ポケットに燕石を

9章 めぐりめぐって

辻 信行

 

 

 

半身不随で車いすの老人が、妻から差し出された空の段ボール箱を抱え込む。しかし手を滑らせて、床のうえに落としてしまう。

 

「あなた、本番でこれをやったら大変よ」

「そうだな。今のは頭から落ちたから、首から下が麻痺になるだろう。わしよりたちが悪いわい。はっはっは」

「笑いごとじゃありませんよ」

 

一週間、二週間と練習を積み重ねるうち、老人は空の段ボールなら難なく抱え込めるようになった。そして次は、箱のなかに分厚い辞書を入れて繰り返した。

 

そうして迎えた本番の日。息子夫婦は生後半年の赤ん坊と一緒に老人の家を訪れた。老人がうまく抱っこできるか、という以前に、赤ん坊が老人のこわばった顔を見た瞬間、泣き出すことを恐れていた。

 

そこで母親は、赤ん坊を老人にわたす直前まで抱っこして機嫌をとり、わたした瞬間うしろに回り込むと、老人に気付かれないよう無言で、夫と一緒に奇妙奇天烈な顔をして気を引いた。キャハッキャハッと赤ん坊が笑ったものだから、老人はうれしくてたまらない。この幸福な日から4年後、老人は静かに息を引き取った。

 

遺品のなかには、クラシックと童謡のレコードが大量にのこされていた。音楽の趣味が異なる老妻と子どもたちは、思い切って全部捨ててしまうことにした。しかし、老人が最期まで大切に聴いていた一枚のCD(カラヤン指揮ベルリンフィルのベートーヴェン交響曲第3番「エロイカ」)だけは息子が持って帰ることにした。

 

それから9年後。老人が抱えた赤ん坊は中学生になり、好きこのんでクラシックを聴くようになった。老人が残した「エロイカ」のCDを皮切りに、ベートーヴェンの交響曲全集、ドヴォルザーク交響曲全集、チャイコフスキー交響曲全集、ブラームス交響曲全集などを、小遣いを貯めてせっせと集めるようになった。「こんなことになるんなら、レコード取っときゃ良かったな」と少年の父は言った。その言葉を聞いた少年は、自分が4歳の時に死んだ祖父が、いったいどのような生涯を送ったのか、少し興味をもつようになった。

 

老人は死期を悟ってから、自叙伝のようなエッセイをちまちま書き溜め、最終的に一冊の小さな冊子にまとめていた。少年はそれを読んでみることにした。

 

大正の初め、上野の旧東京音楽学校の奏楽堂で、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を聴いたときのことから記述は始まる。彼が生まれたのはハレー彗星の接近で全世界が騒然となった1910年(明治43年)。大正は191226年だから、その始めとなると、かなり幼い頃のできごとなのだろう。

 

つづいて記述は学生時代のことになる。早稲田大学に入学すると管弦楽部(早稲オケ)に所属した彼は、クラリネット奏者として活躍。演奏に心血を注ぎ過ぎたことが仇となり、後に肋膜炎を起こしている。しかしそのおかげで徴兵検査では兵隊にとられなかった(晩年半身不随になったのは、高血圧から脳出血を起こして倒れたのが原因であるらしい)。

 

学生時代には、童謡研究会にも所属していた。研究会の会歌も彼が作曲したらしい。そもそも童謡に関心を持ったのは、やはり大正の初め頃、有楽座で開かれた童謡コンサートで、本居姉妹の歌声に魅せられたからだという。

 

本居姉妹とは、童謡作曲家・本居長世(18851945)の令嬢であり、みどりさんと喜美子さんのことである。長世は、「青い目の人形」「赤い靴」「七つの子」「汽車ぽっぽ」などを作曲した当代随一の作曲家だ。自分でつくった童謡を娘たちにコンサートで歌わせ、人気を博していた。ちなみに本居宣長を先祖とし、宣長から数えて6代目にあたる。

 

長世は、如月社合唱団を主催していた。少年の祖父も入団テストを受け、コーラス隊の一員として迎え入れられた。長世の教え方はとても厳しく、音程を外した団員に「君は歌わないでくれ!」と怒鳴ることもあったという。しかし基本的には話好きで、しばしば音楽と関係のない話に脱線し、「銭回し」(穴あき硬貨でつくった独楽による遊び)や「電話遊び」(糸電話のことだろうか?)といった素朴なゲームも好んだという。

 

合唱団の主催する催しやパーティーには、言語学者の金田一春彦や歌手の藤山一郎も出入りしていた。このうち金田一春彦と少年の祖父は晩年にいたるまで交流を続け、童謡の歌詞などをめぐって、金田一から直接、電話で質問されたりしていたようだ。

 

彼は合唱団で成長した娘のみどりさんと再会。すっかり心を奪われてしまう。しかしほどなく、みどりさんにはフィアンセがいて、しかも非常に財力のある砂糖問屋の息子だと発覚。彼はきれいさっぱりあきらめた。

 

その結果めぐり会った娘と結婚。会計士として平凡な日々を送りながら、銀座にバーを開いたり、石川町に床屋を開いたりと、そこそこな賭けもしたようだ(しかし、どちらも数年で店じまいしたらしい)。彼は妻とのあいだに2児をもうけ、3人の孫に恵まれた。その孫の一人であるクラシック少年は、成長してからNPOの市民大学に携わるようになった。2017年の11月、宗教学者の島薗進氏を講師に「悲しみを分かちあう近代日本人と「うた」」というテーマで講座をするとき、童謡についても扱うというので、彼は久しぶりに祖父の冊子を本棚の奥から引っ張り出して読んでみた。

 

 

「これはなかなか面白い」。そう思った彼は、講座のなかで少し紹介してみた。予想に反し、最も盛り上がったのは童謡の話ではなく、「祖父が失恋してくれたおかげで、ぼくが生まれました」という一言だった。彼は後日、市民大学のウェブマガジンにもこのエピソードを書いてみることにした。それが、いまお読みいただいたこの文章である。

 

 

辻 信行/つじ のぶゆき
東京自由大学理事・運営委員長。横浜生まれ。汽笛の聞こえる里山の近くで育つ。現在、中央大学大学院総合政策研究科博士後期課程。法政大学沖縄文化研究所奨励研究員。宗教学・民俗学・比較文学をふまえ、離れ小島や都市の喧噪、カビ臭い本の中でフィールドワークを重ねつつ、様々な「境界」を研究している。主な論文に、「他界観のイメージ画にみる境界―喜界島における調査を中心に―」、「生と死をめぐる風景―喜界島の祭祀儀礼より―」など。