東京自由大学会員 

リレーエッセイ 第四回

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はじまりのひ

松倉 福子

 

 

僕が君と 出逢った時
一番星を 見つけたような
心の奥に 火が点ったような
どうすることも できない想いを
おさえることの できない気持ちを
抱えて僕は 悦びに震えた

海はどこまでも 広く遠くて
君はいつまでも 深く透明で
行けども行けども 先は長くて
追いついてゆかない 言葉が
唇の端から こぼれて落ちた
先回りして 振りまいた笑顔も
行く先知らず 戸惑っていた

時代が雷のように 鳴り響いていた
時代が音を立てて 崩れていた
そんな時代の中に 君も僕も
そんな時代の中で 君と僕は

けれども君は 去っていってしまった
伸ばした手は 何もつかめなかった
心の奥の 火は消えることなく
どうすることも できない想いと
おさえることの できない気持ちを
抱えて僕は 哀しみに昏れた

海を見ても 心は広がらない
風に吹かれても 心は開かない
瞬間記憶の 断片だけが
走馬灯のように 追いかけてくる
投げ出したくなる 何もかも
どうでもよいと 捨て鉢になる
そんなうつろい時雨の中で さ迷った

時代が雷のように 鳴り響いていた
時代が音を立てて 崩れていた
時代が雷のように 鳴り響いていた
時代が音を立てて 崩れていた
そんな時代の中に 君も僕も
そんな時代の中で 君と僕は
そんな時代の中に 君も僕も
そんな時代の中で 君と僕は
そんな時代の中に 君も僕も
そんな時代の中で 君と僕は

そんな時代の中に 君も僕も
そんな時代の中で 君と僕は


神道ソング『時代』 2010年2月18日       鎌田東二作

 

 


「私たちはきっと同じ星から生まれたのよ」
東京自由大学の運営委員で理事であった吉田美穂子さんは、物語を語るのがとても好きな人だった。吉田さんの言葉は、不思議な説得力がある。いつも彼女の傍にいた私は、いつの間にかその物語を信じるようになっていた。

1990年代後半の頃、幻の童謡詩人と言われる金子みすゞさんをこよなく愛する宇宙物理学者の佐治晴夫先生の宇宙論の講義を吉田さんと一緒に時々聴講していた。当時佐治先生が教鞭をとっておられた玉川大学や成城大学の宇宙論の講義は、必ず金子みすゞさんの詩から始まっていた。
佐治先生は「君たちは星のかけらだ」と星々の盛衰を通して、宇宙への問いかけは、そのまま「私たちがいったい誰なのか? どこから来て、どこへ行くのか?」という問いと重なることを教えてくださった。玉川大学の屋上には天文台があり、講座が終わると天文台の天体望遠鏡で真昼の星を順番に見せてくださる。昼間の太陽のもとで私たちの目には見えない真昼の星の姿を、天体望遠鏡の光度を調節して私たちの目の焦点に合わせる。その小さな小さな白く輝く光は、私たちの概念を越えているため、なかなか見つけ出すことは難しい。ある瞬間を越えるとき、その小さな光が目の中に入ってくる。私たちは一瞬息をのみ、そして「うわぁ…!!」と驚きの声をあげる。
いつもそこにあるものに、私たちはなかなか気づくことができない。満ち欠けを繰り返す月が目に見えないもう半分の月をいつも探しているようなものだ。

心の奥に火がともるような出会いは、誰の人生の中にもきっとあるにちがいない。私の人生に決して消えることのない灯をともし、人生を根底から変えてくれた人をあげるなら、私は迷わず吉田美穂子さんと加藤力さん(特定非営利活動法人セルフ・サポート研究所代表/臨床心理士)をあげるだろう。
東京自由大学との出会いは、この吉田美穂子さんから始まっている。

江東区の地域活動を共にした吉田さんとは、彼女の次男と私の長男が小・中学校の同級生で同じ町内に住んでいた。そして<江東子ども劇場>のぴっころサークルの仲間で、地域の自主グループ<暖ん楽ん>では、20年を共にした朋友である。後に同じ女子大の先輩後輩であり、私の故郷の福岡の英彦山にもご縁があることがわかった。
彼女が亡くなってから母から聞いてわかったことだが、私は幼い頃結核だった母と離れて暮らしていたそうだ。吉田さんもまた若い頃肺を患い、いつも申し訳なさそうに咳をしていた。彼女を苦しめたはずの咳の音を一度も不快に思わず、子守唄のような安らぎすら感じていたのは、母と重なる響きを感じたからかもしれない。

1999年2月20日 東京自由大学は、西荻窪WENZ地下で産声を上げた。吉田さんに誘われるまま参加した立ち上げのシンポジウムの日のことをここに記したい。

鎌田東二先生と居並ぶ発起人の先生方の中に高校時代の美術の恩師である横尾龍彦先生がおられたことも、不思議な物語の予兆である。
鎌田東二先生が、並々ならぬ覚悟をもって、この東京自由大学を立ち上げたことは、吉田さんを通して聞いていた。阪神淡路大震災の後、地下鉄サリン事件等の一連のオウム真理教事件が世の中を騒がし、衝撃をもたらした酒鬼薔薇聖斗は長男と同じ学年だった。時代の波がひたひたと私たちを暗く押し包んでいた頃である。
シンポジウム当日のWENZは人々の熱気に満ちていた。鎌田先生と発起人の先生方一人一人が熱い思いを語り始めると、彼らが本気で社会を世界を変革しようとしていることが伝わってきた。本気の人に出会う驚きと喜びを感じた私は、何かできることはないのだろうかと我が身に問うてみたが、当時の私はただの主婦であり、母であり、家庭人であり、出来ることなど何一つ見当たらなかった。もし、吉田美穂子さんに出会っていなければ、そんな場所にはまるでご縁がないし、学ぶことの本当の意味など知らずに人生を送ったかもしれない。

さて、東京自由大学の説明が終わり、質問タイムに移った頃だっただろうか。ある男性が予期せぬ声を挙げた。
「…このような会は、どうせオウムになるのではないのか?」
あまりにも突然投げかけられた言葉に場は静まり返り、皆の視線は一斉に鎌田先生に注がれた。鎌田先生は、真っ直ぐ立ちあがり虚空を見つめながら、すぅーーーーーと大きな息を吸い込んだかと思うと、「バカヤロー!」という言葉を放った。
私たちはどうしていいかわからず、その成り行きを見守った。その場にいた発起人の先生方はすぐさま「まあ、まあ、まあ…」と鎌田先生を諌めて、何か話を始めたように思う。突然の爆発のうねりは、大人の解決のお陰で何事もなかったかのように、さざ波がひくように収束していった。
そして、会も終わりに近づいたとき、後方で本を販売していた若い女性が手を挙げた。
「ちょっと待ってください!私はこのままでは、帰れません。さっきの話を続けてください。」
さっきの話とは、むろんオウムとバカヤローの二人の話だ。それから、鎌田先生と「オウムじゃないのか?」と発言した男性との対話が始まった。それぞれの思いが語られた。

もうずいぶん前のことで、その時何をどんな風に話されたかも私はすっかり忘れてしまったのだが、言い知れぬ感動を覚えたことだけは忘れない。おかしいと思うこと、疑問に感じること、怒りや苛立ちをうやむやにせず、自分の言葉で相手に思いを伝え、相手の話も丁寧に聞く。学問探求と自己探求と創造的で開かれた友愛の学びの場、東京自由大学のはじまりのプレリュードである。

いのちの始まりは、混沌である。未知の世界の暗闇には不安や疑惑があるだろう。夜明け前の闇の中でできることは、人と人とが共に学び、場を共有し、発言し、お互いの理解を深めていく中から、自分自身を見いだす光を探し求めていく。
人は裸で生まれ落ち、温かな人の手でケアされなければ、生きていくことはできない。人との関わりの縁によって、私たちは生かされていく。

バカヤロー!という強い感情はいのちの発露だ。いのちのエネルギーのムーブメントは、たぶん今も続いている。あのとき鎌田先生が吸い込んだ宇宙の吐息 spirare(霊性spiritの語源・ラテン語の息)は言霊になって、この世界に広がっている。忘れられない過去は、私たちを未来へとつなげる。

 

 

 

松倉 福子/まつくら ふくこ
米国クリパルセンター公認ヨガ教師。福岡県北九州市出身。共立女子大学文芸学部 劇芸術コース卒。
小学5年のとき、宮澤賢治の『よだかの星』のかわせみ役を音読したことから、芝居好きになる。演劇学校を夢見たが親に反対され断念。学生時代は大学にいかず芝居三昧。卒論は、近松の芸能論。学術書をそのまま抜粋したため優良可の「可」をもらう。卒業翌年結婚し、母となるも、吉田美穂子さんとの出会いにより人生は思わぬ方向へ。2008年天河弁財天ご開帳の折、沖ヨガの龍村修先生と出会い、ヨガの世界へ。
さらに次男のアデクションの問題で苦しんだ経験から様々な心理ワークや12ステッププログラムを学ぶなか、下北沢「ヨガオブライフ」の三浦徒志郎氏と出会い、クリパルヨガ(慈悲のヨガ)に出会う。あるがままの
自分を慈悲深くやさしく見つめる意識の目を育てつつ自己探求・自己発見の旅の途上。

東京自由大学では吉田さんの残した<三省祭り>を毎年担当している。