未来へのビジョン

松本 裕和

 

 


3年前の夏、僕は悩んでいた。猛烈に悩んでいた。
これからどうやって生きていけばよいのか分からず、何もすることができず、モヤモヤとした気持ちで毎日を呆然と過ごしていた。

そんな悩みは誰もが持っているもので、普通は何も手につかなくなるほど大きなことにはならず日々の生活を送っているものだし、実際僕もそれまではそうだった。

 

しかし、その悩みが決定的になってしまったのだ!
その理由は、モヤモヤ期の半年前に行った2回目のピースボート(ピースボートはアジアをはじめとする各地の人々と現地での交流を行うことで国際交流と理解を図るという趣旨により、青少年を運営主体として長期の船旅を企画している)での地球1周の旅で、あまりに多くのことをインプットしすぎて、アウトプットをまったくしないインプット過多の状態に陥っていたからだと思う。

移動中、船の中で毎日行われている平和・人権・貧困・地球環境などの活動家たちの講演に参加し、各国の港についてからは実際にそれらの分野で問題を解決しようと活動している現地のNGOを訪れ、現場の切実な生の声を聞いた。ピースボートが訪れる、一般的に貧しいと思われている国々には様々な問題があることが分かった。

しかし、その旅の終盤に僕は気づいてしまったのだ。その問題の多くは、豊かと言われている国から搾取されることによって引き起こされていると。日本に住み、普通に生活することで、実はそのような国の問題を作り出すことに自分も関与していたんだと。

またそれらの問題の多くは、貧しい国ほど目立ちはしないが、日本にも確実にあるもので、臭いものには蓋をしろ!とうまく社会の片隅に押しやられ、見ようとしない者には見えないだけで、一度気がつくと日本ほど問題が多い国はないように思えた。環境破壊、コミニティーの崩壊、ワーキングプア等々、自殺者の数も世界でトップレベルではなかっただろうか。今の日本は便利になったんだろうけど、決して住みやすくなったわけでなく、その便利って感覚もどこか履き違えているようにしか思えなくなってしまった。いったいこれから先どうしたらいいんだ?

『ホピの予言』という映画の中で、「人類は間違った道を進んでいると感じたら、もう一度間違う前のところまで戻り、正しい道を歩みなおさなければいけない」というホピ族の予言が啓示されていた。

ではいったい我々日本人はどこまで戻ればよいのか? 石川英輔著『2050年は江戸時代』は、現在の文明が壊れ、2050年からは江戸時代に戻ったような生活を送るという物語で、とてもリアルに感じられるSF小説だった。ある意味、預言書のようにも感じた。

それでは、農民は生かさぬように、殺さぬようになどと言われていたが、庶民の文化も花開き、寺小屋教育で庶民の識字率も高かった江戸時代に戻るのがよいのか?

それとも支配者などいなく、狩猟採集生活で富を蓄えることなく、平均寿命は短くとも皆が平等に、争うことなく暮らした縄文時代まで戻ったほうがよいのか?

しかし、どちらも今の時代に普通に生活している僕からしたら、あまり現実味を感じることはできなかった。

実際にそんな生活をしようと思っても、当時の生活風景はリアルには想像できない。

ある時、昭和初期まで活動していた民俗学者の宮本常一が全国を歩き回り、各地の長老や庶民から聞き取った昔の暮らしを記録した本を読んで、ちょっと前の日本に現代にはない素晴らしいものがたくさんあったことを知った。もちろん、問題もたくさんあっただろうが、今の日本が抱えている解決しようのない地球規模で影響のあるような問題はなく、村規模の影響の問題で収まっていたのではないか?

 

今の日本は民主主義といっても多数決で決められてしまうが、当時の村の自治社会では全員一致が決をとる条件であり、全員が納得するまでは2晩でも3晩でもぶっ続けで話し合いをしたとか、これこそが真の民主主義ではないだろうか?

飛騨のボッカと呼ばれる人たち、要するに荷物の運び屋さんは、馬も牛も登れないような険しい飛騨の山中を100キロ以上の荷物を背負って運んだとか。昔の人の身体能力の高さは実は今より全然高かったのではないか?

「となりの家に蔵が建つと腹が立つ」ということわざがあるが、それはお金持ちを僻んでいるのではなくて、お金持ちが蔵を建てる背景には、お金持ちに搾取されている貧しい人たちの存在があるわけで、蔵が建つことで貧しさに苦しんでいる人の存在を思い、腹が立つと当時の日本人は言っていたようだ。当時の庶民の物事の本質を捉える深い精神性には驚愕するが、悲しいかな、僕にはこのことわざを聞いても、貧乏人の僻みとしか捉えることができなかった。

宮本常一の著書を何冊か読むことで、深い共感を感じることはできた。だが、それらは本の中の活字の世界であり、リアルに感じることはできなかった。(最近、宮本常一氏が聞き取り調査をする中で、たくさんの写真を記録的に撮り、その写真を多数掲載し各地域ごとにとりまとめた本が30冊ほどのセットで出版されていることを知った)

そんな時に宮本常一氏に師事し、宮本常一氏が日本中を歩きまわり、聞き書きし本に記した世界を、1961年から映像で記録する活動を始めた姫田忠義氏の存在を知った。1976年に民族文化映像研究所を設立し、すでに100本以上の記録映像作品を制作していることを。

民族文化映像研究所、通称「民映研」。とにかく民映研の映像作品が観たいとインターネットで検索すると一番近い上映会が新潟県阿賀野市で開催された『越後奥三面―山に生かされた日々―』だった。しかも、なんと姫田忠義氏の講演つきであった。当時静岡県焼津市に住んでいた僕は、そこまで車で何時間かかるか考える間もなく、とりあえずその上映会に申し込んだ。

『越後奥三面―山に生かされた日々―』、4年間かけて撮影された新潟県北部、山形県との県境にある朝日連峰の懐深くに位置する奥三面の集落の、日常生活をありのままに記録した154分の長編映画に釘付けになった。山にとりつき、その山の自然に見事に対応し、季節ごと、四季に準じた山の恵みを受けて素朴に暮らす人々。

僕の知りたかった答えがこの映像の中にすべて詰まっているように感じた。

まったく見えなかった未来へのビジョンがその映画にあった。

霧が晴れた思いとは正にこのこと、僕のモヤモヤは一気に吹き飛んだ。

この映画を観たことでモヤモヤ期を脱し、未来のビジョンに向けて歩みを始めることができた。

その奥三面の地を今年のGWに訪れてきた。

奥三面の集落はダムに沈んでしまい、今はないことは知っていたが、ダムの上からでも見てみたかったし、奥三面の生活を保存した民俗資料館があることを知り、そこも見てみたかった。

実際には奥三面ダムには、まだ冬季道路閉鎖中で手前の三面ダムまでしか行くことができなかった。しかし、改めてそんなに雪深い山中で昔と変わらぬ生活をしていた人たちが30年前までいたことを感じることができた。と同時に、すでに三面ダムという立派なダムがあるのに、これよりさらに山深い不便な山中に奥三面ダムを建設する必要性に疑問を感じた。資料館で実際に奥三面の人が使っていた生活道具を見ることで、映画の世界をより生き生きとリアルに感じることができた。


最後にこの奥三面歴史資料館の展示室入口にパネル展示してあった文章を紹介して終わりにします。

 

この映画をまだ観てない人は、是非この映画を観て未来のビジョンを感じてほしいと思う。

三面から受け継ぐもの
通称奥三面の地は、途中、抜ける時期はあるものの、約25,000年前の氷河期の時代から人々が生活し、行き来していました。残念ながら1985(昭和60年)年、県営奥三面ダムの建設に伴う集落の移転により奥三面はその長い歴史にいったん幕を閉じました。

長い歴史の中で、さまざまな人々が行きかい、生活をした奥三面の地には、遺跡・奥三面集落という形で、自然との共生のあとが残されていました。

奥三面での生活は、「山に生かされる」と表現されました。生きるために必要なものは自然が与えてくれました。現在の機械化、分業化、資本主義経済化が進んだ生活から見ると、一見、非常に刺激のない、肉体労働ばかりのきつい生活であるようにおもえることでしょう。

しかし、そのような見方は、本当に一側面でしかありません。奥三面の生活は非常に豊かなものでした。お金に頼りきった生活の我々は、さまざまな便利な道具にかこまれ、必要なものはお金でなんとかしています。次から次へと消費するばかりで、満足することも感謝することもその意味すら忘れているようです。そんな生活がもたらしたものは、貧富の激烈な差、一方的な殺戮戦争、自然破壊、異常気象など人類にとって生きることにマイナスな面ばかりが浮かび上がってきています。奥三面の生活には、このような人間の傲慢さは微塵も感じられません。そこに感じられるのは、山に感謝し、人に感謝し、共に生きていくというなんとも謙虚な姿勢です。冬山で過ごすスノヤマは山の厳しさと共に生き抜く経験や知恵を教えてくれます。世代世代に受け継がれる年中行事には、全てを与えてくれる山や大地に感謝する気持ち、厳しい冬の時期に助け合う人々の団結力といった敬虔な生き方が示されています。奥三面の生活には、明るい未来を想像できない人類に対して、自然に生かされ、人に生かされ、己が全てを活かす長い歴史の中で学んだ人類本来の生き方が示されています。奥三面の地が残してくれた生き方を本当に豊かな生き方をするための一例として、伝え続けられればと思います。(縄文の里・朝日 奥三面歴史交流館 資料室入り口のパネルより)

 

 

 


松本 裕和/まつもと ひろかず

静岡県焼津市出身。三重県在住。現職、愛農学園農業高等学校農場助手。 地元焼津の普通高校卒業後、大阪の仏教系の大学に入学。が勉学に挫折し2年で中退。半年間の闇期(ひきこもり)を経てフリーターから水産加工工場の化学調味料製造部門で2年半勤務。退職後ピースボートの地球1周の船旅へ。その旅で水と平和はタダでないことを実感、日本の平和の現場に興味を持ち航空自衛隊に任期制隊員で入隊。一任期の3年を勤め退職、地元焼津に戻り家業の建築設備工事の保温工事の仕事へ。しかし、その仕事も諸事情により3年でドロップアウト。2回目のピースボート地球一周の船旅へ。その旅で農業と教育の大切さを実感。農的暮らしを目指し模索していたところ、農業と教育の両方を働きながら学べる現場、日本で唯一の私立の農業高校であり、有機農業を教えている愛農学園農業高等学校の農場助手の仕事に巡り合う。現在愛農での3年目の勤めに突入!が目標の自給自足生活に向け思いをはせる今日この頃です。