アースフリーグリーン革命あるいは生態智を求めて その2      

鎌田東二

 

 


3、「東京自由大学」の始まり

 


「東京自由大学」という言葉が浮かんできたのは、1998年のことだった。その年の7月から10月にかけて、わたしは大重潤一郎さんたちとともに、沖縄の音楽家の喜納昌吉さんからの呼びかけを受けて、「神戸からの祈り」「東京おひらきまつり」という阪神淡路大震災で亡くなった方々に対する鎮魂供養のイベントを数ヶ月にわたって行っていた。

 

その際中の5月3日、日蓮が『立正安国論』を執筆したといわれる鎌倉の安国論寺で、「神戸からの祈り」の副実行委員長になってもらっていた陶芸家・造形美術家の近藤高弘さんと「東京自由大学」の初代学長となる画家の横尾龍彦さんと鼎談をし、安国論寺の卒塔婆を燃やして近藤高弘さんの作品を野焼きで焼き上げる催しを行なった。よくまあ、あんなことができたものだと、今になって思い出しても、凄かったと思う。よく玉川住職さんが決断してくださったものだ。すばらしい!

 

わたしはその頃、埼玉県大宮市に住んでいたが、その日の朝、寝床の中で突然、「東京聖心自由大学」という言葉が降りてきた。そして、大宮から鎌倉に向かう途中の電車の中で、「東京聖心自由大学」の構想が忽然と湧いてきて、車中で急ぎ手帳にメモを取り、安国論寺に着くや否や、新品のワープロをお借りして、「東京聖心自由大学」の構想第一案を打ち込み、打ち出して、そこにいた何人かにコピーしてお渡ししたのだった。

 

それが、具体的な「東京自由大学」の始まりであったが、その前に、陶芸家の河村紗智子さんの紹介で、東京都新橋にある長尾画廊のオーナーの長尾喜和子さんとお会いして、一緒に学校のようなものをやりましょうということになっていた。

 

その前、阪神淡路大震災とオウム真理教事件の起こった翌年の1996年には、わたしたちは1年をかけて「宗教を考える学校」をやっていたので、その延長でのイメージがあった。それを1年間とかという短期のものではなく、もっと中長期に継続できるような自由な学校のような場と機会を作りたいと思ったのだった。

 

長尾喜和子さんと意気投合して、いよいよ具体化しようという段になって、わたしの方が「神戸からの祈り」と「東京おひらきまつり」の代表になったので、とても慌ただしくなり、それが終わるまでは具体的な展開は難しいということになっていた。

 

だが、イメージというものは、時と場所を選ばずに湧き起こるもので、53日の大宮から鎌倉に向かう電車の車中で、突然、天啓のように、最初の「東京自由大学」のイメージが降りてきたのだった。無我夢中でそのイメージを書き留め、安国論寺でそれをワープロに起こした。日蓮さんの霊でも憑いていたのかしら?

 

まあ、そんなことはないだろうが、その日はとても不思議な意識状態だった。朝っぱらからかなりトランスしていたと思う。

 

 


4、1995年が問いかけるもの

 

 

自分の人生を振り返ると、やはり、いくつか、節目の時がある。10歳の時に『古事記』を読んで救われた。17歳の時に青島を訪れて、「聖地感覚」に目覚めた。30歳の時にギリシャのデルフォイに行って、人生の指針と覚悟を得た。35歳の時、「魔」を体験して、狂気に襲われ、死にそうな目に陥った。

 

そして、1995320日、44歳の誕生日の朝、「地下鉄サリン事件」が起きた。それがオウム真理教事件の浮上であった。その朝方未明、寝床の中で、跳ね飛ぶくらい激しくブルブル震えた。後にも先にもそんなに震えたことはないほどの震えだった。30分ほど続いて、その震えはおさまったが、それがいったい何だったのかは今もってわからない。

 

その日の朝8時頃、地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の霞ヶ関駅付近の電車の中でサリンが撒かれた。そのことを知ったのは、お昼過ぎになってからだったと記憶する。

 

前日の夜、新宿にいた。遅くまで飲みながら友人たちと話をしていた。その翌朝、地下鉄サリン事件が起きたのだった。

 

44歳の朝、地下鉄サリン事件が起こった。その事実がわたしを揺さぶった。その年の117日、阪神淡路大地震が発生した。震源地は淡路島の野島断層だった。そして、神戸は直下型地震の大きな被害を受けた。

 

イザナギ・イザナミ二神の「国生み」の始まった淡路島で起きた地震で「神戸」が大きな被害を受けた。それをわたしは、「日本を根本から変えろ! もう一度、第二の『国生み』を行なえ!」というメッセージとして受け止めた。

 

だが、何をどうしていいか、わからなかった。3月初めに神戸を訪ね、住吉神社や生田神社や長田神社を訪問し、宮司さんや関係者にも会った。「ボランティア元年」と言われるほどの大きなボランティア活動の動きが起こっていた。その矢先の320日に、地下鉄サリン事件が起きたのだ。報道のモードは、その事件の方にシフトした。

 

「魔」を体験していたわたしは、オウム真理教やいくつかの宗教団体の活動に疑問と批判を持っていたが、このような事件の発生を食い止めることができなかったことにどうしようもない自責の念に襲われ、ノイローゼのような状態に陥った。どうしようもなく深酒が続いた。

 

自分には何もできなかった。そして今も、何もできない。いったい、おれは何をしているんだろう? 何のために、ここまでやってきたのだろう? なんの役割も果たさずにこのまま人生を過ごしていくのか?

 

自責の念と自問自答の中で、蟻地獄のような状態に陥り、そこから抜け出そうとあがいた。

 

1995320日、その日、国際交流基金からアイルランドに派遣されることが決まった。その日付の採用通知が321日か22日に届いた。わたしは、アイルランドに行かなければならない。ダブリン大学のケルティックスタディーズに客員研究員として行かなければならない。その年の7月に単身、アイルランドに出発し、199586日に、ダブリンからアラン島に移動して、人けのない難破船が打ち上げられている海岸で広島に原爆が落ちた時間に合わせて祈りを捧げた。海岸からB&Bの宿に帰る途中、海辺で「僕を吹いて!」と叫ぶ声が聴こえた。ハッと思ってそこを見ると、3つの穴の開いた石があった。それを手に取って、くちびるを当てて息を吹き込むと、ピーッと天にも届くかのような鋭く強い音が響きわたった。天からの贈り物のように「石笛」と出逢ったのだ。アイルランドのアラン島群のイニシュア島で。

 

ダブリンに戻り、ゴールウェイに移動してしばらくして、『宗教と霊性』(角川選書、19959月刊)を上梓した。本をゴールウェイのホームステイ先に送ってもらった。その本の表紙は、須田郡司氏と前年に行ったアイルランドのスケリグ島の写真で飾った。

 

何かをしなければ、という思いにかられながら、『宗教と霊性』の中で、阪神淡路大震災とオウム真理教事件のことを「魔」と「霊性」の観点から書いた。自分なりに、一つの答えを出した。自分なりに役割を果たした、と自分勝手に思っていた。

 

だが、そんなもの、なんにもならなかった。ボディブローのように阪神淡路大震災とオウム真理教事件の出来事が効いてきた。自分は何の役にも立っていない。

 

帰国後、神田古本屋街の北沢書店で、「石の宇宙展」という催しをやった。展示とトーク、セミナーの催しだった。そしてその流れで、1996年、1年間、「宗教を考える学校」をやった。その間に、大島の三原山噴火10年を記念してのシンポジウムとイベントで、「御神火と生きる」というシンポジウムと三原山の溶岩クレーターで大野焼き大会を行なった。野焼きの方は、近藤高弘さんを先達にし、三原山の山頂にある神社から聖火を採ってくる神主の役をわたしがやり、シンポジウムの司会を行なった。

 

それがきっかけとなり、「天河護摩壇野焼き講」を結成し、199723日の節分祭で最初の「天河護摩壇野焼き」を行なった。近藤高弘さんは、「行者」シリーズの2メートル近い作品を護摩壇の野焼きで焼いた。これまた凄い試みで、よくまあ天河大辨財天社の柿坂神酒之祐宮司さんが許してくれたものだと思う。

 

そして、1997年、4月にわたしは大宮市立大成中学校のPTA会長と創立50周年記念実行委員長に任命され、学校行事に関わり始めてすぐ神戸で連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)が起き、子供と同学年の少年Aが起こした事件だと知った。それをわたしは、「阪神淡路大震災の影響のもとで起きた子供の地下鉄サリン事件(オウム真理教事件)」と受け止めた。

 

これで、頭を木端微塵にかち割られてしまった。もう、捨て身になるしかない。あれこれ言っている場合じゃない。悩んでいる暇はない。ぐずぐずしてはいられない。すぐに実行せよ!

 

その秋、沖縄の喜納昌吉さんから電話がかかってきた。ある晴れた日だった。喜納さんは言った。「鎌田さん、神戸で何かやろうよ。鎮まっていないと思うんだよ。亡くなった人も、生きてる人も。何か、やらなきゃいけないよ。『神戸』から『神の戸』を開こうよ!」

 

そして、「神戸からの祈り」が動き始めた。喜納昌吉さんの電話を天の声だと思った。これに応えなければ、今までなにをおれはやってきたのか。

 

周りに呼びかけ、19982月、神戸で被災した大重潤一郎さんに埼玉県秩父市の公民館で上映された「光りの島」の上映会で初めて会ったのだった。

 

ここから、わたしの第二段階が始まり、「神戸からの祈り・東京おひらきまつり」を経て、「東京自由大学」と「神道ソングライター」の活動が始まったのだった。

 

「神道ソングライター」になったのは、19981212日、埼玉県浦和市の教育会館のステージで初めて3曲を歌った。「エクソダス」「探すために生きてきた」「日本人の精神の行方」の3曲を。

 

本年、2013年は、わが「神道ソングライター」15周年の節目の年になる。

 

そして、1998年の暮れに「東京自由大学」の準備を始め、1999220日に第1回目の立ち上げシンポジウム「ゼロから始まる芸術と未来社会」を発起人10人が出席して行なったのだった。それは、忘れもしない。問題の「バカヤロー!」発言が飛び出す、限りなく混乱に満ちた「東京自由大学」の産声であった。

 

 

 

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注(1)「東京自由大学設立の経緯 」について、19981231日、わたしは次のように書いた。

< 19984月のある日、陶芸家の川村紗智子さんから電話をいただいた。ギャラリーいそがやの代表の長尾喜和子さんが話をしたいことがあるとのことだった。長尾さんとは、以前一度お会いしたことがある。3年前、天河曼荼羅実行委員会が「宗教を考える学校」を開いていたときに、一度受講されたことがあったのだ。ルドルフ・シュタイナーにも関心をもたれ、興味深い展覧会をいくつも企画されていた。
お会いして話をうかがってみると、画廊の新しい企画・運営に協力してほしいということであった。そのときわたしは、「『宗教を考える学校』のような、短期間で終わる学校ではなく、もっと恒常的に続く学校をつくりたいのです。老いも若きも一緒になって、純粋に探究を志す者が集まって共に探求し実践していけるような学校をつくりたいのです」と年来の夢を語った。
長尾さんは、そんなわたしの夢におおいに賛同してくださった。わたしは一緒に夢を見ることのできる人と出会ったのだ。わたしたちはそのとき、宗教と芸術と学問の三つの分野をつなぎ、総合していくことのできるような学校がほしいと夢を語り合った。しかも、どのような一宗一派にもとらわれない、心底自由で、探究する喜びと創造性に満ちた学校をつくりたいと話し合った。わたしは神道で、長尾さんはキリスト教のカトリックであるが、二人ともこの時代に聖霊の力があまねくふりそそがれ、はたらいていることを実感していた。
53日早朝、突然、「東京聖心自由大学」という名称が浮かび、わたしは憑かれたようにワープロをたたき、「東京聖心自由大学設立案」を作成して長尾さんにお送りした。それを親しい友人たちに見せて意見を聞いた。そのとき書いた設立趣意書が、冒頭に置いた文章(「東京自由大学設立趣旨」)である。多少の加筆はしたが、そのときの構想はそのまま生きている。
そのときわたしは「聖霊」のはたらきを念頭において、あえて「聖心」という名称を考えたのだが、それではキリスト教的な観念に限定されたり、聖心女子大学とまちがわれるかもしれないことを配慮して、最終的に「聖心」の字を取った。だがわたしは、わたしたち一人一人が精神の一等深い内奥にひそむ「聖心」に目覚めることが大切だと今でも思っている。そしてそれは宗教や宗派に関係なく、だれのこころのなかにも存在する神性だとわたしは信じている。
5月以降、わたしは「神戸からの祈り」という催しに深くかかわり、その実施に追われて、自由大学の準備をすすめることができなかった。10月にひとまず一連の行事が終わって、一息ついたので、ようやく設立に向けて動き出すことができるようになった。
そこで1118日に、それまでに自由大学について協力を約束してくれていた長尾喜和子さん、画家の横尾龍彦さん、香禅気香道の福澤喜子さん、「神戸からの祈り」神戸実行委員長で映画監督の大重潤一郎さん、同じく「神戸からの祈り」東京実行委員長で早稲田大学社会科学部教授の池田雅之さん、西荻WENZスタジオ代表の平方成治さん、それにわたしの七人で設立についての話し合いの機会を持った。設立趣旨、理念、姿勢、方向性、方法、組織、運営などについて、自由に意見を交換した。そしてそこでの合意をもとに、全員一致して横尾龍彦氏を学長に推挙し、新たに、作家の宮内勝典さん、山形大学理学部教授の原田憲一さん、陶芸家の川村紗智子さんに設立発起人に加わってもらい、十人の発起人により設立を呼びかけ、多くの方々の参加と協力を募ることにした。
こうして、1226日、設立発起人と協力してくれる賛同者22名が集まり、自由な意見の交換会を持った。そこで、NPO法にのっとって非営利組織として活動していくことを確認し、新しい市民運動としての学校づくりをみんなが参加して行っていこうと話し合った。
そして、1999118日、ワークショップ形式の定款づくりをすることにした。みんなで知恵と力を出し合って、自分たちの望む、自分たちでできるボランタリー・スクールをつくることにしたのである。この市民参加型の東京自由大学は新しいタイプの学校になる とわたしは思う。それはとても柔軟で現実的な学校になるだろう。そして何よりも創造的であることを大切にする学校になるだろう。批評ではなく豊かなる創造を!単なる批判ではなく現実と関係性を 変えていくおおいなる創造を!
東京自由大学のカリキュラムについては、まず発起人有志がそれぞれに自分のやりたいテーマと方式で個別ゼミ(定期講座)を受け持ち、また発起人有志複数で合同講座を担当する。そして、発起人各位の豊富な人脈を生かして、それぞれの分野の第一線で活躍している研究者や芸術家や実践者を招き、講義やワークショップを持ちたいと考えている。それぞれの先達が切実な問いかけと真剣な冒険に満ちた探究の末に獲得した成果を、この時代を真剣に生きようとしている人々の前に永遠なるものからの贈り物としてダイレクトに差し出してほしいと願っている。
わたしたちは人間の経験とそこから汲みとられた叡知を信頼したい。それこそが人間を根底からつくり変え、変容と成長に導く力だと思うからだ。叡知なき力は危険であり、力なき叡知は空虚である。
東京自由大学のカリキュラムについては、わたしたちは五つの柱を打ち建てたい。

 (1) 日本を知るコース:わたしたちはどこからきたか?歴史の認識
 (2) 社会を知るコース:わたしたちはどうしているか?世界の洞察
 (3) 宇宙を知るコース:わたしたちはどこにいるのか?自然の叡知
 (4) 芸術・創造コース:わたしたちはなにができるか?創造の秘密
 (5) 身体の探求コース:わたしたちはなぜうごくのか?身体の発見
そして、その五つのコースすべての根底に、古代ギリシャ最高の聖地デルフォイのアポロン神殿の正面の額に掲げられた格言、「汝自身を知れ!」という命題が鳴り響いている。つまり、すべての探究が「自分自身を知る」という一点と切り結ばれるのである。
弘法大師空海はくりかえし『大日経』の聖句「如実知自心」を引用し、また『般若心経秘鍵』の冒頭で「それ仏法は遥かにあらず、心中にしてすなわち近し」と宣言したが、自分自身の心を知ることのなかにおおきな秘密があることを洞見していた。

これら五つのコースに関し、発起人の内、主に、鎌田東二が(1)日本を知るコースを、池田雅之が(2)社会を知るコースを、原田憲一が(3)宇宙を知るコースを、横尾龍彦と大重潤一郎が (4)芸術・創造コースをコーディネイトする予定である。(5)身体の探求コースの担当者は今は特にいないが、いずれ適任者が現れるだろう。
わたし自身は4月から、原則として、第4週の金曜日の19002130まで新橋のギャラリーいそがやで「宗教と文学」のゼミを月1回のペースで開くつもりである。また、他の発起人と共に月1遍かふた月に1遍、共通のテーマを定めて合同講座を持ちたいと思う。とにかく、できるところからやり始めたい。
こうして、東京自由大学は、それぞれが一隻の船に乗って、知と天然の大海に航海していくような、塾でもあり、大学でもあり、結社でもあるような、冒険的な移動漂流教室を共に創造していくこと をめざしている。そしてその探究がこの時代の志を同じくする人たちとの友愛の共同体を力強くかたちづくっていくことをこころから願っている。
友愛を共同化していくためには、世代間の連携が必須になる。幸い、発起人十名のうち、70歳台が横尾龍彦学長を始め二人、60歳台が一人、50歳台が五人、40歳台が一人、30歳台が一人、と世代的ばらつきがあり、特に事務運営の中心をなす事務局長に30歳台の若く活動 的な平方成治氏に就任してもらい、さらに若い世代への橋渡しとなってもらった。まさしく老若男女の共同作業がこれから始まるのである。ぜひ多くの方々に会員となって、あるいはボランテイア・スタッフとして参加していただきたい。そして、自分自身と自分の属する社会を自分たちの手で成熟進化させていきたい。
最後に、この東京自由大学は、かりに地震や災害やさまざまな事件など起こったときに、お互いに見も知らない者同士でも助け合い、 支えあっていくことのできるような互助組織でありたいと思う。ひとがあらゆる垣根を取り払って互いに助け合い、支えあっていけることを阪神淡路大震災はわたしたちに教えてくれた。わたし自身は、この時代にそれぞれ一人一人が内なる観音力を発揮することができた ならば、人間も社会もおおいなる成熟と進化をとげることができると信じている。共にわれらが心中に宿る観音力を行じようではないか。
東京自由大学は、わたしたちの夢を現実に実現していく共同の作業場なのである。19981231日  鎌田東二

【NPO法人東京自由大学のHPに掲載】

 設立発起人(10名、肩書きは当時のもの)
鎌田東二(東京自由大学教頭、武蔵丘短期大学助教授・宗教哲学)
横尾龍彦(東京自由大学学長、画家)
福澤喜子(東京自由大学顧問、香禅気香道、感性塾主宰)
長尾喜和子(東京自由大学顧問、ギャラリーいそがや元代表)
池田雅之(早稲田大学社会科学部教授)
宮内勝典(作家)
大重潤一郎(映画監督)
原田憲一(山形大学理学部教授)
川村紗智子(陶芸家)
平方成治(東京自由大学事務局長、西荻WENZスタジオ代表)


 

 

鎌田 東二/かまた とうじ

1951年徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科神道学専攻博士課程単位取得退学。岡山大学大学院医歯学総合研究科社会環境生命科学専攻単位取得退学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授を経て、現在、京都大学こころの未来研究センター教授。NPO法人東京自由大学理事長。文学博士。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを専攻。神道ソングライター。神仏習合フリーランス神主。石笛・横笛・法螺貝奏者。著書に『神界のフィールドワーク』(ちくま学芸文庫)『翁童論』(新曜社)4部作、『宗教と霊性』『神と仏の出逢う国』『古事記ワンダーランド』(角川選書)『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫)『超訳古事記』(ミシマ社)『神と仏の精神史』『現代神道論霊性と生態智の探究』(春秋社)『「呪い」を解く』(文春文庫)など。鎌田東二オフィシャルサイト