自然の呼吸
高橋 あい
「自分」という言葉は、「自然の分身」から来ているのだと聞いたことがあります。
私が月を見ているとき、
私は月になっている。
私が朝日を見ているとき、
私は朝日になっている。
風景は、太陽の光が与えてくれる現象であり、
風景は、水の気流が与えてくれる現象である。
自分と自分をとりまく全てのことは繋がっており、自然と自分は切り離されることはないことを、満月とその光芒と波の音に包まれながら感じました。
道元禅師の正法眼蔵坐禅儀の中の言葉に、
兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。
とあります。私という自我が坐禅をしているのではなく、私は坐禅そのものになるのだ、悟りを求めずに、坐禅の姿に身を任せます。空気と一体化し、宇宙の呼吸が私の身体を通っていくことを実践を通して学びます。
アメリカでお世話になった曹洞宗三心寺の奥村老師から新年の挨拶のお手紙を頂戴しました。そこには、奥村老師の師匠・内山興正老師の師匠・澤木興道老師の遺言の言葉が記されていました。
「人間、七十や八十で死ぬいのちは生きてはつまらんぞ」
「五尺の身体を五尺で使うのは、えらい下手くそなのだ。五十年や八十年や百年の寿命で死んだらバカらしい。永久に死なない、永久に宇宙一杯の仏さまとちっとも違わない人間になるのが、仏道の行ちゅうことなのだ。」
この文章を読み、大重監督作品「光りの島」の終盤に語られる言葉がリフレインしました。
母さん、そうじゃなかったでしょう。
「死んだらなんにもならん。」なんて。死んでも生きているでしょう。生きる姿は変わってしまったけれど。しかし、母さんがどうしているかわかって良かった。
母さんよかったね。
大重監督は、自然の呼吸を捕らえます。私は、映画を見ながら自然に抱かれているような呼吸に包まれ、光りを浴び、風を感じる、その感覚は第一作から一貫しており、現在制作中の「久高オデッセイ第三部」の編集中の映像からもその予感を感じています。
末期癌と脳梗塞の視床痛を抱えながら編集作業をしている大重監督は、間違いなく「死」の存在を感じながら、しかし、常に新しい命へと向かっているのです。
「久高オデッセイ第三部 風章」は、六月頃お披露目予定で編集が続いています。今は大重監督の中から新しい息吹として生まれる準備をしています。どうぞお楽しみにお待ちくださいませ。