人生の転機
「久高オデッセイ第三部 風章」制作ノート04
大重 潤一郎
先日、東京自由大学にて「能勢」という映画の上映会を行った。1972年、まさに高度成長期の最中、大阪府最北端に位置する能勢で撮影した映画であった。能勢に暮らす人々の記録として撮影をしていたが、一般公開はされずに今日までいた。私自身、映像のデータは既に失われたと思っていたのだが、半年程前にスタッフの一人が、使われていないパソコンから「能勢」を始め、いくつかの映像を発掘してくれた。脳梗塞以降、記憶の持続が困難な私にとっては驚きであり、喜びでもあった。そして、東京自由大学理事長の鎌田東二さんの提案によって、昨日の上映会が実現した。20代30代の仕事がこうして蘇ることの喜びは何にも代え難いことである。
更に、10月末に新たなる朗報が入った。「能勢」の翌年に撮影をした「かたつむりはどこへいった」という映画の現存が確認されたということであった。この映画では、伊丹市からの依頼で猪名川、伊丹空港、尼崎産業道路などを訪ね、高度成長期の影で発生している公害を追ったのだった。完成と同時に、他の行政から公開反対の声に巻かれるようにお蔵入りしていた。
当時はもちろん、16ミリフィルムで撮影をしていた。フィルムというのは、きちんとした湿度管理をされていなければ20年で退色し、酢酸の匂いが発生し腐食し始める。記憶の片隅にはあったものの、蔵の中で埃に埋もれ、もう光を浴びることはないだろうと、完全に諦めていた作品であった。
それが見つかったという報せである。役所の誰かがフィルムからビデオに変換し、作品の命を現在まで延ばしてくれていたのだ。話しを聞くと、三年おきくらいに、小さなグループでこの映画を見ていたらしい。自分の知らないところで映画を見て、受け継いでくれていた、その光景は雲間から指す一筋の光のように神々しい出来事である。
その朗報から数日後、DVDとなって沖縄へ届いた。是非、近い日に公開していきたいと思っている。
今回は、人生の3つの転機について記す。それは、自らの頭で考えたときのことではなく、内なる声が聞こえたときである。
一つ目の転機は、高校を卒業する頃にあった。当時、進学について考えていた。世間では大学紛争が真っ盛りの時であった。「進学」という形には躊躇をし、鹿児島の自宅のベランダから、目の前に広がる桜島と空を眺めていた。すると、「映画の撮影現場に入るべきだ」といううちなる声が聞こえてきた。当時、映画の現場に入ることは難しいことであったが、自分の中にあった執念によってその夢を叶えた。
二つ目の転機は、1988年に突然劇症肝炎を患った時だった。しばらくの入院生活の中で生死をさまよっていたとき、脳裏に先祖が現れた。今でも、鮮明に覚えている。
「いつまで自分の好き勝手なことをしているんだ、お前の中に、おれたち(先祖)もいるんだ」
という言葉だった。自分だけの命ではなく、先祖から繋がっている命なのだと、初めて認識した。自分の仕事は祖先とともに喜べるものとしてあるべきだと思った。この思いから、翌年の1989年に先祖が活躍していた大阪の地に活動の拠点を移した。
新しい事務所の近くに大阪・中之島があり、その川向こうの川堀に土佐藩と薩摩藩の倉庫があった。かつて海・川を伝って運ばれてくるものを積み降ろしする場所の名残の倉庫だった。
その倉庫を眺めながら、鹿児島・奄美・沖縄方面へ思いを馳せることが度々あった。そして、1983年から1986年まで撮影していたフィルムを、1995年の阪神淡路大震災後に神戸にて編集したのが「光りの島」「風の島」であった。
「光りの島」「風の島」が完成した後も、沖縄から出生の地・鹿児島県坊津まで島々を廻った。600枚に渡る旅の記録は「道の島・北行き」という写真集にまとめた。祖先とともに歩く道中であった。
三つ目の転機は、久高島との出会いだった。
18歳から東京・大阪という都市で仕事をしてきたが、どちらも次第に懐かしい景色は消え、刻々と近代的な街へと変貌していった。2000年、都市を離れ沖縄へ移った。沖縄、いや具体的に久高島は、かつてから気になっており、思い崇めていた島へ意識が向いていた場所であった。引越後、闘病中であった写真家・比嘉康雄さんから電話があった。最後の遺言を撮影してほしいと依頼の電話であった。梅原賢一郎氏と訪ね、その映像は「原郷ニライカナイへ」という映像作品に納めた。
比嘉さんはその約5日後に亡くなり、久高島との縁が切れてしまったのだが、どうしても久高島を去る気がおきなかった。腰を下ろしてこの島のことを知りたい気持ちが自分の意識の中に確固と起こり、12年かけて久高島を撮影する意志を決めた。そして、今に至る。
詳しい拙者の経歴は、須藤義人さん(映像民俗学・久高オデッセイ1部2部助監督)がまとめてくれた。是非、こちらのホームページもご覧下さい。
1968年、大阪万博が開催された。あの頃、日本は劇的な変化へと向かい、繁栄した。世界が明るくなった。しかし、その明るさのエンルギーは今の消費量の何百分の一だった。進化を経験すると、人間はどこかで程を失ってしまうのだろう。
私は、命の未来を見つめている。そこで必要なのは、本当の自分の声を直感的に聞くことである。自分を飾るものではなく、素っ裸の自分の声に従うことだろう。そこから道が始まるだろう。
(インタビュー・文責:高橋あい)
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いくつかのおしらせがあります。
「風の島」がDVDになりました。今回、商品化するにあたり、
大重 潤一郎/おおしげ じゅんいちろう
映画監督・沖縄映像文化研究所所長。NPO法人東京自由大学副理事長。
山本薩夫監督の助監督を経て、1970年「黒神」で監督第一作。以後、自然や伝統文化をテーマとし、現在は2002年から12年の歳月をかけ黒潮の流れを見つめながら沖縄県久高島の暮らしと祭祀の記録映画「久高オデッセイ」全三章を制作中。久高オデッセイ風章ホームページ