世界の警察」を自称する「征夷大将軍」に制圧され守護された二重権力構造の中にあるといえる。日本国憲法第 一条に規定された象徴天皇制は、そうした二重権力的な中世的ねじれと対応する。  

このように、いうまでもなく、中世は乱世であり、戦乱の時代であったが、その戦乱の時代であるがゆえに、平和を希求し、元号も元を保つ「保元」や平和に 治まる「平治」が採られたのであった。だが、その現実は「平和に治まる平治」とは正反対の「戦いに明け暮れる戦乱」の時代の幕開けだった。そしてその中世 は「心と霊性の時代」であり、「パワースポットブーム」ならぬ「蟻の熊野詣」ブームが起こった時代だった。末法思想と死体が目の前に転がる地獄のような乱 世の現実がそれを後押しした。武力と霊力、軍事力と呪術力とが拮抗しつつループしてしまうような「反対物の一致」(ニコラウス・クザーヌス)的で「絶対矛 盾的自己同一」(西田幾多郎)的な世界だったのである。

中世と現代に共通するキーワードは、「無縁」と「心」と「霊性」であった。その「無縁」は、「地縁・血縁・知縁・霊縁」という4つのチ縁の崩壊現象と連動 している。しかし同時に、そこには個化(孤化・個別化)と裏腹に「自由」が発生する。その「自由」とは、所属を持たない、つまり「縁」から「自由」である ということを表わしてもいる。したがって、「無縁」と「自由」は無関係であるどころか、密接に関与し合っている。

そのような、「無縁」と「自由」の中から、新たな「縁」の創出として、新たな「結縁」のかたちとして、法然の説く「選択本願念仏」、つまり、「南無阿弥陀 仏」という六字の名号を唱えることによって救われるという称名念仏が生まれてくる。そこでは、阿弥陀如来の「本願」に「縁」が「結縁」されることによって 救われるという「信心」が説かれた。また、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることによって、法華経から発信される「久遠実成の本仏」の真理と慈悲に与 かるという救済原理が日蓮によって説かれた。 このような、「スパイラル史観」に基づく「現代大中世論」を唱えてきた場所から、さらに、

① 神神習合時代(カミも多種多様に習合した時代。その典型・代表が天照大神と大国主神や八幡神や稲荷神や諏訪神で、それらは複数の神々の集合体であった)

② 神仏習合時代(神仏相補・神仏補完・神仏併存・神仏隔離を含む時代) ③ 神仏分離時代(神仏を政策的に、いわば強制離婚させた時代)

④ 神仏諸宗共働時代(新神仏習合時代、神仏諸宗共働き時代)

に向かう「霊性」と「生態智」の探究に向かいたい。

 

まとめ~「アジア共体」に向かう「霊性と生態智」と「平和を生み出すワザ(arts of peace)」の探究と確立  

私たちは2012年10月13日(日)、友人たちと次のような趣旨の催しを開催した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 対話型集会 「友愛平和の風を吹かせるために――これからの平和・環境・福祉運動について考えよう」

 

2012年10月13日(土)13:30 ~ 18:00(開場13:00)

会場:財団法人雲柱社 賀川豊彦記念館(東京都世田谷区上北沢)

主催:地球平和公共ネットワーク、世界愛和会議

協力:フィロソフィア

 

私たちは、すでに、2012年7月14日に「これからの平和・環境運動について考えよう ~地球的核問題に対して結集は可能か~」という対話型集会を開催しました。  3・11以来の脱原発への流れを踏まえて、それを進展させて核廃絶・非戦平和などを求める世界的な運動が必要と考えたからです。そして、この対話型集会 のスピーチやご意見を踏まえて、新しい平和・環境・福祉運動を開始することに合意し、最後に付したような呼びかけ文を作成しました。  

私たちはこれを「友愛平和の風」と呼び、地球的友愛(愛・慈悲・仁など)に基づいて、地上に恒久平和と良い環境・福祉という共通の善を実現することを目 指します。また、様々な多様性や差違を超えて、「和して同ぜず」(『論語』)というような「和」(調和)の精神で、超党派的・超宗派的な運動を展開したい と思います。そして、参加者に様々な意見の相違があることを前提として、対話により運動を動態的に発展させることにします。  

そこで、呼びかけ文をさらに練り、この新しい運動についてさらに対話を行うために、対話型集会を行うことにしました。このように開かれた対話を通じて運 動を開始すること自体が、私たちの新しい運動の特色とも言えます。

最近は、さらに日中韓の領土問題や、中東の反米デモなどの事件が生じ、友愛平和の風を吹き渡らせることは世界的な急務となっています。皆様、ぜひご参集 いただき、貴重な御意見をいただければ幸いです。

プログラム(概要) (仮)

13:30-13:40:開会挨拶   千葉眞(国際基督教大学教授) 13:40-15:40:第一部 対話型集会「新しい平和運動の理念について考えよう~呼びかけ文をめぐって」 小林正弥(千葉大学教授)  

小スピーチ 黒住真(東京大学教授)「自然観と社会組織の再構成に向けて」

小スピーチ 竹村英明(エナジーグリーン株式会社副社長)「国のエネルギー政策を変えるには・・」  

小スピーチ 島薗進(東京大学大学院人文社会系研究科・教授)「グローバルな公共性と宗教文化」

15:55-17:55:第二部対話型集会「新しい平和運動のアクションについて考えよ うーアート・オブ・ピースの挑戦」 小林正弥  

小スピーチ 八代江津子(てわっさ)

小スピーチ  鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授) 17:55-18:00: 閉会挨拶   稲垣久和(東京基督教大学教授) 友愛平和の祈り 本山一博(玉光神社権宮司)

【対話型講義・集会内容】

世界的にはオバマ大統領によって「核なき世界」の理想が提示されている中で、日本では原発事故によって核問題が大きく浮上しました。広島・長崎、そして福 島…という体験を重ねた日本人は、核問題を直視し、世界に向けて大きな友愛平和への風を吹かせたいと思います。新しい平和や環境・福祉の運動のために、どうすればいいか? 

今回は、皆様と、そのための大きな理念と方法を対話型集会の方式で議論したいと思います。

「友愛平和への風」     呼びかけ文(案)

友愛平和への風――緩やかな地球的結集(絆)を求めて         

         対話により地球中に吹き渡らせよう         

         対話による地球的結集を         

●状況認識:世界史的分岐点  

3・11の東日本大震災と原発事故を経て、いま、日本は大きな分岐点にある。一方では、大震災によって改めて助け合いや絆の意義が自覚されるようにな り、原発問題・エネルギー問題に対して多くの人びとが関心を深めて、紫陽花革命と呼ばれるような官邸前のデモが注目を集め、パブリック・コメントや熟議世 論調査の結果として、熟考に基づく良質な民意が示された。ここには、友愛や平和、そして脱原発へと向かう風、友愛平和への風が吹き始めており、新しい良質 な民主主義への息吹が感じられる。  

他方では、こういった民意を無視して原発を維持しようという画策も見られ、日中韓の領土問題を激化させ、右派的政治を復活させようという流れも存在す る。 次の総選挙では、この2つの流れがせめぎあい、日本政治は大きな分岐点を迎えるだろう。  

そして、これは世界の縮図でもある。オバマ政権の登場により、イラク戦争が終結し、「核なき世界」へのビジョンがアメリカから発信され、核廃絶という夢 が現実的な課題となった。核戦争による人類滅亡というような悪夢から遂に解放される可能性が現実的に浮上したのである。また、「ウォール街を占拠せよ」と いうデモのように、貧富の格差をめぐって「正義」が問われるに至った。そして、ドイツのように脱原発への決定を下す国も現れ、脱原発への動きは世界的に広 がりを持つに至った。しかし、他方で、ヨーロッパの経済危機は予断を許さず、中東ではシリアのように紛争や戦闘も行われ、イランの核疑惑が戦争を引き起こ す懸念があり、アメリカでは大統領選で大きな路線の選択が争われている。

●理念と目的:地球的な友愛正義と平和・環境・福祉  

このような世界的な分岐点にあって、私たちは、大きな目的として、広島・長崎・ビキニの被爆や福島の被曝という二重の体験に基づき、日本から、友愛 (愛・慈悲・仁など)と正義を中心的理念として、地球的核問題(原爆と原発)の解決(反核脱原発)をはじめ地球的な平和・環境・福祉(ないし貧困)問題に 対して、なるべく多くの人びとの地球的結集を図りたいと思う。

戦争か平和か、核戦争か「核なき世界」か、原発に頼る世界か脱原発か、環境汚染か地球環境 の保全か、貧困か福祉か。これらはいずれも公共的な正義の問題であり、究極的には地球全体において友愛が人びとの心に灯って現実の世界を動かすことができ るかどうかにかかっている。そこで、私たちは、地球的友愛(愛・慈悲・仁など)ないし人類愛(兄弟愛・姉妹愛)を根本的な理念として、地球人としてのグ ローバル(グローカル)・アイデンティティーに基づき、地上に恒久平和と良い環境・福祉という共通の善と正義を実現することを目指す。友愛に基づいて平 和・環境・福祉という共通の善が実現する世界を「友愛世界」と呼ぶことにし、その実現を集約的に「友愛平和」という概念で表すことにする。

●運動の精神:差違を超えた公共的な和  

現実の様々な論点においては、このような志を共にする人びとの間でも意見の相違は存在しうる。大きな共通性が存在する中で多様性が存在するところに、公 共性が成立するのである。そこで、この大きな目的やビジョンを最終的に実現するためには、差違を乗り越えて、友愛に基づき公共的な和(調和)を保つことが 重要である。そこで、私たちは、友愛に基づき、「和して同ぜず」(『論語』)、「小異を尊重しつつ大同につく」という「和」(調和)の精神で協働すること を旨とする。   

実際には、多くの団体が私たちと共通の目的を目指してそれぞれの形で努力を続けている。しかし、他方でそれぞれの団体の考え方や行動には差違も存在する ので、その間で連帯して行動することには問題が生まれがちである。そこで、私たちは、人びとが多様な党派や宗派に属しつつも、それを超えて共通の目的のた めに、超党派 的・超宗派的に連帯し、緩やかに結集することを目指す。このことを可能にするために、私たちの運動においては、内部で党派的・宗派的な勧誘などは行わない ように心がける。また、このような緩やかな結集を困難にするような、暴力的ないし反社会的な党派・宗派とは一線を画す。

●運動の性格:対話による動態的展開  

また、大きな志を共にする人びとの間でも、具体的な課題については様々な意見が存在しうるので、意見の一致を無理に求めず、個々人の行動の自由を尊重す る。そして、友愛に基づく対話によりお互いの意見が深化していくことを目指す。それによって、参加者の意見が変化していくことも充分にありえるので、それを 可能にするような対話や熟議の場を積極的に設ける。

たとえば、友愛平和・環境・福祉の実現のために対話集会を開催すれば、それを通じて私たち自身の意見が深化し、参加者を通じて広く人びとの意識を高めてい くことが可能になるだろう。意見の相違を認識しつつお互いに承認しあい、共通の大きな目標の達成に向けて行動していくことが可能になるだろう。このような 対話によって、予め設定された目標や行動を行うのではなく、対話によって誕生する考え方を尊重し、実践的行動を行うことによって、新しいダイナミックな運 動を展開することが可能になるだろう。私たちは、このようにして運動やその具体的な目標が対話的に、そして動態的に発展させていくことを目指す。

●具体的課題:反核脱原発・非戦とグローカルな環境、福祉       このような友愛と和の精神に基づき、私たちは具体的には次のような考え方について真摯な対話を行い、有志で様々なアクションを行いたい。  

まず、反核脱原発に関して、広島・長崎の悪夢を体験した多くの日本人が心底から知っているように、核兵器の使用こそは、地球人類の生存を脅かす絶対的な 悪であり、友愛と全く相反する不正義である。これを必要悪として維持することも、倫理的に許されない。だから、私たちは一刻も早く地球的友愛に基づき世界 の核兵器を廃絶し「核なき世界」という大理想を実現することを目指す。エネル ギーの確保は、核兵器のような武器問題や安全保障の問題とは無関係に、平和的な方法で行われなければならない。このために、日本では核武装を可能にするた めの原発や核燃料サイクルはすぐに中止し、そしてこれらを可能にする法律はすぐに改正すべきである。  

また、現行原発のように核分裂エネルギーを利用すると、危険な核廃棄物を生み出して将来世代に禍根を残すし、安全性も完全には確保できず、万一再び大き な原発事故が起こると立地地域の周辺を中心にして人命や健康に多大な被害が発生する。このようなエネルギー利用は友愛や正義に反する疑いがあるので、可能 な限り速やかにこのようなエネルギー利用の形態は廃止し、自然エネルギーなど をはじめとする別のエネルギーへと移行すべきである。

さらに、核戦争だけではなく、そもそも地上に再び戦争が起こらないように、地球的に非戦の世界の実現を目指すことが必要である。日本国憲法第9条に定め られているような非戦の原理が世界大に拡大し、将来は恒久平和を実現するために、地球連合(ないし地球連邦)などが形成されて非戦を定めた地球的憲章が制 定されるべきであろう。そのような世界の実現を目指しつつ、当面は中東をはじ め世界的に、そして東アジアにおいても、和解による紛争の解決を目指し、紛争地域で決して戦争が再び起こらず、友好関係が実現できるように、最大限に平和 的な努力が行われるべきである。  

次に、原発事故による放射能汚染は再び環境保全の必要性を想起させた。日本で公害問題が発生したように、発展途上国の経済成長のためもあって、今は世界 的に水・土地・空気をはじめ地球環境汚染や森林などの環境破壊が進んでいる。

これは、地球や地域を傷つけており、私たちは環境に対しても友愛の精神をもってその再生を願っている。そこで、地球環境問題と、国家や地域における環境問 題の双方の解決を目指して、グローカルな環境汚染を阻止し、環境保全や環境の改善を目指すべきである。  

さらに、ウォール街のデモが象徴的に示しているように、貧困問題はアメリカ国内や、日本国内でも深刻化しているし、またアフリカの飢餓や病気が示してい るように世界的にはさらに深刻な状況が存在している。発展途上国では3秒に1人の子どもが死んでいると言われるような世界の貧困問題に関しては、 MDGs(国連ミレニアム開発目標)達成のための努力がなされているが、その目標達成には現在よりも遙かに多くの関心と努力が必要である。国内・国外の双 方において、貧困問題を解決するためには、友愛に基づいて福祉を強化していく必要がある。そこで、グローカルな福祉、つまり地球的な福祉と、地域的な福祉 の双方を向上させていくべきである。  

ただし、私たちの運動がこのような考え方を前提とし、全員がこれに合意しているというわけではない。私たちはこれらの論点について、対話により多くの人 びとが真剣に考えるように促し、様々な目標について合意した個々人が有志で行動を起こすことを可能にしたいと願っている。

●友愛平和の政治経済

さらに、平和(・環境・福祉)を実現するためには、政治的決定が必要だから、やはり政治的な発言や行動も避けては通れない。そこで、私たちは政治的な論点 についても積極的に対話を促進し、党派的な党争に巻き込まれないように留意して、個々人の自由意思を尊重しつつ、有志によって友愛に基づき、党派を超えた 政治的ないし公共的な発言や行動を行い、いずれは友愛政治が実現してゆくことを目指す。たとえば、選挙の際には、上記の目的や課題を実現させるため、個々 人が自由に有志で立候補者や政党などを応援することは可能である。  

また、これらの課題の実現のためには、経済の変革も必要であろう。友愛平和の達成のための経済についても、私たちは対話を促進することによって、友愛経 済のビジョンや政策についての議論を喚起し、必要に応じて有志により超党派的な提案や行動を行うことにする。このような友愛政治や友愛経済への努力によ り、いわば友愛世界への道が開かれ、友愛平和が実現していくことを望みたい。

● 実現方法:アート・オブ・ピースとしての「友愛平和の祈りと芸術」

このような目標の実現のためには、かつての過激な運動のような闘争的・暴力的な方法ではなく、精神的(スピリチュアル)な友愛に基づいた非暴力的・平和的 方法を用いる必要がある。外的平和を実現するためには内的平和(平安)を一人一人の心に築くことが必要であり、内的平和が外的平和を促し、外的平和を求め ることが内的平和の構築につながるような好循環を生み出すことが重要である。  

このために、私たちは、様々な多様性や意見の相違、党派や宗派を超えて、友愛平和(・環境・福祉)のために共に祈ることを提案したい。祈りや瞑想は個々 人の内的平和を達成するために有益であるとともに、それを人びとが共に行うことは集合的な力となって外的平和を達成するためにも有益である。そして、平和 や環境・福祉 の実現のためには理性的な議論や主張とともに、音楽や演劇・映像などの方法を用い、人びとの感性に訴えて、芸術的な活動や訴えを行っていくことも有益であ る。これらを「友愛平和の祈り」「友愛平和の芸術」と呼ぶこ とができるだろう。たとえば、平和のための集会などの最初や終わりに、友愛平和の祈りを行うことによって、意見の対立があっても、調和を達成することがで きるだろう。私たちは、アート・オブ・ピースとして、これらを積極的に開発し、実行していくことを目指す。

● 友愛世界への風:広島・長崎、そして福島の誓い  

私たちは、この友愛平和への運動を通じて、何よりも「友愛世界」への風を巻き起こし、地球的な友愛平和への意識が高まっていくことを目指す。多様性や意 見の相違を尊重するので、たとえこの運動で具体的な行動を起こすにしても、呼びかけ人も含め、その全ての人が個々の行動に同意したり賛成したりすることは 求めない。個々人の自由な意思を尊重しつつ、「和」の精神で多くの人びとが緩やかに結集することにより、友愛平和の風を地球中に吹き渡らせたい。広島・長崎、そして福島というように、悲惨な出来事を経験した私たちは、その経験に基 づいて、二度と被爆や被曝が起こらないように力を尽くし、地球の危機を回避し、地球的友愛により平和・良き環境・福祉という公共善を実現することを、改め て心に誓う。

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呼びかけ発起人:千葉大学教授・小林正弥ほか(千葉眞、鎌田東二など) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この催しの発端は、2001年9月11日に起こったニューヨーク同時多テロにあった。その後、2011年9月に、私たちは千葉大学で緊急「地球的平和会 議」を開催し、その時の議論を基に、2003年に東京大学出版会より、『公共哲学叢書3 地球的平和の公共哲学~「反テロ」世界戦争に抗して』(公共哲学 ネットワーク編)を出版した。 目次 序 「地球的平和の公共哲学」へ向けて(山脇直司)/地球的平和問題 開催趣旨・会議最終案内(小林正弥)/反テロ戦争と地球的平和 基調講演(板 垣雄三)

 

I イスラーム‐アメリカ問題 オサーマ・ビン・ラーデン主義は存在するか(保坂修司)/「イスラーム主義」はイスラーム的か(栗田禎子)/岐路に立つアメリカ(西崎文子)

II 文明間衝突・対話と公共哲学 文明は衝突しない イスラームへのアスペクト(鈴木規夫)/同時多発テロと中東和平 文明間の対話への道(中西久枝)/文明間対話の公共哲学に向けて イ スラームの共同体理念と自由主義の諸原則(池内恵)

III 宗教間衝突・対話と公共哲学 宗教復興勢力と個人主義 「文明の衝突」の宗教論(島薗進・中村圭志)/文明・宗教間対話とシャローム公共哲学(稲垣久和)/アラブ世界の心に公共の心を 開こうとした人 シャルル・ド・フコーの生涯とその今日的公共的意義について(宮本久雄)

IV 平和への公共民運動 理念としての公共性の追求 市民運動の視点から(石田雄)/9・11以後の情報戦とインターネット・デモクラシー(加藤哲郎)/平和の感覚・平和のワザオ ギ・平和の創造(鎌田東二)

V 地球的平和会議と公共哲学 地球的平和問題と平和公共哲学 平和主義再生への出発点(小林正弥)/ 公共哲学宣言(山脇直司・小林正弥)

 

この会議と本の中で、私は、「平和の感覚・平和のワザオギ・平和の創造」という問題提起をし、平和をもたらすワザ(技法)、すなわち、「アート・オブ・ ピース」としての芸術と祈り(宗教的儀礼を含む)を取り上げた。

そこにおける宗教の役割とは、祈りであり、鎮魂・供養であり、愛や慈悲や誠の実践であり、深い生命的な共感に基づく多様な他者性の認識であり、その上に生まれる実際的な相関性・協働性の活動であると訴えた。その際、日本には、「伝統文化」として、「神道」や「仏教」や「儒教」の伝統がある。とりわけ、「神 道」には「八百万の神々」の観念や「神仏習合」や「神儒習合」の歴史がある。  

そのような伝統文化を活かす形で、「arts of peace」、平和を生み出す活動を展開していきたいと主張した。基本的にはその考えは今も変わってはいない。実際に、そうした精神に基づいて、1997 年10月10日に、三重県伊勢市の伊勢神宮近くにある猿田彦神社で、韓国を代表する舞踊家・金梅子氏(元梨花大学教授・舞踊家)を招待し、創作舞踊「日巫 (イルム)」の上演をしていただいた。また、2009年4月9日と4月10日2日間、金梅子(キム・メジャ)氏と創舞会(チャンム・ダンスカンパニー)の 世宗劇場Mシアターでの舞踊公演「舞本」(チュンポン)の舞台に、音楽家の細野晴臣氏と共に招かれ、石笛・横笛・法螺貝を演奏した。これもまた、私なりの “arts of peace”の活動であると考えている。  

 

以上の論点を結論的にまとめると、次のようになる。

① 平和で共存共栄できるような「アジア共同体」を作ることができなければ、人類の未来は暗い。

② その「アジア共同体の構築に向けた宗教の役割」は、他者性や多様性の尊重・寛容と相互扶助活動である。それを支える思想は、愛(キリスト教)、慈悲(仏 教)、仁(儒教)、八百万・誠(神道)である。

③ そこには、深いと祈りと大きな地球史的物語が必要である。

④ 未来に向かって動き出した東日本大震災「3・11」後の日本の宗教界の諸活動と連携する。

⑤ 防災ランドマークでもあり鎮魂の場でもあった神社の役割の見直し、寺院(仏教)の役割の見直し(葬儀)

⑥ 神楽などの伝統芸能・儀礼の力を活用する。

⑦ 宗教の中に内包されているグリーフ・ケアやスピリチュアル・ケアのわざと蓄積を深化させる。

⑧ 芸能・芸術の力を活用する。

 

 

参考文献: 『地球的平和の公共哲学~「反テロ」世界戦争に抗して』公共哲学ネットワーク編、東京大学出版会、2003年 鎌田東二『神界のフィールドワーク―霊学と民俗学の生成』青弓社、1985年(ちくま学芸文庫) 鎌田東二『宗教と霊性』角川選書、角川書店、1995年 鎌田東二『聖地感覚』角川学芸出版、2008年 細野晴臣・鎌田東二『神楽感覚』作品社、2008年 河合俊雄・鎌田東二『京都「癒しの道」案内』(朝日新書)朝日新聞出版、2008年 鎌田東二『神と仏の出逢う国』(角川選書)角川学芸出版、2009年 鎌田東二『超訳 古事記』ミシマ社、2009年 鎌田東二編『モノ学の冒険』創元社、2010年 鎌田東二編『平安京のコスモロジー』創元社、2010年 鎌田東二『霊性の文学 言霊の力』角川ソフィア文庫、2010年 鎌田東二『霊性の文学 霊的人間』角川ソフィア文庫、2010年 鎌田東二・近藤高弘『火・水(KAMI)――新しい死生学への挑戦』晃洋書房、2010年 鎌田東二編『モノ学・感覚価値論』晃洋書房、2010年 鎌田東二『現代神道論――霊性と生態智の探究』春秋社、2011年 鎌田東二編『日本の聖地文化』創元社、2012年 鎌田東二『古事記ワンダーランド』(角川選書)角川学芸出版、2012年 井上ウィマラ・藤田一照・西川隆範・鎌田東二『仏教は世界を救うか』地湧社、2012年 鎌田東二『「呪い」を解く』文春文庫、文藝春秋社、2013年 鎌田東二『聖地感覚』角川ソフィア文庫、KADOKAWA、2013年 鎌田東二『歌と宗教――歌うこと。そして祈ること』2014年 鎌田東二編『究極 日本の聖地』KADOKAWA、2014年

 

 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951 年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科 学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト